「
偕行に背く人にも丸い月」去年だったか、自治会住民で油絵を描いている大志万さんが面白い話をした。大勢の人が同じ考えで一緒に行動することから距離を置く少数派の重要性だ。

大多数の人がよかれと考えて行動した結果、全滅すること歴史上よくあったことだろう。みんなから謗られながらも反対の思いから引きこもった人はその後の復興を担うから、熱病のような流行の思想に染まらない存在はそれなりに重要ではないか。1億総玉砕とはあまりに無茶は考えで、ぎりぎりのところでそうならなかったので今の日本がある。大志万さんは京都市芸卒で、美術好きにとっては話題が通じるが、そういう人は珍しく、彼女はその意味においてマイノリティを感じているだろう。そしてたぶん野球などの日本を代表する娯楽スポーツに関心はないと思うが、限られた時間の人生であるので、好きなように使う権利が誰にもある。さて、去年11月21日、中京にある神社を巡ることにし、気になっていた神泉苑を訪れた。よほどの暇人で、何が面白いのかと言われそうだが、筆者は野球やゴルフ、競馬やマージャンには全く関心も知識もなく、ひとりで好きなように時間を使うことが好きなのだ。神泉苑は御池通り沿いの石鳥居をくぐって正面、半島状の土地の先端に善女竜王社があるが、写真を確認すると鳥居をくぐってすぐ、石橋がある。半島ではなく島のようだ。そこで神泉苑のホームページにも図版が掲げられているが、江戸中期に出版された『都名所図会』を確認すると、その挿絵もそのようになっているが、橋の位置が同じとすれば、現在の神泉苑は、橋から南方をかなり埋め立てた。ただし、『都名所図会』の挿絵は人物が極端に小さく描かれるなど、脚色が目立ち、現地を正確に写生したとは限らない。むしろかなりいい加減なところがあって、壮麗に見えるように美化しているはずだ。何しろ京都観光の手引き書で、京都人よりも遠方の人に見てもらって京都に来て役立つことを目論んだものだ。それはさておき、神泉苑についての同挿絵に載る弁天社も島に建ち、橋でつながっているが、その様子を善女竜王社と比較すると、弁天社の橋の長さ分を埋め立てたことが想像出来る。ところが現在の境内は御池通りの歩道から入って7,8メートルのところに石橋があって、江戸時代の御池通りは車道と歩道に分ける必要はなく、神泉苑の境内は現在の歩道全部あるいは車道も少し含んでいたと考えられる。とすれば同挿絵はかなり正確なものになるが、現在と大きく違うのは善女竜王社の前から西の陸地に架る朱塗りの太鼓橋が描かれないことだ。現在この「法成橋」は御池通りからもよく見え、神泉苑の代表的景観となっているが、神泉苑は『都名所図会』後の天明の大火で焼け、境内は少しずつ様相を変えて来た。『都名所図会』の挿絵では弁天社に二重の塔があることも大きな違いで、また天満宮は池の西畔にあることも違う。

神泉苑は池が大部分を占め、境内の歩ける部分はごく少ない。そこがたとえば平安神宮の神苑とは大きな違いだが、幕府によって境内の北半分が奪われ、その後家屋が密集する現在の中京にあってはまだ自然空間が保たれて贅沢な気分が味わえる稀有な場所だ。同じ面積の公園ならどこにでもあろうが、ここは公園にはない歴史と景観がある。当日筆者は善女竜王社から弁天社、そして西北へと回って朱塗りの鳥居を目指した。それが今日の最初の写真で、矢劔大明神を祀る鎮守稲荷社だが、これは『都名所図会』には描かれず、樹木が生い茂っている。江戸時代にあったかもしれないが、挿絵にわざわざ描いて紹介するほどのものではなかったのだろう。この社から北へと進んで池の周辺を一周出来ればいいが、この社以北は立入り禁止になっている。それでまた善女竜王社の前に戻り、法成橋をわたった。わたる際に撮ったのが今日の2枚目の上の写真で、池に竜首がついた舟が浮かんでいる。これは嵯峨の大覚寺の大沢池にある「龍頭鷁首(げきす)舟」と同じだが、乗船する人の姿が見えないように囲いがある。大覚寺では中秋の名月の際にこの舟を使い、毎年必ずその様子は新聞に載る。神泉苑のこの舟は平安貴族が利用した趣があって、一般人は乗れないのかと思うと、大覚寺と同じく観月の会で利用され、また乗船料金も美術館の展覧会を見るのと同じ程度だ。筆者は断然大覚寺のほうが近いが、夜であればタクシーを使うしかない。電車を使えば神泉苑のほうに早く着き、また観月後は四条大宮の繁華な街に出られるので、どちからと言えば神泉苑のほうがよい。そう思いながら何年経っても訪れないだろう。2枚目の下の写真は橋をわたり切って善女竜王社を臨んだ。3枚目は同社と橋を収めた。背後に二条城やビルが見えないのがよい。4枚目の写真は左が「恵方社」で、善女竜王社の少し手前、西側にあるが、『都名所図会』の挿絵にはない。神泉苑のホームページによると、明治22年奉納の絵馬に描かれていて、境内の南西に位置する。『都名所図会』の挿絵にある天満宮の少し南のはずで、描かれないのはなかったか、小さな祠で無視されたのだろう。恵方を陰陽道で占って毎年祠の向きを変えるため、基礎は筒状の石となっている。毎年向きを変える恵方社として日本で唯一で、歳徳神を祀る。どういう人がお詣りするのかと思うが、恵方は今では節分で食べるとされる海苔巻きで馴染みで、その方角でいいことがあるとされる。神社のおみくじにもどの方角がいいかと書かれていて、方角の重視は現在でも建物や転居先、また家具などの配置など、さまざまに生きている。学校の教室は手元の文字が読み書きしやすいために、黒板に向かって左が明かり取りのために外とつながる窓となっているが、そうした合理性と陰陽道の方角重視はつながっているはずで、まじないと言い切れないものがある。

4枚目の右の写真は前述の絵馬に描かれる恵方社の位置にある句碑で、蕪村の「名月や神泉苑の魚おどる」を彫る。江戸時代に「龍頭鷁首舟」があったのかどうか、先の絵馬には恵方社の前に蓮が描かれ、舟があっても池全体は運航出来なかった。ともかく、当時の夜は暗く、蕪村は月明かりがあったので神泉苑を訪れたのであろう。蕪村全集の第3巻を引っ張り出すと、この句は「雨のいのりのむかしをおもひて」とあって542として載る。安永6、7年頃の句で、還暦頃だ。当時蕪村は烏丸通りを松原と仏光寺の間を西へ入った路地に住み、神泉苑まで北西にジグザグに歩いて1キロ少々だ。「むかしをおもひて」は、蕪村時代でも神泉苑での雨乞いの儀式は遠い記憶になっていたことを示す。そこに蕪村の足跡を加え、京都もしくは神泉苑は歴史の深みを増した。蕪村級の天才が京都で活躍し、また彼が歴史に思いを馳せる人物であるならば、さらに京都の文化は厚みを増すが、その可能性はいかほどか。蕪村全集第3巻の索引から、蕪村が名月を詠んだ句がいくつかわかる。529は有名な「月天心心貧しき町を通りけり」で、蕪村はこの句に絵を添え、子を伴なう農民夫婦が月明かりで家路に着く様子を描く。527の「名月にゑのころ捨る下部哉」はあまりに悲しい句で、犬ころを捨てて来いと言われた下男が満月の夜に犬を抱えて歩く。その仔犬の運命と下男の心を思うと、月が涙に霞む。今年は蕪村と若冲が生誕300年で、それを記念する展覧会がつい先日東京で終わり、7,8月にMIHO MUSEUMに巡回するが、最近蕪村は近年が人気がなくなりつつあると読んだ。言葉がすっかり変わったというより、ネット時代になって若者の語彙力が乏しくなり、古い言葉が理解出来なくなったのだ。日本語よりも英語という時代になりつつあるが、英語で蕪村並みに詩を書く才能が日本で生まれるはずがない。あっても数千年先だ。その頃には日本はなくなっている。4枚目の写真は蕪村の句碑の奥に建物を捉えた。ここ、つまり境内の南西に至って寺であることを実感する。本堂と方丈が南北に並び、本尊は聖観音とされる。神泉苑のホームページには京都に住む者としてはもうひとつ無視出来ないことが書かれる。祇園祭りとのつながりだ。貞観5年(863)疫病が流行り、神泉苑で朝廷による御霊会が行なわれ、その際、民衆も出入りが許された。大地震や富士山の噴火など、全国的に災禍が生じ、貞観11年、国の数の66本の鉾を立て、八坂神社から神輿を神泉苑に送って厄払いをした。それが後の祇園祭りとなった。祇園会を詠んだ蕪村の句に「祇園会や僧の訪寄る梶の茶や」がある。元禄時代、八坂神社のそばに梶という貧しい娘が歌詠みで全国に名を馳せ、茶屋を切り盛りしていた。言い寄る男が多かったが独身を貫き、彼女の詠んだ歌が残る。茶店は養女が継ぎ、蕪村はそこを僧が訪れたと詠むが、それは蕪村でもある。