「
戻る家 なき人の目に 空の鳥」、「猛禽が つつく死人に 目玉なし」、「眼窩から 覗く菫の 花の群れ」、「踏まれては 子なき蕾の 白菫」
連日思いつくまま適当に五七五に言葉を並べている。これらの句はみな充分に説明出来るが、今日はスミレではなく蘇鉄の写真を使う。筆者の息子が小学1,2年生の頃、小学校で蘇鉄の苗鉢をもらって帰った。葉が1枚だけのもので、それを熱心に育てるのでもなく、裏庭に放置していると葉は枚数を増やし、30年経った今は筆者ひとりでどうにかぎりぎり抱えられる大鉢ふたつになっている。このままではさらに大きくなるので、直植えしてやりたいが、その場所がない。筆者は割合蘇鉄が好きで、自転車で走っていてもよく気づく。去年秋、家内と初めて走る道で酷い状態の蘇鉄を見かけた。その写真を撮るためにその後ひとりであちこち走ったが、見当たらない。まだいくつかの場所に心当たりがあるので必ず見つけたいが、一方で惨めな状態にある蘇鉄を撮るのは趣味がよくなく、見なくてもいいかという気持ちも大きい。その蘇鉄は高さが2メートル近くもある立派なものであるのに、鉢は直径30センチほどで、しかも割れて根がはみ出していた。蘇鉄の力で割れたのだろうか。大きい鉢に植え替えればいいものを、住民は関心がないらしい。にもかかわらず、日当たりがよく、鉢に不釣り合いなほどに大きくなっている。その鉢から外してどこか広い場所に植え替えてやるとどれほど蘇鉄は喜ぶか。そんなことを思っていると、梅津の従姉にリンゴのお裾分けで訪れた帰り、松尾橋下流の左岸河川敷に今日の最初の写真の蘇鉄を見た。去年12月2日のことだ。広々としたところに蘇鉄がぽつんと立っていた。誰が植えたのか、蘇鉄は大いにのびのびして喜んでいるようだ。すぐ近くは子ども野球がグランドに使っていて、時にボールが飛んで来て葉に当たるだろうが、遠慮せずに葉を広げている様子が面白い。2枚目の写真は今年の天龍寺の節分会に行った際、「東向大黒天」を祀る三秀院で撮った。門をくぐらず、外から蘇鉄を見ただけで、筆者にはそれで充分であった。蘇鉄はこの寺の看板の役割を果たしている。それほど見事に手入れされ、のびのびと大きくなっている。これほどに育つには広い場所と百年近い年月が必要だろう。つまり、蘇鉄は金持ちの象徴でもあって、都会の庶民にはあまり縁がない。田舎ならば広い庭は確保出来るし、蘇鉄は放っておいても育つから、この三秀院並みに立派な蘇鉄はいくらでもあるだろう。そういう代表で思い出すのは栗林公園だ。早朝にそこを訪れると、今後も見ることのないほどの立派な蘇鉄が群れになっていた。それをもう一度じっくりと見たい。蘇鉄の写真を今後は適宜撮影して投稿しようと思っている。「そっと見る 蘇鉄の幹の たくましさ」、「南国の 蘇鉄震える 春の雪」、「蘇る 鉄の魂 赤き実に」
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