蓬莱の豚まんを母がたまに買って来た。筆者が小学4,5年生の頃で、母は32,3歳であった。豚まんと一緒にトランプ・カードを模した店の宣伝を兼ねた得点カードのようなものも持って帰った。当時母は近くの大きな病院に勤務しめていた。
医院長を初め医者や長期入院の結核患者らと親しくなり、たまに夜に難波や千日前に遊びに出かけていた。それで家でもう眠っている筆者やふたりの妹のためにいつも551の蓬莱の豚まんを買って帰ったのだが、トランプ・カード状の店の宣伝は一緒にその店に行った人たちからもらったものであったのだろう。子どもの遊び道具になるとの心遣いであったかもしれない。とはいえ、筆者はそのカードをあまり手にしたくなかった。子ども心ながらに、夜遊びする母をあまり感心出来ないと思っていたのだ。母らがよく行った店は千日前辺りの当時流行った大衆向きの洋酒喫茶店であったと思う。32,3の年齢で夫がいないとなれば、子育てに懸命とはいえ、飲みに行く誘いに乗って不思議でない。むしろそういう時間は必要であったろう。当時母の知り合いの男女が頻繁にわが家に出入りしていて、筆者は小学生の頃から大人のいろんな事情を知ってかなりませていた。当時20代半ばから30前後の人々で、今にして思えばとても若く、人生をどうして行くかについて悩んでいたことがわかる。そういう母の多くの知り合いの中に、筆者をよくかわいがってくれた、名前は忘れたのでMとしておくが、人のよい男性がいた。無精髭をうっすら生やし、いつもだいたい白い安物のシャツによれよれの薄色のズボンという身なりで、ポパイと同じように小さな錨の紺色の刺青を腕に入れ、それを筆者に指摘されると、若気の至りと言いながら恥じていた。Mは小さな工場で働いていたのだろう。筆者に小遣いをくれたことは一度もないが、筆者はその人に懐いた。というより、同情した。小学生がそんなことを思うのは変だが、それほどに筆者はませていた。Mが母と知り合ったのは、結核で入院していた20代半ばの男性Iが母と親しくなり、Iの親友がMであったからだ。Mはある日、わが家で東京に引っ越す話をした。筆者は東京に知り会いが出来ることを喜び、いつか東京に行った時は泊めてもらえるかとはしゃぎながら訊ねた。Mは悲しそうな表情を浮かべながら、肯定も否定もしなかった。その夜がMを見た最後であった。結婚してまともな暮らしをしたのかどうか、音信不通になったので何もわからない。IやMをチンピラ風情と呼ぶには酷で、学がなく、体を病み、将来にあまり夢を持てなかったのだ。母はそういう連中の相談相手になる一方、年配の医者たちと親しくし、筆者は医者からもよくかわいがられた。筆者は知的な人は好きだが、優しさのある人なら誰とでも親しくして来たつもりで、その性質を母から受け継いだのだろう。
近所には両親揃ってそれなりに豊かに暮らしている家庭が多かった。その近所の家族について本格的に書くことを何十年も思い続けながら、ほとんどを封印している。今日取り上げるシルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」は、このカテゴリーを始めた時、真っ先に取り上げるつもりがあったのに、筆が鈍る。それは60年代半ばのある家族の思いとつながっているからだ。その家族はわが家の4軒隣りで、家内工業をしていた。ご主人のKは体格がよく、また男前で顔は四角く大きかく、寡黙であった。愛想はあまりよくないが、どっしりとして貫禄があり、優しかった。奥さんは小柄でスリムな体形にいつも真っ白な割烹着姿で家事に勤しみ、顔はとても小さく、絵に描いたような美人であった。ところが母はあまり親しくしなかった。奥さんのつんと澄ました様子が気に食わなかったのだろう。Kの子どもは筆者より2歳上の長女、2歳下の長男、その下に幼稚園の男児がいた。長女は均整の取れた細い体つきで、母親似の美人であった。セーラー服がよく似合い、地元の市立に通わず、高津辺りの私立中学に通っていた。その家にレコード・プレイヤーとシングル盤のレコードが数十枚あった。昭和30年代半ば、子どもが近所のよその家に出入りすることはあたりまえのようにあって、放課後や日曜日はよくお互い遊びに行った。ある日の昼下がり、Kの長男が筆者を招き、「アイドルを探せ」を聴かせてくれた。筆者は聴き惚れ、2,3回鳴らしてもらった。そして歌詞カードの裏に小さく印刷されるフランス語をたどりながら、まだ英語も学んでいなかったのに、読まない子音があってーマ字とは少し違うことがわかった。その時の歌詞のたどり具合と、そのレコードを聴いた小さな部屋の様子を、筆者はほとんど60年経った今も昨日のことのように思い出せる。筆者がませていたためかどうか、筆者は接する大人でも子どもでも、瞬時に知性のほどを悟り、また優しいかどうかがわかったが、Kの母や長女、長男はみな平凡な人物で、それなりに優しく、またそれなりに自慢をした。「アイドルを探せ」をK宅で聴いた1か月か2か月後か忘れたが、ある日の朝、母が驚いた顔で筆者に言った。「Kさんがな、夜逃げして家はもぬけの殻や。夜明け前にご主人が台八車で家財を積んでどっかへ行くのを見かけた人がいるんやけど、子どもたちも一緒やったそうや」 順調に見えていた家内工業は金回りが悪化したのだ。以上のことは以前一度書いたかもしれない。問題はその後のK一家の行方だ。それを筆者は知っているが、壮大な悲劇であり、また母を訪ねて一時居候していた筆者の従兄の生涯と関係するところもあって、筆者は封印し続けている。よく知る家族がある日を境に全員姿を消し、その数年後に違う場所で悲惨な暮らしをすることになったことを知り、優雅に見えている暮らしがいかに脆いかを筆者は小学生で実感した。
筆者の手元にK宅で聴いたのと同じ「アイドルを探せ」のレコードがある。日本で大ヒットしたので、同じレコードは何十万枚も製造されたはずで、ネット・オークションでは100年ほどで買える。またジャケットは再販ではデザインが少し変わったが、今日挙げる写真は初版のものだ。そしてこのジャケットがとてもよい。手元にある「アイドルを探せ」のレコードが、当時京都伏見に住んでいた前述の従兄の弟で、筆者より3歳年上の従兄が買ったものである気がしていたので、昔その話を筆者と同じ年齢の従妹にすると、彼女は兄のレコードは全部自分が長らく保管し、やがて全部処分したと主張した。そうかなと思いつつ、そう言えば従兄は「アイドルを探せ」を所有していなかった気がする。筆者は従兄の所有するレコードを夏休みに遊びに行っては毎日よく聴いていたのだ。筆者が所有する「アイドルを探せ」のジャケットは手垢で汚れ、右上端が少し斜めに切り取られている。夜逃げした後のK宅は扉が開けっ放しにされ、部屋は細かい家財は散らかり、その中にレコードがあった。筆者がレコードを聴かせられたのは、玄関を入ってすぐの三畳間で、玄関扉を開けっ放しにするとそこは丸見えだ。K宅の斜め向かいのS宅は、両親の商売が順調で近所では一番の金持ちで、筆者より3,4歳年長で筆者より背の低い長男はとてもすばしっこく、K宅からレコードを持ち去ったことは充分あり得る。ゴミとして処分されるのであれば、有効利用することは何ら悪いことではないと、Sなら堂々と考え、実行したはずだ。そのSから「アイドルを探せ」をもらった気がするが、わが家にレコード・プレイヤーはなく、Sからもらったのであれば、Kの夜逃げから数年後、母が卓上用の小さなラジオつきのステレオを買ってくれた16歳であった気がする。筆者は当時ビートルズに心酔し、シングル盤も買っていたが、やや硬めの厚手のビニール袋に大事なシングル盤を入れていた。それと同じ袋に「アイドルを探せ」が入っている。この袋は年々縮み、今ではジャケットや紙袋を元どおりに入れることに苦労するが、そのビニール袋に入っていることは、筆者がそのレコードを16,7歳頃に所有していたことを示す。当時友人らと割合レコードの貸し借りをして、手元に戻って来ないまま忘れたものがある一方、借りたままになったものもあって、貸し借りはそれなりに辻褄が合っていた。「アイドルを探せ」はSから借りてそのままになったものかもしれない。Sは気前がよく、筆者にLPを数枚くれたこともある。手元の「アイドルを探せ」のレコードは、おそらく筆者が最初にK宅で聴いた時のものだ。そう思うことにする。この曲は日本で大ヒットし、ラジオで頻繁に流れたが、筆者が自覚して聴いた最初はK宅で、ジャケットの歌詞を追いながらであった。それは1964年の春で、もうすぐ中学生になるという小学6年生だ。
ビートルズの「抱きしめたい」はSや近所の兄さんたちの間で話題になり、彼らにかわいがられた筆者は何度かその名前を聞いた。筆者がビートルズを意識するのは、中学1年生になって母が定期購入を許してくれた月刊誌「中学1年生」に、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」の楽譜にビートルズの4人の影絵イラストが重ねて印刷されていたことだ。すぐにその曲をラジオで知り、また当時シングル盤でカップリングされた「ノー・リプライ」の絶叫型の歌に一発で心を射抜かれた。YouTubeで64年のビートルズやシルヴィ・バルタンのライヴ映像が手軽に見られるようになって、それは大いに楽しいが、情報がほとんどない64年にラジオやレコードで彼らの音楽を聴いた経験のほうが圧倒的に濃密で、それで充分という気もする。K宅で「アイドルを探せ」のジャケットを手にした時、上目使いでこちらを見つめるシルヴィに何となく目のやり場に困った。小学6年生の筆者は彼女の年齢を知らなかったが、筆者より7歳上、ジャケット写真は19歳であろう。当時は20代半ばに見えた。しかし当時の筆者は性的なことについて考えることを意識して避けていた。シルヴィは金髪で、体に密着する水色の薄手の半袖シャツを着用し、胸から下は写らないが、明らかに乳房のふくらみはわかる。そこから匂いが上がって来る気が今もするが、筆者はその大人の女性の雰囲気にどぎまぎしながら、ジャケットのデザインの巧みさにも感じ入った。画面上部の題名の地はシルヴィと同じ水色で、シルヴィのシャツ姿の肉感はジャケット上部を占める水色の効果が増加させている。ともかく、こちらを笑みを含んで見つめるシルヴィの現実離れした美貌に筆者は強い関心を抱くことを禁じた。その思いは今もほとんど変わらず、筆者は性の妄想をふくらませない。それはあまり筆者好みの女性ではないからだろう。後年、そのシルヴィと同じ眼差しと匂いを発散する女性と親しくなったことがあり、その経験によってさらにシルヴィの魅力をさほどでもないと思うに至った。またそれよりはるか以前の60年代半ばにシルヴィの歌う姿をレナウンのTVコマーシャルで見て、その姿に虚構がないと感じる一方、「アイドルを探せ」のジャケット写真の彼女はかなり特殊で特別なものと思うに至った。彼女に輝かしいオーラを感じないというのではない。むしろ逆で、完璧な個性を放ちながら、そこに普通の女性としての彼女を感じると言えば当たっている。シルヴィはモデルのような没個性ではなく、前歯に隙間が空き、ハスキー声で中性的だ。その後は知らないが、20歳までは美容整形はしていないはずで、それが却って個性を増加させ、虚勢を張らない自然さがデビュー当時からあった。もっと言えば、日本の後年のアイドルのような「ぶりっ子」ではない、完成された大人ということだ。
シルヴィが売れた後、ゲインズブールがフランス・ギャルのために曲を書き、彼女をアイドルとして世界的な人気者にした時、日本の女性アイドル歌手路線が始まったのではないか。またシルヴィ以前に歌えるアイドル路線としてマリー・ラフォレがいるが、彼女からシルヴィ、そしてフランス・ギャルと結ぶと、その延長に70年代の日本のアイドル歌手が予告されていた。日本は何でも欧米の真似で、またその真似から出発して独自の型を作ることに長けている。アイドルは日本ではもうすっかり型となって、それで誰もが整形して同じ顔つきになり、同じような声で同じような振り付けで踊る。そしてそれはもはやシルヴィとは何の関係もなく、シルヴィやフランス・ギャルのイコン性はますます強化されるが、イコンであると同時に親しみやすさ、原寸大の人間という感じがする。日本の女性アイドル歌手も裸にすれば同じ女だが、裸にしてもなお日本のアイドルは「ぶりっ子」性を脱ぎ棄てないだろう。そこに滑稽さと悲しさがある。シルヴィは最初から「ぶりっ子」ではなかったので、何歳になってもそれなりの魅力によって第一線で活躍出来る。彼女は20歳で映画で共演した1歳年長のジョニ―・アリディと結婚したが、そのことでアイドルとしての人気は失せなかった。日本では考えられないことだろう。さて、8アイドルを探せ」とはえらく飛躍した邦題かと思うと、これは彼女がシャルル・アズナブールと共演した63年の映画の原題の直訳で、その映画で彼女は本曲を歌う。同映画はビートルズ主演の64,65年の2本の映画と同類の音楽を中心にした他愛ないコメディと思ってよく、それもまた日本は輸入してクレイジー・キャッツ主演の映画が何本も撮られ、70年代はタイガースも主演した。「アイドルを探せ」の原題を英訳するとたぶん「most beautiful for all dancers」、つまり「わたしが最も美しい踊り手」だが、作詞作曲はアズナブールともうひとりの男性で、当時いかにアズナブールの才能が光っていたかがわかる。彼は日本でも大人気を博したが、さまざまな勲章をもらい、死んだ時は国葬が執り行われた。一芸能人でそのようなことは日本ではあり得ない。それほど芸、芸術を重視する国ということで、またアズナブールもシルヴィもアルメニアの血を引き、国籍を取得すれば異国の血でも差別されない。シルヴィの父はブルガリア人で芸術家、母はハンガリー人で、シルヴィは8歳で一家とともにソフィアからパリに亡命移住した。不良が芸能界に入ることとは違って教養と品がある。育ちのよさは芸に大きく関係する。もちろん不良上がりはそれなりのファンをつかむが、大衆は芸能人に夢を見る。その夢は有名、裕福以外に品のよさも含む。自分にないもの、自分から遠いものに人は憧れ、目立つアイドルは永遠に探し続けられる。