「
褒められて 嬉しがる子に 笑み返す」、「素直な子 砂粒数え 日が暮れて」、「旅に暮れ くたびれた彼 首垂れて」、「垂れた首 もたげてもげる 老いの果て」

2月28日、高槻市内にある吉本豊の作品を見て回った順に投稿して来たが、今日はその最後だ。市内には氏の作品はほかにもあるかもしれないが、今日までの投稿でおおよそ作風はわかるのではないか。いずれも誰でもいつでも見られる環境下にあり、設置場所は野外美術館として機能し、とても好感が持てる。京都市内には清水九兵衛作の赤い色の鉄の大型彫刻が各地にあるが、どれも公共の建物の前面に置かれ、無機質性と威厳さが際立って笑みを誘うようなものでは全くない。それはそれで芸術の一面だが、作家が作品の小さな模型つまり雛型を作り、それを工場の職人に大型に拡大させる手法に頼ったことによる、九兵衛彫刻の建築と同様の持ち味は、芸術作品に作家個人の手技による味わいを求める人には歓迎されないだろう。ところが、作家が弟子を抱えることはよくあって、弟子に造らせる部分がかなり多くても師匠の作として通用する現実はあるから、作家独自の手技を尊ぶことにも曖昧さは混じる。九兵衛が掌に載る作品模型をたとえば数百作っていたとして、彼の没後、誰かがそれをメモなどの残された資料とともに大型作品として造る場合、厳密には九兵衛作品ではないが、彼が生きていた間に実現化した大型作品と区別がつかない見栄えを持てば、内情を知らない者は九兵衛作と思うはずだ。そうなると作家は望みの大型作品が実現化せずとも雛型のみ作り続ければいいことにもなる。筆者はそのことをほとんど半世紀前に考えて本職の友禅キモノの小下絵をせっせと描いた。それはそうした雛型どおりに実物のキモノを染め上げるのにだいたい3か月は要するためで、人生で何百も作れず、せいぜい数十だ。それで筆者の考えたことは多くの雛型を描くことで、それを元に筆者でなくても誰か技術のある者がキモノとして拡大制作出来ると考えたのだ。ところが一方で筆者は作品ごとに技法や工程を変えることに挑み続けて来たから、ある1枚の雛型からどういう技法と工程でキモノが作られるかはおおげさに言えば数十とおりもある。そしてそれらはどれも一見同じ作品のようでいて、近くで見れば全部違うので、1枚の雛型は完成作を限定しないことになり、やはり手技が必要という思いに筆者は立っている。それで、九兵衛の鉄の巨大な抽象彫刻とは違って、吉本豊の石の彫刻は人間的な温かみがあり、笑みを誘うと言いたいのだが、同じく野外に設置される作品として、九兵衛の作は表面が腐食を避ける塗装その他の特殊処理を施されているのに対し、吉本の作は剥き出しの石のまま、しかも触れることが出来る場に設置されているので、風化や破損の可能性はより大きいだろう。そのことも念頭に氏の作品の形は丸みを帯びているだろう。

今日紹介する作品は阪急高槻市駅南西、高槻警察前の大通りを挟んで北側、城北郵便局前を中心としてある。郵便局が発注したものと思うが、特定郵便局とすれば、またそう想像するが、その所有者の住居は北隣りだろう。今日の3,4枚目の写真のように、その民家前ぎりぎりにも置かれるからだ。郵便局は元は道路ぎりぎりに建っていたのが、建て直しの際の建蔽率のために郵便局と家の前を広くする必要が生じ、それでは間延びするので、所有地を主張する意味合いでも彫刻を設置したのではないか。京都の中京は道が狭く、こういう彫刻を置く場所はとても確保出来ないが、代わって大きな丸みのある石がよく置かれている。車避けの意味合いからだが、歩行者が入り込まないようにとの思いもある。城北郵便局前の彫刻はいわばその京都市内では馴染みの置石を見栄えのよい彫刻にしたもののような雰囲気があり、若者がスケートボードで遊びにくくもなっている。また、歩道が高槻市の所有であれば、市が発注したかもしれない。現場は市内でも最も古くて重要な地域の一画で、市としては市の顔になる場所であるので、憩い、潤いのある芸術作品を設置しようということになったのかもしれない。市民新聞でそのことは告知されたと思うが、芸術に関心のある人はごく少数派で、設置されても気づかないか、気づいてもどういう経緯で設置が決まったかについて疑問、関心を持たないだろう。およそ40メートルの間に、南から順にチェロ奏者、ホルン奏者(これは背後から撮った)、管楽器か鍵盤ハーモニカ奏者、そしてシーソーのように向かう合うアコーディオン奏者とその聴き手、かたつむり2匹と膝を抱えて坐る人という、おおまかに見て全5体が設置されている。かたつむりが這う作品はのんびりさや石彫りの遅さを表わして面白いが、二次元を這うかたつむりを題材にするところにも、氏の作品の浮き彫り性が見える。楽器を奏でる人物像はザッキンを思わせるが、吉本氏の作品はもっとずんぐりしてユーモラスだ。ところで、富士正晴の本に『日本の地蔵』があって、それによれば平安朝の京都には今でも田舎にはある男女和合の像が辻ごとにあったとされ、またその像や徐々に地蔵像に置き換わって行ったとある。時代に伴なって街角の石像に変化があったというその話を、吉本氏の相生地蔵につなげると面白い。再開発によって町の様子が大きく変わり、古い地蔵像は行き場を失いつつあるが、何らかの石の塊は街中には必要で、それがたとえば吉本氏の彫刻になっている。男女和合から地蔵、そして現代の芸術家による作品と変わって行くとして、祈りがどのように伝達されるかとなれば、信仰の自由がある今は難しい問題だ。そこで吉本氏はたとえば具象ではあやつり人形や親子像、楽師、和む人を彫るが、それらは間接的に祈りに通じていて、その意味で日本の町中に置かれて来た石像の伝統に連なっている。

5体は発注者の大盤振る舞いと言ってよいが、郵便局が昭和時代ほどには利用されない時代であるので、これらの彫刻に馴染む人は周辺の住民に限られるかもしれない。撮影しながら思ったが、市役所前はどうか。清水九兵衛の作品が京都市内のあちこちにあるからだが、晩年に六兵衛を襲名した九兵衛ほどの名声ないし家柄でない限りは、市を代表する大きな建物に飾られるモニュメントの制作依頼は難しいか。他の作家のやっかみも入り込むし、税金で制作を依頼することはけしからんという意見もあるだろう。そう思うと5体は充分過ぎるほどで、よくぞ設置した。市内の歩道にはこれ以上多く設置される場所はないと思うが、病院や学校、保育園、会社などの敷地内にありそうで、実際ネットで高槻市以外の大阪府下に設置にされていることがわかる。価格は大きさによるはずだが、
「その2」に紹介したクリーニング店の壁際にあるものならば、土台を別にした本体の石代は50万円しないはずで、作品価格は100万円ほどではないかと想像する。それを基本に城北郵便局前の5体の価格を想像すると軽く1000万円は超えるが、工場製品の材料を組み立てるだけの近年の住宅の価格を思えば安いものだ。とはいえ、そこには必ず芸術は生活上必須ではなく、そんなものに金をかける考えがわからないという人口の99パーセント以上を占める凡人の凡な考えがあって、かくて吉本氏の彫刻が郵便局前にあることが筆者には奇蹟に思えるが、歩道上の彫刻群は高槻市の文化度を示していて、道頓堀にあるようなこれ見よがしの店の立体看板にはない地味なる滋味にしみじみとした情緒を感じる。郵便局前のシーソーに似た作品は、石像とその土台、そして石像をつなぐ長いベンチ状の石に分けられるが、実際にベンチとして機能し、尻が収まるように5つほどの凹みがある。炎天下ではそこに座ることは苦痛であるので、すぐ際に日陰を作る大きな木の植え込みがあればなおいいが、都会では落葉の清掃が手間で嫌われる傾向にある。それはともかく、この石のベンチを兼ねた彫刻は、市民の批判を交わすことに機能する。芸術は触ってはならず、またそれゆえになくてもいいものと考える人は多いが、誰もが座れるベンチとなれば無用の物ではなくなる。そこで石のベンチは割合よくあって、兵庫県立美術館では館内の直方体のソファと全く同じ形をした石のベンチが館前の歩道際にいくつかあるし、それは座面がなだらかな曲線を描き、彫刻作品のように印象深い。同じようなベンチは嵐山の「風風の湯」の玄関前にもひとつある。背後は樹齢が半世紀を超す桜が何本か立ち、落葉を誰も気にしない。「風風の湯」の玄関前の植え込み内にでも吉本氏の作品があればいいが、誰もが注目するほどの大きな作品となれば経営者は金を出さず、小さな作品であれば誰も意識せず、芸術はいろいろと難しい問題が立ちはだかっている。

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