「
楕円をば 惰性で描く ダサい叔母 怠惰抱きつつ つつがなき縁」、「正円を 描き唱える 正論に セイロン紅茶 かけて茶化せば」、「ちゃっかりと 奪われ知るや うっかり屋 躁を借りたし 鬱は売りたし」、「「そうかいな」 蒼を腕(かいな)で 掻く心地 そは爽快な 青き空海」

3月17日の午後、家内と自転車を連ねて嵯峨のスーパーに買い物に行く途中、中ノ島公園で錆びた鉄色の巨大な立体作品が目に入った。後方の家内は筆者より20秒ほど前に気づいていて、筆者の眼が節穴であることを嘲笑した。確かに筆者には鈍感なところがある。それはともかく、カメラを持っていたので早速自転車を停めて撮影した。たくさん撮ったので「その3」まで続けるつもりでいる。このヤノベケンジの作品は、
3年前の5月3日に大阪グランフロント前の広場で遠目に見たことがあり、ブログにその写真を投稿した。今回の展示は1点のみで、また以前とは違って間近で見た。なぜこの作品が嵐山の渡月橋近くに設置されたか。筆者が最初に思ったのはこの作品の多くの突起がコロナ・ウィルスを想起させることだ。その思いが正しいことはネットにある説明からわかる。「光冠茶会」や「渡月藻庵」という造語は意味不明で、その意味で現代美術にふさわしい。それに、漢字を並べた感じが古都には似合うと考えられたのだろう。「光冠」を「コロナ」と読むことを筆者は初めて知ったが、「光環」ではなかったかと思って今調べると、どちらでもいいようだ。「冠」は頭の上にあって視覚的には一面的だが、「環」は全体を覆うコロナをうまく形容しているので、同じ「コウカン」でも「光環」がよい。とはいえ、「光冠を 交換するは 光環ぞ 好感増すが 巷間無視す」で、ほとんど誰もこの文章を読まず、また過ぎ去ったことにあれこれ言っても始まらない。この作品の展示は市民新聞で予告があったのだろうが、筆者は見ていない。3月18日から21日までの展示で、桜が満開になる前の時期が選ばれたのは、多くの人に見てもらいたいのに、コロナで人の密集を避けたかったからか。筆者が見たのは17日の午後遅くで、おそらく作品は午前中に運ばれ、クレーンを使って組み立てられたのだろう。組み上げの様子を見たかったが、解体日でもいいかと思い直し、21日の午後遅めに出かけたところ、解体撤去は翌日に持ち越されると聞き、結局筆者は撤去の様子を見なかった。運搬組み立てに税金が投入されたと想像するが、作品の保存はヤノベが倉庫を借りているのだろう。これほどの大型作品となると保管は大変で、現代美術は資金豊富でなければ取り組む抱負は生まれにくい。人間と同じで、作品は金をかけただけの見栄えはある。材料費に乏しい場合は超絶技巧を見せることだ。どちらも内容の薄い作品は存在するが、前者は迫力はあっても意味不明、無意味と受け取られやすい。もっとも、後者は目立たない分、無視されやすい。

今日の写真を撮った翌日の夜、「風風の湯」の常連の間でこの作品が話題に上った。85歳のMさんは淡路島出身らしく、「あのサザエの形をした作品はあそこにずっとあるのかな」と言った。筆者は即座に否定し、4日間だけの展示であることを説明した。サウナ室ではもうひとりのMさんが、「あんなわけのわからんものを展示する金を京都市が出しているのなら、コロナで困っている人に分けるべき」とえらく剣幕で、他の常連も含めて誰もヤノベケンジの名前を知らなかった。それが世の中というもので、現代美術に少々の関心のある者は変人扱いだ。少数派が変人の烙印を押されることは正しい。変人が大多数であれば世の中はうまく回らない。とはいえ、少数の変人がいるおかげで話題が生まれ、それをだしに人は楽しむ。手仕事があたりまえであった時代は手作業に対して尊敬の念があったが、日々の食べ物の多くが工場製品となった今、美術作品も工場で作らせることが不思議でなくなった。ヤノベケンジの作品はそのことを象徴している。彼は小さな模型を自分で作り、後は設計図を工場に送って職人に作らせるのだろう。ガウディが設計したバルセロナの有名な教会も同じで、芸術家は自ら全部を作る必要はない。ただし、そういう身分に達するには、ガウディのように有名でないのであれば資金を豊富に持たねばならない。資金豊富は成功者の証しで、成功者は指先をわずかに動かすだけで金を生む錬金術を手に出来る。今はそういう連中はネット世界に生息し、そこでは昔のような手先の技巧を披露する必要はなく、人々は目と耳と頭だけで交信し合う。つまり手仕事によって頭脳が発達して来た歴史が今世紀に入って激変のさ中にあり、千年経たずに人は目と耳が拡大し、指は左右で4本くらいに減るだろう。不要なものは失くして行くのが進化だ。そこで忘れてはならないのは、金のない人でも芸術をやりたがるという本能だ。そういう人はヤノべケンジのような工場作品は手がけられないので、紙や鉛筆といった安価な材料で小さな作品を作ろうとする。またそうした小さな作品は金さえあれば工場に発注して巨大作品に拡張、また複数生産出来るので、侮れないどころか、芸術の原点だ。そして誰でも紙と鉛筆は手に出来るので、競争相手は多く、超絶技巧はますます求められる。それは指先が敏感に動くことであって、5本指は必要だ。比較的貧しい人が多い状態は今後も絶対に続くはずで、人間はネット時代がさらに進んでも、芸術がある限りは指を動かし、そのことで思考を研ぎ澄ます。これは音楽でも同じだ。それで筆者はTVのクイズ番組で頭のよさを称えられる東大生や、YouTubeで適当なことを話すだけの口先有名人を何とも思わない。彼らは手を動かして独創的な作品を作ることに関心がない。それは芸術不要を言うそこらの大多数の退屈な人と変わらない。

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