「
錆びた色 馴染む景色に 春に雨」、「石濡れて 艶を戻すや 墓の文字」、「墓石の 文字読み取れぬ 無縁人」、「無煙炭 知る人少し 令和では」

1か月ほど前、「風風の湯」のサウナ室で珍しくYさんに会った。Yさんは隣りの自治会に住み、10年ほど前に筆者が自治会長をしていた時、会議の席で知り合った。Yさんは週に二度は愛宕山に登り、去年千回登頂記念の石碑を山頂の参道脇に建てた。筆者はYさんに、YouTubeでYさんが下山して来る様子が、登り始める撮影者のカメラに一瞬捉えられていたことを話すと、その動画は登山仲間で評判が広まったのか、Yさんは知っていた。Yさんに「石碑は二、三百年経ってもそのままありますね」と意見すると、「そう思って建てたんや」と言いながらサウナ室を出た。石は風雨に最も絶え得る素材だ。それで石の彫刻は芸術の中でも最も強固なものと思われやすく、それゆえに信仰の対象になりやすい。それはさておき、石の彫刻で思い出すことがある。30数年前のバブル期の頃、筆者は染めたキモノの整理を夷川小川にある蒸し工場に持参していた。阪急四条大宮駅から徒歩20分ほどで、工場にキモノを放り込んだ後は丸太町七本松にある中央図書館に行くのが習慣で、工場から堀川通りに戻って、二条城北辺の竹屋町通りを西に歩いた。静かな住宅地で、通り沿いにキモノ用の紙箱を製造する会社があって、通りに箱がよく積み上げられていたが、京都の染色業界が駄目になって今はないだろう。前述の蒸し工場もそうだ。ある日のこと、50歳くらいの社長が訪れた筆者をつかんで話をした。工場を売って東京に転居し、たとえば京都の染色を活かした高級アロハシャツを作って金持ちに売るので、その染色をやってもらえないかと言われた。そばで話を聞いていた奥さんは夫の考えを無謀と言い、顔をしかめていたが、バブルのさ中、また京都の染色業が下火になる中、高値で売れる土地を手放して商売替えする思いは無理もない。その後いくつかあった蒸し工場はほとんどなくなり、筆者は大宮錦下がるの工場に行くようになり、四条大宮駅から近くなって二条城北の竹屋町通りを歩かなくなった。さて、その竹屋町通りの北に向かって数本伸びる道のひとつを少し北に入ると、玄関前の植え込みに高さ1・5メートルほどの、縦に細長く伸ばした三角錐の胴体に丸い穴をきれいに開けた白い石の彫刻があった。家の表札に「シナズミ・ジョージ」とあって、なるほどと思った。氏は彫刻を学んだ後に染色の世界に入り、筆者が京都に来た頃にはその独特の作風で有名であった。筆者は氏のキモノの数種の業界誌に載る原色図版によってよく知っていたのだ。グーグルのストリート・ヴューで確認すると、工房はマンションに建て変わったようで、彫刻も見つからない。現代的な石の彫刻、しかも学生の作品となると、引き取り手があるだろうか。

自宅の庭に置いて長く楽しめるのは、その自宅がずっと同じ形である場合のみだ。半世紀ごとに壊しては建てる現在の日本では、石の彫刻は置き場に困るし、よほど有名でなければ売れず、無名の石仏のほうが喜ばれるだろう。それでYさんのように登頂記念の石碑を建てるほうがはるかに自己の存在を長年残すためにはよい。あるいは墓を建てるかだ。石を素材とする彫刻家は公共の場に作品を設置する機会に恵まれることがまず条件になるが、それにはよほどの幸運に恵まれる必要がある。墓石専門の石材屋が片手間に造る無名性の高い地蔵や狛犬、あるいは現代的な「ゆるキャラ」風の彫刻とは違う芸術となれば、理解者はごく少ない。それは日本があまり良質の石を産出せず、大がかりな石の彫刻に馴染みがないことも作用している。氏は能勢産の黒御影石を使っているようだが、能勢は六甲山系に連なり、良質の御影石の産地であるのだろう。高槻、亀岡、そして嵐山と六甲山系が続き、それで嵐山に温泉が出るのは不思議でないと、先日「風風の湯」で85歳のMさんが言った。なるほどと思う。ともかく、身近に良質の石があればそれを使って作品を作ろうとする作家が生まれて当然で、吉本の彫刻が高槻市内のあちこちに置かれることもきわめて自然、健全なことだ。今日の最初の写真は雑貨店「ちくちく」の前に置かれる大型の2体で、やはり題材は親子だ。トーテム・ポール風でありながら、筆者が思い出すのはノルウェーのヴィーゲランの作品だ。彼は石にこだわらず、また作品はかなり写実的で逞しく、圧倒的な大きさによっても北欧の雄大な神話に馴染む世界を表現しているが、親子の愛という人間に具わる本能を表現する点では吉本の作品も同じだ。ヴィーゲランのように大作の彫刻群を整備する公園を日本で望むことが無理である理由を考えると、ノルウェーと日本の差がいろいろと浮上する。まずはヴィーゲランほどの巨匠の才能を日本は生み得ないということが思い浮かぶが、そういう才能の輩出を阻む仕組みが日本にはあるからだろう。茫洋たる荒地が広がる大陸とは違って、日本は水や緑が豊かで、大きな自然を克服する努力をさほど必要として来なかった。池田満寿夫が言ったように、日本は世界に誇れる抜群の才能を持たない。北斎を初めとする江戸の版画家は世界的名声を博してはいるが、世界の美術史からは傍流であり、それは若冲も変わらない。日本美術は中国美術を研究する片手間にかじれば充分という認識が欧米では支配的で、それは歴史的にも圧倒的に長い中国を見れば納得の行くことだが、やはり日本の独自性はあり、それを積極的に主張することは論者の役割だ。そしてその文脈で吉本の彫刻の特質も見なければならない。今日の2枚目の写真は最初の写真の左端につながるが、自転車のあるところに店の出入り口があるのだろう。写真の説明は次回に。

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