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●「RIPTIDE」
鄙でも ネット使えば 都です」、「トンビ鳴く 嵯峨嵐山 都鄙(とんび)てる」、「干からびて 辛さ増したね 屁古希爺」、「否か可か 田舎の者の 勘違い」、「秋田人 もう飽きたコメ 言わないで」、「シャルルさん 民主の指揮の 棒執って」、「三寒の 次に四温の 怒涛かな」



●「RIPTIDE」_d0053294_01491208.jpg
毎日連想ゲームのように五七五の言葉を並べているが、目下強く思っていることが句になるかと言えば、そうとは限らず、さほど意識していないことが咄嗟に脳裏に浮かぶことがある。それを形にすることで初めて意識の俎上に改めて載せたことに気づき、そのいわば作品行為とでも呼べることが面白いと思う。つまり、無理にでも作れば、それが新たな、思いもかけない命を持つ。無理にと言うのは、考えて絞り出すことだ。熟考と言えばおおげさだが、自分でもあまり意識していないことが、創作行為に迫られると、あるいは自分を追い込むと、形になり、そのことが意外にも後に大きな意味を持つ場合がある。逆に言えば、作ろうと大いに意気込み、熟慮を重ね、計画を立て、ようやく完成させても、必ずしも名作が生まれるとは限らない。ま、この話は込み入るのでここで止めるが、卑近な例で言えば、筆者がこのブログに今年から載せるようになった五七五の俳句とも川柳でも呼べない言葉の羅列は、半ば尻取りないし連想ゲームのように次々に思い浮かべながら、意識のある一定の方向を示しておらず、それぞれが全然違う方向を向いていることが自分で面白い。出鱈目さ加減の中のまともさ、逆にまともさの中の出鱈目があると思うからだ。真剣でありながらふざけていると言ってもよい。その混ざり具合の微妙さが、長文に頼らずとも17文字のいくつかの句の提示で無限に出来る気がする。そしてそういう出鱈目の中の真剣さの度合いや変質がどうなって行くのかは自分でも見当がつかないが、それが今を生きていることであって面白いとまた思う。何が言いたいかと言えば、とにかく書きまくるということだ。膨大に書くことの中でごくたまに自分で面白いと思うものが出来る気はしている。これはあたりまえのことだ。またそれを筆者は努力と思っていないが、努力であってもそれを楽しまねば意味はない。あるいは楽しむという言葉もあまりに薄っぺらく、それすら筆者は思っていない。さて、いきなり即興でたくさん書いた。今日は1か月半ほど前にNHKのTV番組で知った曲について書く。再放送のはずで、人がよく集まる世界各地の駅などに設置されているピアノを演奏する人々を撮影した番組で、いろんな人がいろんな曲を巧拙さまざまに弾く。本曲が演奏されたのはアムステルダムのとある駅構内だ。20代半ばらしきミュージシャンの美女が、ピアノを弾きながら本曲を歌った。一瞬にして筆者は本曲と彼女の格好よさに魅せられ、演奏が終わらない間に表示された字幕で本曲をネットで調べた。そういうことはほとんどないので大いに興奮した。
 オリジナルはヴァンス・ジョイというオーストラリアのシンガーソングライターの男性が2013年に作詞作曲して歌った。翌年世界中でヒットしたようだが、筆者は知らなかった。CDがあるのだろうが、それを入手せずに書く。YouTubeでは彼の他の曲も視聴出来るが、本曲が特別際立っていて、1時間もリピートで聴かせる投稿や、速度をわずかに落として調性を下げたヴァージョンを同じく1時間聴かせるものもある。アコースティック・ギターとバック・ヴォーカル、それにヴァンス・ジョイの高い声によるヴォーカルが目立つ単純な曲で、U2のボノを彷彿とさせ、ヒットする曲のこつをよく押さえている。60年代のヒット・パレード時代も思い起こさせるが、本曲は3分20秒ほどで、昔のシングル盤よりは少し長めだ。それが饒舌というのではないが、歌詞はラヴ・ソングながらかなりややこしい言い回しで、またどこか軟弱な男の思いを歌うのはやはり21世紀を感じさせる。アムステルダム駅構内でピアノを弾きながら歌った女性があまりに格好よく、その印象のままヴァンス・ジョイの歌を聴くと、また全然違う味わいだ。筆者は男であるので、アムステルダムの女性のほうがいいような気がしている。彼女の演奏はたぶん1分も放送されなかったが、そのごくわずかな演奏におそらく多くの人が魅せられたと想像する。もちろん音楽、洋楽にあまり関心のない人は別だ。彼女のカヴァー演奏に一瞬で大いに魅せられたのは、本曲がよいことと彼女ならではの魅力によるが、後者の魅力はミュージシャンであればだいたい誰でもそれなりに持っている。それゆえファンを得るが、そこに類稀な音楽の才能が加わることでファンの数は無数になり得る。類稀な才能と見栄えの格好よさを併せ持つミュージシャンが多いか少ないかは個人の考えによって違うから、いわばどうでいいことだが、その番組で筆者は彼女が別の曲を演奏していたならば、おそらくあまり着目しなかった。つまり、曲が圧倒的によく、そこに彼女の魅力が加わった。ヒットする曲とはみなそういうもので、一度聴いて即座に記憶される強烈な個性がある。これは簡単なようでいて難しい。ヒット曲を書く方法が確立されているのであればそれを学べばよいが、方法はある程度はあっても時代が違えば人の好みが違い、ヒット性は変わる。その捉え切れないところ、つまり謎は永遠について回り、ヒット曲はたまたま生まれる。とはいえ、ヴァンスは多くの人が気に入る曲を書くこつを覚えた結果、本曲を書いた、あるいは本曲が大ヒットしたので、作曲のこつをつかんだ。また彼は好みの音楽から影響を受けているはずだが、直接的な影響がわからないほどに本曲は個性的で、一瞬で人の心をつかまえる魅力がある。「魅力」は月並みな言葉でなるべく使いたくないが、ある程度の歌唱力のある者なら誰が歌っても格好よく聴こえる「魔力」と言い替えてもよい。
 その魔力を放っている理由が何かと言えば、たとえ歌詞の内容がわからなくても、歌詞に込められた思いが曲の調べに一致しているからだ。前述のように本曲はとてもシンプルな演奏で、ギターあるいはピアノの伴奏によってひとりで歌っても曲の魅力の大半は伝わる。あるいは本曲はアレンジが凝っておらず、ギター1本で即座に仕上がったような雰囲気が新鮮に響く。それは60年代のフォーク・ミュージシャンならほとんど誰でも書けるようなものだが、そのポップスの黄金期を想起させる、あるいはその黄金期に置いても何ら違和感がないところに筆者ないし世界の音楽ファンは反応したのかもしれない。ヴァンスがつかんだこつというのもそれ、つまり60年代のヒット曲に共通してあるヒット性だろうが、彼は21世紀に生きていて、半世紀前の懐かしさを意識してはいない。そのような方法論に依拠して曲を書こうという考えはなく、格好いい曲を書こうと日夜思いながら恋愛にも悩み、今ある心の状況を吐き出さずにはおれなかったのだろう。それはどのシンガーソングライター、あるいはどのような創作者も同じだが、そのようにして作った作品が多くの人に一瞬で届くという意味ではポップスの力は他の芸術よりも圧倒的に大きい。またそれゆえに奇跡のように大ヒットする曲はきわめて稀で、それを生み出す方法論は存在しない。となれば努力は無駄かという話になり、最初の段落で書いたことがつながって来る。ヴァンスよりはるかに年季の入った老作曲家が大ヒット曲をひとつも書かないことは大いにあり得る。いや、大多数の作曲家がそうだろう。となれば音楽の才能は年季や努力と無関係ということになりそうだが、ヴァンスが本曲を生むまでに費やした年季や努力は老作曲家とはどう比べ得るか。ヴァンスは彼なりに呻吟したはずで、その量と質は他者のそれと比較することは誰にも出来ない。ただはっきりしていることは、ヴァンスが本曲を書いて世界的に有名になったという結果であって、無名同然の老作曲家は彼なりの作品を書くだけのことだ。こう言えば、大ヒットはさして輝かしいことではないという結論になりそうだが、ヴァンスに幸運の女神が微笑んだとして、それは大ヒット曲を書く才能を持っていたことが前提で、やはり才能があり、それを磨いたことによる。磨くと言えばまた努力という辛気臭い行為を思い浮かべがちだが、音楽の才能は10代で開花すると言ってよく、その10代は10代なりの努力がある。あるいは10代であるから今何が歓迎されるのかを本能的に知っている。それは老練な才能とは違い、率直で純粋なもので、作品にそのまま刻印される。ポップスの場合、そういう若さが大ヒットにつながりやすい。そこには稚拙と呼べる未熟さも内在化されやすいが、そのことによって多くの若者が同感を抱く。こう書けば筆者も未熟ということになるが、誰しも何歳になっても未熟さはある。
 本曲の題名を「葛藤」と訳せばつまらないし、歌詞にあまりふさわしくない。「疾風怒濤」の「怒涛」はどうかと思うが、古語を今の若者は理解しない。ともかく、心に激しい波が衝突している状態で、精神の不安定を指す。それは若い頃には珍しくなく、その不安定さのために自殺する人もいる。さすが筆者の年齢になればよほどのことがあっても動揺しないが、そう思っていても何かの瞬間に心が強く反応することはよくある。NHKのTV番組で本曲をわずかに聴いた時もそうだ。人が持っている魅力には誰しも一瞬で反応し、また直ちにファンになることはよくある。筆者のような年齢になってもそうで、自分の子ども世代の才能に魅せられることは傍目には見苦しく、自分でもそう思っているが、その相手の魅力が湧き出る理由はわからず、またそうであるから魅せられるのだが、長年生きて来た者の意見を言えば、その魅力はやがてまともに見られるようになる。それは魅力から逃れ得ることで、心は平静さを取り戻すが、またいつか別の魅力に囚われることはあり得るし、実際そうだ。その魅力に反応し続けられることが人生の活力だ。話を戻して、本曲の歌詞は、歯医者や暗闇、またかわいい女性に恐怖心のある男が、女優になれば世界的に有名になれるような女性の魅力に囚われ、またそのことによって自分の内面の暗きに傾いている怒涛が明るくなり、彼女の左手に並んで歩く、あるいは彼女の左手となるような立場を望んでいることを歌う。冒頭の歯医者や暗闇が怖いというところは笑わせる。そのような印象深い意外な歌詞によって本曲はヒットしたのだろうが、曲調は絶叫的哀願的で、笑いはない。その真面目なのかふざけているのかわからないような違和感が大きな特徴となっている。映画について言及する下りがあって、彼女が見れば喜ぶような映画としてニューヨークに出たカウボーイのことが歌われる。1969年の『真夜中のカウボーイ』を連想するが、とすればやはりヴァンスは60年代のポップスが好きなのだろう。『真夜中のカウボーイ』ではニルソンの曲が使われた。そう言えばヴァンスは彼の影響を受けていると思える。本曲の歌詞でもうひとつ映画関係の言葉が出て来る。女性はたとえば女優ミッシェル・ファイファーのような映画女優になるという確認を男が持っているのだが、それほどの美女が歯医者や暗がり、またかわいい女性を怖がる男の彼女になる可能性があるのか。つまり、その点でも歌詞はかなりコミカルで非現実的だが、心を寄せる彼女が女優として有名になるという男の確信は、「恋は盲目」で説明され得る。本曲の歌詞はオタクっぽい男性の思いを扱い、一方の女性はとても眩しく、また力強く描かれている。それは現在の日本にありがちだが、おそらく世界中の男がいわば草食化しているのだろう。「わたしはね 肉が好きなの 憎たらしい?」、「マジヤバイ バイバイするわ マジ本音」
 そして男の内面は暗闇で激しい波がぶつかり合っていて、それは何重にも込み入ったひとり相撲の悩みであって、彼女のことを想像すると光が差す気がするが、思いを告白して恋人になれる保障はない。女優になれるほどの眩しい女性であればまあ無理だろう。くよくよ悩む前に行動しなければ、行動的な男に彼女をさっさと奪われる。それで男は相変わらず心に激しく暗い葛藤を抱え、孤独のままなのであろう。そのことが題名に暗示されている。「疾風怒濤」は『若きウェルテルの悩み』のからもわかるように、若者が必ず通過する内面の激情の時期で、本曲はそういう若者特有の不安定な精神、女性に対する理想化を扱いながら、若者なら誰しも抱きがちな自信のなさを主題にする。そういう若者ならではの精神は苦しいものだが、本曲の歌詞はコミカルさをまぶして深刻にならないように配慮されている。その点が60年代とは違うのかもしれないが、筆者は60年代のヒット曲の歌詞に共通する世界があるのか、またあったとしてそれが何かを具体的に示すことは出来ない。ただし、本曲は21世紀のものという気はする。映画を持ち出すところは特にそうで、思いを寄せる彼女は女優になれるはずだが、歌は上手でなく、彼女の歌を聴くと喉に何かが詰まった気がすると歌う。ミッシェル・ファイファーは運よくと言えばいいか、アメリカン・ドリームを体現した女優で、個性的な美女であれば誰でも女優になれると本曲の歌詞が歌うところは、物事を単純に考える若者の特権を表わしていると言えるが、そのような思いをヴァンスが抱いていたとして、本曲が世界的にヒットしたことは、若者が単純に確信することは実現し得ることを意味している。そして、そうして有名になったヴァンスと、本曲の歌詞に描かれる男を対比させると、案外気弱な男は彼女の左手に居並ぶことが実現し、心に抱えていた嵐の激情が穏やかになるかもしれない。また聴き手にそう思わせるほどに本曲はヒットしたのは、あるいはヒットしたゆえにそう思わせるとしても、どの国のどの若者にもありがちな恋の悩みを凝視し、どうすればいいかの決断を自らに迫ったことによって成功を勝ち取ったと読み取られるからだろう。本曲が歌詞にふさわしい青春映画に使われれば、もっとヒットしたと思うが、21世紀になって60年代の映画黄金期あるいはポップ黄金期の再現はもう無理だろう。ではヴァンスが今後ニルソン級の才能を発揮し、名作と呼ばれるアルバムを何枚も生み出すかどうかだが、60年代よりはるかに複雑になった現在、真面目さだけは物足りず、そこにどう奇抜な要素を盛り込むか、またその意外性で人気が得られるかとなれば、誰にもその方法はわからない。とはいえ、必ずまた大ヒット曲はあるはずで、そうした曲から現代の断面が把握出来る。「老練の ローレンロレン ローハイド」、「真面目さに 出鱈目加え マジタラメ」
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by uuuzen | 2021-02-28 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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