「
拍手は 柏手のこと 贋でなし」、「店が待つ 桜と客の 満開や」、「まんぼうの のんびり顔の コロナ無視」、「虫殺す 男の顔に 蜂の針」

今年も桜の写真を撮ったので、数回に分けて投稿する。まずは造花の桜。春先になると商店街やスーパーの店内に造花の桜を見かける。何年か前に桜の造花に着目して何度か投稿したことがある。桜の造花は遠目には本物と一瞬見紛う場合があるが、飾られている場所が造花ならではであって、造花と知りながら本物らしいと思うところに面白さがある。客寄せが目的で、本物のように咲いてすぐに散ってもらっては困るから、ある程度は丈夫な造花でなくてはならないのだが、本物がすっかり散った後にまだこの造花桜を見かけるのは、痛々しさを感じ、むしろ目を背けたくなる。このことは厚化粧をして若作りしている高齢の女性に通じる思いかもしれないが、造花を造花としてわかって楽しむことからすれば、高齢の女性が若作りしているのを見ても、痛々しい思いを無意識に抑えてその目立ち具合を、賛美とまでは言わないが、素直に受け入れることは出来る。人間を造花にたとえることはひどいかと言えば、今はアニメ、人気のある人形といった、極限まで単純化した意匠的な美を模倣する若者が増加し、筆者には彼らが造花に見える。これは精神を無視している、あるいは誰もが持つ個性を殺して誰もが知るアニメや人形のイメージに同化しようとする態度や思いが露わになっていると思えるからだ。人間と動物の最大の差は道具を使うかどうかだ。その道具の最大の進化形態がスマホとなった今、人々は指ひとつでスマホ上の現代の「ICON」に限りなく同化出来ることになり、それと同時に自分の個性の創造を忘れ、模倣してフェイクの存在であることに満足するようになっている。それは誰もがその気になれば出来ることであるから、フェイクに個性が宿り得り、それを歓迎する時代になっている。物真似芸人がその一例で、模倣される側が持つ本来のアウラとは別に、模倣する側にもアウラがあることを認め、それが贋物とはあながち言い切れない事態も生じて来ている。複製芸術について考察したヴァルター・ベンヤミンが生きていれば、現代のこの模倣文化をどう分析したか。それはさておき、今日の最初の写真は先月4日、2枚目は25日の撮影で、どちらも嵯峨のスーパーに向かう途中、嵐山中ノ島公園内の食堂前撮り、最初の写真は左端に家内の後ろ姿を写し込んだ。筆者はしばしば同じように撮影しているが、家内はそのことをほとんど知らない。4日は桜が咲かずに造花桜のみが目立ち、これはこれで面白い。25日は背後の満開の本物桜に混じって造花桜が馴染み、コピーやフェイクが溢れ返る現代を象徴していると筆者には感じられる。これを、「本物は一瞬の命、贋物はいつまでもはびこる」と捉えるのは間違いで、実際はそう見えて全く逆だ。「四月馬鹿 嘘も贋物 ほんとだね」

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