15日に大阪で見た。「パウル・クレー・センター開館記念」と銘打たれている。クレー展は日本では人気のある画家で、ほとんど毎年のように開催されている。今回は今までとは違ってスイスにZENTRUM PAUL KLEE(パウル・クレー・センター)が開館したことを宣伝する目的がある。
ついにと言えばよいか、この巨匠にふさわしい作品の永住場所が出来て何だか嬉しくなる。クレーのように、小さいサイズの作品がほとんどの場合、世界中に散らばって所蔵されるよりも、むしろひとつの場所に多くまとまるのは理想的であろう。もちろんクレーの作品は世界中にあるが、クレーの子孫が尽力して建てたこのセンターが最大の収蔵数を誇る。今回は同センターから初めて貸し出された作品70点が並べられた。クレー展の規模としては小さめだ。筆者がクレーですぐに思い浮かべるのは、1969年10月に大阪市立美術館で『パウル・クレー展』を見た時のことだ。土曜日に学校からの帰り、バスを乗り継いで天王寺まで行き、そこで4時頃まで見た。雨が降っていたためもあるのか、館内は筆者以外に誰も鑑賞者はいなかったように思う。係員すら少なかった。当時の同美術館は現在と外観は変わらないが、内部はうす暗くて多少老朽化が進み、陳列ケースも見すぼらしくなっていた。200点近いクレー作品は額縁も細くて貧弱なものが大半であったように思うが、それらが陳列ケースに入っているとはいえ、間近で鑑賞出来るのであるから興奮した。絵具の照りや紙を台紙に貼った糊跡など、クレーの手技がそのまま視覚にびんびんと響いた。図録は500円で、今手元にあるが、その後20年近くも売れ残り、美術館に訪れるたびにまだ在庫があることに少なからず心を痛めたものだ。大阪に限ったことかもしれないが、クレーの人気は80年代まで大きくはなかったと思える。美術館からの帰り、雨の中またバスに乗ると、中学3年生の同級生Nが乗っていた。どこへ行って来たかと聞くので、パウル・クレー展と言うときょとんとしていた。Nは美術系の大阪では歴史ある有名な学校に通っていたのに、学校から近いところで開催されているパウル・クレー展を知らないのだ。美術を目指す者がそんなことでいいのかと幻滅したが、大体そんなもので、美術学校に行くことなどただの暇潰しみたいなものだ。
1969年のパウル・クレー展は日本で2番目に開催されたものだ。最初は1961年10月に東京の西武ホールで開かれた。それは筆者が10歳の時であるし、関西に巡回しなかったので当然見なかった。だが、後に図録は入手した。その100点の出品は69年の展覧会とはだぶりも多少あるが、珍しい作品がちらほらあって、杉浦康平が担当する装幀とレイアウトは洒落た感覚がみなぎって楽しい。69年展の図録と比べて重量は数分の1でサイズも小型だが、これでも充分と思わせる。日本におけるクレー展が年々豪華さを増し、昨今では分厚い電話並みのものが作られている。だが、もし1冊を選べと言われれば筆者は61年のものにするかもしれない。印刷や造本が立派になるのはそれはそれでけっこうなことだが、いくら印刷が精巧になっても中の絵の本質は変わらないし、それなら粗末な印刷から実物の素晴らしさを想像する方が楽しいような気もする。その意味で、今までたくさんのクレー展を見て来たが、いつでも記憶が立ち帰るのは雨の日にひとりでじっくりと見た69年展だ。そこで思い出されるクレーの絵は、繰り返すが、額縁が粗末で展示室も古ぼけていて、しかも何となく雑然と並べられていたために、ほとんどクレーのアトリエを思わせた。つまり生々しかった。ただし、絵は蛍光灯で下から照らし出されて光量は充分であったが、逆に言えばそんなに近いところから強い光を当ててもいいのかなと思わせた。なぜなら、今回の展覧会では絵に当てる光度は50ルクスだったか、かなり低めに落とすことが条件になっていたからだ。69年当時はまだそんなことはなかったと思う。クレーは1940年に亡くなった。61年はまだ没後20年だ。しかも日本は高度成長をしていなかったから、そんな中でのクレー展は現在のように立派な明るい美術館でゆったりとした間隔を持って並べられるのと違い、もっと生の印象が強かったはずだ。作品は変化はしていないが、クレーの生きた時代から遠ざかるにつれてクレーの本質も違って見えて来ている気がする。研究が深まった恩恵もある一方、感じ取れなくなって行く部分もあって、それは仕方のない、また当然のことであるのでここでわざわざ書くほどのこともないが、結局言いたいのは、自分にとってのクレーは1960年代に原点があって、それが今紹介されるクレーとはどこか違っているということだ。たとえば今回は朝から出かけたにもかかわらず、人が多く年配者も目立った。そんな人々は同じ大阪で69年に開催されたクレー展を知らなかったのだろうか。この40年近い間に日本が豊かになって、人々の芸術に対する関心も高まったと手放しで喜んでいいのかどうか疑問に思うところだ。
さて、クレー・センターだ。建設は1960年代から議論され続けて来たか、関空を設計したイタリア人建築家のレンゾ・ピアノが設計し、ベルン市東の小高い丘ショーングリュンに建てられた。センターから150メートルの霊園にはクレーの妻リリー・クレー=シュトウンプフが眠っている。クレーの死後6年にリリーはベルンで亡くなったが、息子フェリックスはドイツ兵捕虜としてシベリアに抑留されて生死が不明であった。フェリックスの子アレクサンダーはパウル・クレー没後4か月の1940年10月に母の祖国ブルガリアのソフィアで生まれた。その1年後、母親は戦火をくぐってドイツに戻り、やがて父フェリックスが帰還して家族はひとつになった。そして1947年にベルンに移住するが、父のかなりの作品がアメリカに売却される状況にあることを知って「パウル・クレー財団」を設立し、全作品を家族と財団の管理下に二分した。日本で今まで開催されたパウル・クレー展の多くはこの財団から作品を借りたものだ。ベルン在住の世界的に有名な人工骨の開発者、外科医のモーリス・ミュラー博士が、クレー・センター建設の資金60億円を提供することを申し出て、2001年6月に着工、12月に上棟式を行なった。レンゾ・ピアノとミュラー博士は友人関係にあり、そのことでレンゾは設計の依頼を受けた。開館は2005年6月で、建設費は大幅に上回ったとされる。同センターにクレー作品をアレクサンダー・クレーは850点永久貸与し、アレクサンダーの母リヴィア・は650点を寄贈した。リヴィアはバウハウス2代目学長ハンネス・マイヤーの娘であるそうだが、パウル・クレーはバウハウスの教授であったから、そんな縁もあって血縁が出来たのだろう。2001年にスイスで国民投票が行なわれ、79パーセントの賛成によってクレー・センターの運営に公費の使用が承認され、市・州政府から管理運営費として60パーセントに当たる約4億円が半永久的に支出されることになった。クレーの作品は約1万点が現存し、同センターにはクレー財団と遺族のコレクションを合わせた4000点が所蔵される。管理運営費が毎年7億近くかかるとは、美術館は本当にお金がかかるものだが、何よりも重要なのは所蔵作品で、クレーの絵がなければ誰も同センターを訪れない。美術館はいくらでも建て替えが出来るが、クレーの絵はそういうわけには行かない。そんなクレーの絵の200点をほとんどひとり占めで鑑賞出来る機会はもう二度と訪れないだろう。
会場に入ってすぐ、壁面にベルンからバスでセンターに向かい、下車してセンターまで歩き、そして内部を鑑賞する個人撮影のビデオが映写されていた。これは実際に現地に訪れた気分にさせた。また、会場出口に近い部屋では、美術館が完成して行くまでの30分のビデオが上映されていた。これもとてもよかった。完成した建物を見れば工事の大変さがわからないが、同センターは着工から開館まで丸3年を要しており、簡単に建ってしまう商業ビルとは事情が違うことがわかる。ビデオは、何もない緑の丘を歩くレンゾ・ピアノの姿から始まり、やがて大きな掘削機やトラックが縦横に走り、丘に深い穴を掘り進む。地下が4階まである設計で、電気や水道を引いて来るにはまず基礎の地下構造をしっかりと作らねばならない。ヨーロッパ中から労働者が集められ、それぞれの棟梁の紹介もあったが、腕に入れ墨のあるような屈強者はみな仕事に誇りを抱いている様子がありありと伝わり、それが見ていて気持ちよかった。また、上棟式には建物の構造を利用した舞踊、あるいは演奏会など芸術のセンターにふさわしい催しが開かれたが、竣工してからではなく、工事半ばでそのような催しをすることはまず日本では見られない。3つの波が連なった形の同センターの北部分は、多目的のイヴェント・ホール、こども美術館、音楽ホールとして使用されていて、ヴァイオリンの演奏をよくしたクレーの思いをくんだ運営となっている。クレー作品の展示棟は3連波の中央部分で、常時200点が展示される。地下は企画展示室で、年2、3回の特別展が開催される。ちなみに来月からはマックス・ベックマン展がある。クレーと同時代のドイツ画家が順次紹介されて行くのだろう。南は研究棟で、リサーチ・センターとして作品のデータ・ベースや図書資料の公開、またセミナー室、ネット・カフェがある。センターの形はいかにもレンゾらしい流麗な曲線を用いているが、ファサードの3連の波形はクレーの1931年の絵「同じ曲線でもさまざまな形を生み出す」の一部をそのまま引用している。全体に軽快な印象はクレーにふさわしいと言える。建物と言えばすぐに四角い箱を連想する人にとってはこのセンターは衝撃的であるだろう。ガラス張りで自然光がよく入る点は九州国立博物館と共通するが、ずんぐりして容量がただ大きいという感じがする同博物館とは違って、ここはあくまでも自然に溶け込んだ有機的な形をしていて、その点でもクレーの意思に沿っている。
会場で配られた資料によると、「日本パウル・クレー協会」の会員募集も行なわれている。一般会員は年3000円の会費だ。センターには無料で入場出来るというが、ベルンまで行くのが大変だ。センターの入場料は大人が14スイス・フランだが、日本円でいくらになるのだろう。アレクサンダー・クレーは1970年以降30回以上も来日し、クレーの絵がなぜ日本で人気があるのかを考え続けて、芭蕉にならって奥の細道を辿ったこともあるほどだ。クレーの孫がこうして祖父の作品の永住場所を整えたことはなかなか立派なことだ。もしヒトラーが登場しなければクレーは生まれ故郷のスイスに戻ったかどうかわからないが、結果的に生まれ故郷に世界に誇る施設が出来たのは喜ばしい。第1次大戦に徴兵されたクレーの友人アウグスト・マッケやフランツ・マルクは戦死するが、クレーは航空部隊に配属されて、飛行機のペンキ塗りや飛行機輸送の任務に当たった。危険な前線に配属されなかったことは幸運であった。そして大戦中に何点か売れ、敗戦後は画商と契約を結び個展を開催するなどして現代画家として注目され始める。その後バウハウスの教授となってニューヨークで個展を開くなど、ますます人気が高まるが、ヒトラー政権はクレーを頽廃芸術家とみなし、没収した作品を海外に売り飛ばした。クレーの没後すぐにチューリヒの美術館で大規模なクレー展が開催されていて、クレーの評価は生前から高かったことがよくわかる。版画が少ないクレーであるので、1万点が現存するというのに市場に作品が出回らず、日本の美術館ではなかなか作品は見られない。センターに収められた作品が今後も毎年のように日本にまとまった数が持って来て展示されるのかどうか注目したくもある。今回の展示は代表的なクレー作品を網羅してコンパクトに生涯が辿れるようになっていた。よく知る作品が大半であったと思うが、初めて見るものも少しはあったかもしれない。4000点全部をまとめた本がいずれ出版されればじっくりと年代を追って図版を眺めたいと思う。その意味で、たくさんのクレー展が開催されて来ているにもかかわらず、業績の全貌はまだまだ未知の状態にあると言ってよい。ネット上ででもよいので、全作品が鑑賞出来ることにはならないだろうか。