靴の音はスニーカーを履く人が多くて今は珍しいものになったように思う。筆者は外出時には革靴をよく履くので、自分の足音が気になることがあるが、それはそれでいいところがある。

泥棒はこっそりと他人の家に侵入するので、動きやすくて音のしない運動靴と相場は決まっていて、靴の音を鳴らして歩くことはやましさのない堂々とした姿と思うからだ。そう言えば筆者が子どもであった昭和30年代半ばくらいまでは、学校から帰ると下駄に履き替え、その音は革靴以上に大きかった。「カラン、コロン」という下駄の擬態語がマンガに書かれることはもはやなくなったに違いない。そのように半世紀の間に世界はすっかり変わる。家の寿命も同じで、数世代にわたって住む家はきわめて稀で、ほとんどのものが消耗品だ。寺社もそうだが、一般人の家に比べると同じ場所に建て替えられる場合がほとんどで、数百年も時が止まったままと言ってよく、誰にとっても永遠性を感じさせる存在となっている。それは宗教の力だ。それがある国ではたいていそれに供する恒久的な建物を造り、また一般人の家屋とは異なる特徴を具えさせる。宗教の違う異民族が侵入した場合、元の宗教を徹底敵に排除するか、あるいはそれなりに尊重して持ち込んだ自分たちの宗教との混交を図るが、日本の神仏習合は後者と言ってよく、また異民族侵入による結果ではなく、外国の宗教を尊重した結果だ。その雑種性は千年や二千年程度では変わらず、20世紀半ばの戦後ではアメリカ文化を徹底的に摂取した。ところがキリスト教の浸透は相変わらず増加せず、代わりに新興宗教が明治以降同様、勢いを増している。そうした新たな宗教が今後何百年も根づくには、寺社の建物のように神殿が独自の建築様式を持つ必要があるだろう。それは美意識の反映で、宗教は美と関係がある。また美の形は無限にあるが、宗教は多くの信者がひとつの心でつながる必要上、神殿ないし教会の建物は、その宗教が他のそれとは違う美を保有せねばならない。偶像崇拝を禁ずるイスラムでも神殿は幾何学的文様で埋め尽くすなど、独自の美意識による視覚化があり、宗教は必ず目に見える形を伴なう。自分が信ずる宗教が他の宗教とは違うのであれば、その違いは言葉による教義に最も表われるが、経典の筆跡、あるいはその経本など、言葉は形あるものに負い、その形に人間は美意識を働かせる。となれば、王国ではより巨大で神々しい拝殿や神殿が求められ、たとえばピラミッドのような巨大建造物が生まれたが、偉大な宗教時代はもう終わったと言ってよく、世界のどの都市でも代表的な建築物は銀行かホテル、商業施設になった。またそれらに恒久性は求められず、経済の論理で効率性が重視され、型はあっても美は宿りにくくなっている。そんな時代にたとえば日本のどの町にも寺社があることは興味深い。

さて去年11月21日の午後、昨日書いた白山神社の前を南下し、御池通りに出た。そこから右すなわち西に歩くと、幅広い御池通りの向こう側に朱色の社が見える。この神社は御池通りにあってよく目立つ。さほど大きくないのに、「御池八幡宮」の看板が白地横長で比較大きいからだ。また御池通りに面する間口はとても広いが、奥行きが少なく、どこか拍子抜けを感じさせる。街中にあり、森の雰囲気を求めるのは無理で、また樹齢の長い神木もない。昔から気になりながらも素通りしていたのに、当日は市内の神社の撮影がひとつの目的で出かけたこともあって、写真は撮った。調べるのは投稿の際だ。それでにわかにネットで調べてわかったことを書くが、その前に御池通りについて筆者が最初に知ったことを書いておく。友禅の師に就いていた時、どういう経緯か忘れたが、師は御池通りの話をした。その通りは堀川通りから西は幅が狭く、東側はその3,4倍はあるが、幅が広くなったのは戦時中のことで、アメリカ軍による空襲の被害を少なくするため、つまり焼夷弾で類焼の被害を減少させるため、家屋を取り壊した。その作業を完了しないうち戦争が終わり、すでに柱に鋸が入れられて明日はその柱を引っ張って家を倒す段取りにあった住民は、泣く泣く家を取り壊したとのことであった。師は、家は家族が暮らすためにはなくてはならないもので、それが戦争のために取り壊されることになったのはとてもひどいと話した。アメリカ軍は京都に原子爆弾を落とす予定もあったが、それが投下されていれば戦後の日本はどうなっていたであろう。千年の都の歴史遺産を一気に喪失し、またそのことで新たな日本が生まれたかもしれないが、寺社を尊重しない国になったと想像する。もっとも、戦後の日本はほとんどそのようになって来ているも同然だが、まだ大きな寺社を壊して商業ビルを建てるほどの無信仰にはなっていない。話を戻して、御池通りが拡幅されて80年経っていないが、戦前の御池通りがどのようであったかについてどれほどの人が関心を持っているだろう。ネット時代になって、図書館で国土地理院の地図を確認しなくても、拡幅以前の御池通りの様子が簡単にわかるようになった。もっとも、現在の地図で堀川御池を境に東西で道路幅が違う様子を見ても、御池通り沿いの家屋がどの範囲で撤去されたかはだいたい想像がつく。今日の最初の写真は、アメリカのテキサス州が丸秘保存していた戦前の京都の地図の一部に筆者が手を加えたものだ。黄色の横線が戦前の御池通り、赤く塗った箇所が撮り壊された家屋で、黄に赤を加えた範囲が現在の御池通りだ。また小さな青は戦前の御池八幡宮で、道路拡幅のために撤去され、代わってその左下の横長の青に新たに立てられた。なお、下方の緑色で囲った場所は現在の京都文化博物館で、戦前は学校であった。

現在の御池通りは、同じく幅の広い烏丸通りや堀川通りに比べて車の通行量が少なく、またバスもほとんど走らず、大阪の御堂筋のような落ち着いた雰囲気がある。戦争の災禍を懸念して建物を強制疎開させたことが結果的によかったのかもしれないが、戦前のままであればそれはそれでまたよかったとも考えられる。それに戦争が長引けば、御池通り以外に拡幅した道路があったかもしれず、そうなっていれば京都はその分、戦後車がさらに大手を振り、もっと街並みの破壊は進んだであろうが、どっち道戦後の京都は社寺以外はすべて新たな建物となったも同然だ。外国から京都に来る人は、京都らしさを求めてのことであって、それは千年続いた都の遺産と言い替えてよく、その代表が有名な寺社だが、街中の小さなそれらも街並みに独自の趣を添えていて、その侵されない、そして清められた空間は、言い換えれば最後の日本らしさでもある。先の地図に戻ると、桃色に塗った範囲は足利尊氏の邸宅があった場所で、「室町幕府発祥の地」の石碑が、桃色区域の左下隅の御池高倉上がる東にある。この地は平安時代の前・中期に公家の屋敷があり、後に天皇の御所ともなった。その後足利尊氏が住み、邸内の守護として石清水八幡宮を勧請したので御所八幡宮の名があるが、現在の御所とは直接の関係はない。当然ながら、石清水八幡宮と同じく、応神天皇、神功皇后、比売神の三神を祀る。社域は戦前まで同じ御池堺町西南角にあったのが、前述のように御池通りの拡幅によって現在地に移転した。八幡は町名にも残っていて、この御池八幡は700年ほどの歴史がある。八幡神は平安時代から武士が信仰したが、京都には比較的少ない気がする。石清水八幡宮は小学生の頃に一度訪れたきりで、5年前の春に京阪電車の八幡市駅で降りて
背割桜を見に行った時も、男山の麓まで行ったのにケーブル・カーに乗って石清水八幡宮を参拝しなかった。その時に気になりながら、次の機会となれば、それがまた何年も先になってしまう。また話を戻すと、当日はいわば目に入ったので御池通りの北側から南側の歩道へとわたったが、室町幕府がこの社を抱えた形で中京にあったことを改めて知ると、歴史上の有名人の暮らした屋敷はみな跡形もなく消え失せたのに、神社のみが残って生き証人になっている事実に感心する。そのことは異民族に支配されない限り、おそらく何百年先も同じであろう。ひとつ危惧されることは大地震だ。京都がその被害を大きく受けても、街中の小さな神社は城郭と違って同じ形でたやすく復元出来る。この神社も戦前の様子は写真で残っているはずだが、移転する際に鳥居や社の位置は変わったはずで、そうなってもこの神社の本質は変わらない。形が変わっても本質が変わらないのは、前述の筆者の考えと矛盾しそうだが、型を守れば、外形のある程度の変化はかまわないということだ。