「
嬉しがる 子どもを前に 傀儡(でく)笑う」 一昨日紹介した相生地蔵は、吉本氏の彫刻だけでも鑑賞に堪えそうだが、古い石仏が上に載ることでより印象深いものになっていて、氏はその石仏と合体させる考えで創作したであろう。

では、そうした新旧の混在がない条件下で氏の作品はどう味わいが変わるか。それを今回から見て行く。氏の作品に顕著なことはいくつかある。そのひとつは「浮き彫り(レリーフ)」性だ。これは絵画と立体の中間的表現と思ってよいが、芸術的に彫刻より劣るものでは全くない。古代のアッシリアやエジプトではレリーフの芸術が栄えた。それらはレリーフの効果を最大限に発揮し、光の当たり具合で印影が変わり、東洋で言えば印章に似た彫りの味わいは、立体の彫刻にはない。そうしたレリーフはイタリア・ルネサンス期に天才のブルネレスキとギルベルティによる鋳造の名作を生み、現代彫刻にもつながっている。吉本氏の作品に似た西欧の巨匠の作品を挙げることはたやすいが、レリーフで想起するのはたとえばブランクーシの「接吻」だ。それは直方体にわずかな彫りの線を入れて男女が向い合ってキスする場面を表わし、その元の石の形をなるべくそのまま残しながら彫刻作品を作る考えは、彫る手間をなるべく省くという、いわば手抜きのためではなく、石の性質を考えた安定性を求めてのことだ。石は頑丈だが、金属のような展性はなく、細い部分は折れやすい。それで野外に置くならばずんぐりとした形が最適で、人体を表わす石の彫刻はどれも似たものになりがちだ。そのことは吉本氏の彫刻にも言えるが、今日の写真は先月末に高槻市内を回った際に二番目に見たもので、レリーフ的な作品と言ってよい。この作品を
一昨日書いたある女性のブログで知り、設置場所を訊ねたが彼女の記憶が定かでなく、筆者はグーグルのストリート・ヴューを調べて見つけた。上宮天満の南西150メートルのクリーニング店の横壁で、店の人が吉本氏の作品に惚れて注文したのだろう。狭い場所で、すぐ前が道路であるので、作品がレリーフ的になるのは仕方がないが、氏には同じ「あやつり人形」という題材でもっと大きな作品がいくつかあって、あやつり人形を鑑賞する人物も彫っている。それらの作は背後に壁があるとは限らず、やはりレリーフ的表現は氏の手法のひとつだ。「あやつり人形」の題名は大人であれば意味深く解釈しがちで、「傀儡(かいらい)を 操る者も 操られ」といった、皮肉や風刺を思いがちだが、氏の他の作品には、筆者が知る限りはそういう文学性はない。となれば、「あやつり人形」の作には特別な意味が込められているのかもしれない。そのことはさておき、あやつり人形とそれを楽しむ子どもを表現する作品を素直に見る者は楽しめばよく、脇道にあるこの作品は、俗悪な看板絵と違って見る者の意識に一条の光を投げかける。「傀儡(くぐつ)師は くぐもり続け 時くぐる」

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