昨日は終日時雨。今日は真冬に逆戻りしたかのようで小雪が舞った。春の彼岸の日曜日となると、嵐山にはたくさんの人が来るのに、人影はまばらであった。

わが家の庭のような近くの渡月橋にはめったに足が向かないが、2か月前に小倉山の亀山公園近くに百人一首に因む新しい建物「時雨殿」が出来たことはニュースで知っていた。今日ようやく徒歩で訪れた。渡月橋のうえから上流を見ると、新しい大きな屋根が増えているのが見えた。すぐにそれだとわかった。ますます騒々しくなる嵐山で、渡月橋の下流ならまだいいとして、上流の景色を大切にすべきところにこの建物は感じがあまりよくない。亀岡から保津川下りの舟に乗って嵐山に到着した時に下りる舟着き場のすぐ目の前に建ったが、以前は木立があるような鬱蒼とした場所であった気がする。すぐ隣がホテル嵐亭だ。これは以前と変わらないが、ひょっとすればその敷地内の一部に建てたのかもしれない。所有は財団法人小倉百人一首文化財団で、任天堂の会長が20億だったか数十億円だったかを寄付して建てたものだ。任天堂は昔は花札やトランプ、そして百人一首のかるたを作っていた。そんな創業時代の仕事に対する思いもあって、ファミコンで莫大な財を成した今、百人一首の故郷と言えるこの地に百人一首の記念館のようなものを建てる気になったのであろう。これも最近のネット・ニュースで知ったが、任天堂の会長は京大病院にも新しい建物の建築費用としてぽんと200億円だったかを寄付した。これは京大病院に入院して、建物の老朽化を知ったことによる。京都の大企業が地元に何かを還元するのは見上げたことだ。だが、TVでこの時雨殿の内部の様子を少し見た時はあまりいい感じはしなかった。任天堂らしく、ハイテク映像技術を応用したゲーム機能を売り物にしているようで、そういうことに関心のない筆者はわざわざ風光明媚な嵐山に何ということをするのかと、むしろ批判したい気分になった。館の前に着いて、少し付近を散策した。小説『細雪』のほとんど最後にこのあたりの描写がある。引用する。『…川に沿うて三軒家の前を西に行き、小督局の墓所を右に見て、あの遊覧船の発着所の前を過ぎ、天龍寺の南門の方へ曲がったところに「聽雨庵」と云ふ額の懸つた門のあるのがそれであると教へられてゐたので、直ぐ分かつたが、貞之助たちはこんな所にこんな別荘があることを始めて知ったのであつた。家は葛屋葺の平屋建てゞ、さう廣さうにも思へなかつたが、座敷の正面に嵐山を取り入れた泉石の眺めは素晴らしかつた…』。全くこのとおりに歩いたが、全く同じ家はなく、あたり一帯は新しい家や料理屋、あるいは立入りが出来ない史跡の家などがあって、そのひっそりとした空気は戦前と少しも変わっていないに違いない。

「時雨殿」のすぐ斜め前には宝巌院という寺があり、そこは写実的な五百羅漢の石像で近年有名になっていて、80万ほどだったかを寄付すると中国製の五百羅漢像を建ててもらえる。この石像は通り際にあるので手で触れられるが、去年はなかったはずの苔が石の表面に付着して、全部緑色に変色していた。この調子では後10年もするともっといい味になるだろう。まだ500体には遠いようで、設置すべき空き地も充分にあるが、もしこれが完成するときっと壮観で嵐山の新たな名所となるだろう。さて、「時雨殿」の入場料が800円であることは知っていたが、二度と入ることはないであろうから、高いことには目をつぶった。真新しい建物であるし、今日の物価を思うとこの価格は妥当かもしれないが、それでも500円ならばリピーターが増える気がする。入ってすぐのカウンターの中に紫色のキモノを着た若い女性が2、3人いて、お金を支払うとすぐに靴をロッカーに入れることを求められ、スリッパをはかずにそのまま庭に面する廊下から1階の中央展示室に行くと、そこで何やら電子手帳のような画面が見開きの左右に別々についている器具と、その画面にタッチをして信号を送る特殊なペンをわたされた。展示室はうす暗く、真ん中は床が10×15メートルほどガラス張りになっていて、下には全面に液晶画面が見える。ちょうど全面が京都市内を上空1000メートルから見下ろした航空写真が映し出されていた。また、幅1メートル、縦1.5メートルほどの間隔ごとに幅10センチほどの黒縁のスチールの区切りがあるので、航空写真は連なってはいても目立つ区切りで分割されている。これはいささか残念だ。区切られた部分は縦横10ずつの合計100で、これが百人一首になぞらえられている。つまり100個の液晶の大型モニターが床に収められているわけだ。万博のパヴィリオンによくあるような映像システムを思えばよい。航空写真は途中で夜に変化して、お盆の五山の送り火が映し出されるもするが、ほかに百人一首ゲームにも使用される。最初に手わたされた電子手帳の様な器具はこの床と反応させて使用する。床はあまりにたくさんの人が同時に乗ると危険でもあるので、入場制限があって、常時30人前後が使用出来る。手帳はひとり当たり20分しか使えないように時間設定されている。この20分の間に京都市内を上空1キロからつぶさに観察したり、また百人一首のゲームをするわけだ。

わが家が上空からどう見えているかに興味があったので、そのことで10分ほど費やした。残念ながらわが家はちょうど格子の区切り幅に引っかかる位置にあった。だが、区切り幅分の地形が省略されてはいないので、隣合ったふたつの区切られた部分の左右を交互に見ながらわが家を観察した。そして写真を2枚撮った。ここで面白いのは、区切られたひとつの枠内に立って、電子手帳の拡大キーを押すと、その枠内全体が上空300メートルほどから見たようにぐんとクローズアップされて見える。当然その状態にして写真を撮ったが、フィルム・カメラであるのでうまく写っているかどうか今はわからない。また難儀なことに航空写真映像はじっとしていない。ゆっくりと上下左右に揺れていて、これではめまいを起こす人もあるだろう。航空写真の車道には蟻のような小さな自動車が盛んに走っている様子が見えるが、これは電子的に作った画像を組み込んだものだ。本当は常時実際の京都市内の様子を映し出すのが理想だが、それをするには上空1キロから常に撮影し続けるシステムを要するし、雲が発生すれば地上がよく見えなくなる。また、京都市内はどんどん建物が変化しているので、この航空写真も1年に一度程度は撮影し直して新しくしてほしいが、それにはよぶんなお金がかかるから、そこまではきっとしないであろう。そう思うとこの施設もすぐに古いものになる気がした。観光客の姿はあまり見かけなかったにもかかわらず、入場者は途切れてはいなかった。若いアヴェックや親子連れなど、みんなこのハイテクの床画面を楽しんでいた。電子手帳の使用可能な20分はすぐに来たが、それは手帳を使えなくなるだけで、そのまま部屋にいるのはかまわない。光る床の周りには百人一首を全部解説したパネルがあるので、それらをじっくり見るのもよい。だが、光量が乏しいので目を悪くするかもしれない。航空写真の表示から突如百人一首ゲームが始まったが、これは各自が持つ電子手帳の左画面に映される絵札を床の格子枠内に探し当て、そこに立って手帳の右欄をペンでタッチすると1ポイントがつく。すぐにまた左画面に別の絵札が現われるのでそれを探してまた移動する。制限時間は2分ほどだったと思う。各自が持つ手帳に現われる絵札は全部違うものが表示されるようになっているのは言うまでもない。床はガラスであるし、30人ほどが一斉にあちこちに移動してぶつかることも少なくないので、ゲームとしては面白いが、あまり熱を上げるのは危険だ。筆者は5ポイントを取って31人中4番の表示が手帳に出た。たくさん百人一首を知っている人ほど有利だが、絵札を見て、それと同じものを床から探すのは子どもでも充分だ。
この施設の売り物はこの電子の床だけと言ってよい。20分経つと、部屋から次の細長い通路のようなところに進み、そこでも両脇に「謎解きの井筒」や「体感かるた五番勝負」というゲームが用意されている。これらはみなひとりかふたり専用のもので、いずれも百人一首に因むゲームだ。筆者は興味がないのでさっさと通り過ぎた。すると1階はもう終わりで、2階に行ってくれと言われる。階段をのぼってすぐ右手の壁面には、百人一首の絵札の実物がずらりと横並びにアクリルにはさんで展示されていた。これはなかなか壮観で、ふと思ったのは、筆者の切り絵をこのようにして展示すれば個展が出来るかもということであった。だが、そのようにして使用したアクリル板は個展の後には出番がなくて置き場所に困るので、想像した途端すぐに打ち消した。その壁を過ぎて右に折れると畳を敷き詰めた大広間が右手に見える。パンフレットによると120畳という。通路左側は全面がガラスで、眼下に保津川下りの舟着き場や車が数台駐車しているのが見えた。舟着き場はいいとして、駐車場は興ざめだ。いかに車社会とはいえ、百人一首の殿堂から駐車場丸見えでは景観は台なしだ。それを無視して視線を上方に移動すると嵐山が迫っている。桜や紅葉の季節は見事だろう。だが、建物の構造制限もあって仕方のない話だが、嵐山の見え方は完璧とは言えない。頂上が切れて見えるのだ。しかし、大広間に座って眺めると山の稜線は全部見えるかもしれない。大広間は中に入ることは許されない。中央には王朝絵巻といった雰囲気で、平安時代の衣装姿の男女数体の等身大のマネキンが置かれ、百人一首のかるた取りで遊ぶ様子が再現されている。通路を奥に進むと、百人一首を書いた色紙を貼り混ぜた6曲屏風があった。そこまで5メートルほどの距離があるので筆跡はわからない。中年女性ふたりが、横にした竹で仕切って中に入れないようにしてあるにもかかわらず、堂々とそれを越えて畳の部屋に上がり、間近で屏風を鑑賞していた。紫色のキモノを着た女性がすっ飛んで来て、そこから立ち去らせたが、ふたりは展示が遠過ぎて文字が見えないと何度も文句を言っていた。上品そうな身なりをしていたが、していいことと悪いことの区別がつかないらしい。そしてこんな常識のない身勝手な人が百人一首や仮名文字を鑑賞しようというのであるから恐れ入る。勝手に間近で見ることが許されるなら、誰しもそうするし、そうなるときっと作品はいずれ汚れたりする。
大広間の展示として通路から間近に見えるように、江戸時代後期から昭和に至るまでの百人一首の本物のカルタがあった。全部で13点の展示だ。奥野かるた店の所蔵が多かったが、有名な光琳が描いたものがなく、少し拍子抜けした。本物は無理でもせめて復刻版でもよいので展示すればよかったと思うが、きっと販売している店との関係があってそれは出来ないか拒否しているのだろう。通路の奥に進むにつれて時代の新しいものが展示されていたが、昭和17年に京都山内任天堂発行の「愛国百人一首かるた」は、日の丸が箱に描かれていかにも時代を感じさせた。これは任天堂をどこかで紹介するためには必要不可欠なものなのだろう。その次、そして最後に展示されていたものは、昭和18年に日本玩具統制協会が発行した「絵入愛国百人一首かるた」で、日本の郷土玩具や人形の収集家で有名な西澤笛畝が絵を描いたものだ。これもきな臭くていやな感じがした。平安王朝も昭和の戦争にそのまま連なっているのは確かだが、戦後の平和な時代の美しい百人一首のかるたを作って、それをこの展示の最後に置くべきではないのか。そして、そこには「愛国」などという物騒な感じの言葉は使用してほしくはない。大広間ががらんとしてもったいないので、そばにいた紫のキモノの女性に訊ねた。すると、いつのことかまだわからないが、百人一首のかるた取り大会をこの広間で開催する予定があるとのこと。だが、1年の大部分は使用されないから、もっとほかに利用を考えねばならない。個展会場としてせ申し分ないが、何を展示するかとなると難しい。キモノの展示が似合うだろうが、そうなればまたどこの誰がどう使うかで大いに問題が生ずる。せっかく出来た施設だが、まだグッズ販売コーナーには何も売られておらず、これからというところだ。百人一首に関することならどんなものでも集める、あるいは情報が得られるという施設になってほしいが、どうもそんな気配はない。図書館や資料館ではないからだ。したがってこんな無用の長物がなぜこんな場所に建ったのかと不満だけを覚えて帰った。渡月橋あたりの寒かったこと。帰宅するとすぐに吹雪になった。そう言えば、小督庵近くのピンク色の梅はもう盛りを過ぎていた。「小雪舞う渡月の橋にこもれ陽や」