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●神社の造形―梨木神社
通を利かせることは必要でもその限度をどう捉えるかで揉めることがしばしばある。それには歴史が物を言う場合が多い。たとえば土地の境界線だ。精密な測量技術によって今は地価の高い地域ではセンチメートル単位で土地の境界線を定めるが、それがうまく行かずに所有者が対立する話を耳にする。



●神社の造形―梨木神社_d0053294_00372183.jpg昔の簡単な地図を使っていた時代では目印になる大木などでおおよそ決めていたが、それの根拠がどこにあるかとなれば、言い伝えしかない。また簡単な土地の区割り図を作るにしても、その言い伝え、つまり歴史を元にするしかなかったが、その歴史の正しさを保障する文書が真実とは限らない。ある時点で自分につごうのよいようにでっち上げると、それが事実として伝わって行く場合があって、その「言った者勝ち」は今でもどこでも見られる。京都の老舗には創業をおおげさに古く謳っているところも少なからずあるだろう。古文書があると主張しても、その古文書が捏造である場合を疑ってかかる態度は必要だ。さて、この「神社の造形」のカテゴリーを始めたのは去年7月下旬でまだ1年経っていない。それで暇があれば身近な神社を片っ端から訪れているが、これは神社に因んで歴史を知る思いもあるからだ。歴史が神社の造形に深く関係することはある。そのひとつの興味深い、いかにも現代を示す例が梨木神社で、去年11月21日に訪れた。蘆山寺とは寺町通りを挟んで対峙し、当日筆者は梨木神社を先に訪れた。寺町通りを四条から北へと歩き、丸太町通りをわたると、すぐ左手に御所に沿って細長い土地が続くことに気づく。鴨沂高校の前で、そこが駐車場になっていて、いつも車がたくさん停まっている。その南北に細長い土地は梨木神社の所有で、本当は参道であろう。その駐車場の北端に大きな石の鳥居があり、そこから北が同神社の境内であることは確かだが、その「一の鳥居」の奥も実は駐車場になっていた。その様子は「一の鳥居」以南よりは萩が参道沿いに密集して植えられていたので、寺町通りからは見えにくかったが、白い車であれば目立った。どの神社でも「一の鳥居」から「二の鳥居」までは境内の雰囲気が重視されないのか、梅津の梅宮大社でもその間は両側に民家が迫り、雑然としている。それに比べれば梨木神社の「一の鳥居」から「二の鳥居」までの参道は、とても幅が狭く、また突き当りに社殿が小さく見通せるので、駐車はさほど気にならなかった。梨木神社が社殿の修復などの維持費を捻出するため、「一の鳥居」から「二の鳥居」までの土地にマンションを建設するというニュースが3年前の秋に報じられた時、筆者は京都市内の神社で同様のことが起きると思った。今春のいくつかの投稿で筆者は千本二条の出世稲荷が大原に移転したことに触れたが、梅宮大社も筆者が京都に来た頃とは違って、本殿背後の森は半減し、フクロウもいなくなった。境内の一角を駐車場にしたからだ。
●神社の造形―梨木神社_d0053294_00374409.jpg 同じ問題が梨木神社に生じても不思議ではない。背に腹は代えられず、神社を現在地に、しかも昔の社殿の雰囲気のまま残すのであれば、金の問題をどうにかする必要がある。誰も経済を助けてくれないとなれば、土地を駐車場にするか、賃貸しして建物を建てさせるしかない。出世稲荷が同じ場所で存続出来なくなった理由は、やはり社殿の維持が限界に達していたためだろう。交通量の多い千本通り沿いでは木造建築は傷みも早かったはずだ。その点、梨木神社は御所の東隣りで、閑静な地域だ。その地味さもあって参拝客はあまり望めなかったであろう。筆者はマンションが建つ以前、また「神社の造形」の投稿を始める前に訪れながら、写真は撮らなかった。そして気になった時にはもう工事が始まり、あっと言う間にマンションが完成した。「一の鳥居」と「二の鳥居」の間によくぞこれだけ効率的に鉄筋コンクリートのマンションを建てなと思うほどに、敷地いっぱいに建っている。もちろん高さや建蔽率を守ってのことで、また御所や梨木神社がすぐ隣りにあって、落ち着いた雰囲気から人が住んでいないような気がする。その住民はみな京都人かと言えば、資産のために買った東京人が別荘代わりに使っている場合が多いと想像する。また車がなければ買い物に不便で、金持ちが車でマンションを出入りしてマンション住民以外の人に顔を見られずに済む。それはさしずめ昔の貴族と同じで、現代の貴族は金をたくさん持っていると誰でもなれる。それを言えば昔もそうであったかもしれない。ともかく、御所に接した周辺はマンションの立地としては上京区では最高と言ってよい。梨木神社の北200メートルに明治2年創立の、湯川秀樹が卒業した京極小学校がある。寺町通りに面したこのマンションは京極学区におそらく属し、京都市内では最も地価が高い部類に属し、他府県からの入居者が多いことが想像出来る。妹の息子や孫は同校を出ているが、妹によれば同校卒の履歴がほしいために同学区に転居する人が多いと聞く。成金の考えそうなことで、彼らが湯川秀樹のように立派な人物になればいいが、学問より金儲けに血眼な親では無理に決まっている。あるいは政治家になって、もっと桁違いに儲けようとする。梨木神社としては、駐車場と参道として使っていた土地であり、また60年という期限を設けてのマンション業者との土地契約だが、一旦建物が建つと60年後に建て直されることは100パーセント間違いない。あるいは丸太町通りから「一の鳥居」まで続く前述の現駐車場にもマンションが建つだろう。神聖な境内に何ということをするのかと憤る人はあるし、実際神社本庁は反対したが、そこを脱退してのマンション建設で、京都の神社が大きな曲がり角に来ている見本だ。ところが、梨木神社が出来た経緯を知ると、マンションはある意味で理にかなっていると思える。
●神社の造形―梨木神社_d0053294_00385592.jpg 今日の写真を説明しておく。最初は「一の鳥居」で、奥つまり北にマンションがそびえている。2枚目の3連写真は上が「一の鳥居」の真下から東を向いた。大木が1本中途半端に切り株になっている。マンション建設で邪魔になったのか、台風で倒れたのかはわからない。2枚目中央は「一の鳥居」をくぐってマンション沿いに御所方面つまり西に進み、すぐに御所の塀に突き当たって北方向に歩き、マンションの北辺に出た時に東を向いて撮った。奥の建物は府立医大だ。マンション側の中ほどに石碑があり、それを撮ったのが下の写真で、これは上田秋成が死んだ屋敷跡を示す。この石碑は昭和37年に秋成を顕彰する人々が建てたもので、元は今日の2枚目の写真の上、「一の鳥居」を入ってすぐ御所側にあって東を向いていた。土台はもっと大きかったが、マンション北側の新たな小径ではそれはふさわしくないと考えられ、土台はかなり低くされ、また北向きに変わった。筆者は中学2年生の社会科歴史の授業で『雨月物語』の著者の上田秋成の名を先生が発した瞬間のことを今も鮮明に記憶する。秋成が大阪が生んだ偉大な人物であったからという理由ではなく、自分でも理由がわからないが、秋成のことが妙に心に残った。秋成のことを詳しく知るのは京都に来て長年経ってからであったが、年々好きになる人物で、秋成に因む場所は全部訪れたいと思っているほどだ。秋成は晩年目を悪くし、また妻を亡くして貧困に陥ったが、国学者でもあったので周囲に理解者が多く、居候の形であちこちに住んだ。最終の地が友人の歌人宅であった。その場所はおおよそわかっているだけで、また梨木神社の境内ではなかった。寺町通りを挟んで同神社の東に府立文化芸術会館がある。その土地かその周辺であったことは間違いないが、石碑建立にふさわしい場所として同神社の境内でしかも息を引き取った邸宅から最も近い場所が選ばれた。それは「一の鳥居」の外では具合が悪く、内側の東で御所を向くのがよかったと思うが、御所を背にして建てたのは国学者としてはふさわしく、秋成も本望であったろう。その石碑がマンション建設によって、秋成の没した家から遠のき、北向きとなったのは納得が行かないが、撤去されるよりははるかにいい。こういう石碑はよほどの有名人でなければ迷惑がられるが、秋成が国学者であったことが幸いした。せせこましい路地にひっそりとあるのが理想と思うが、それでは区画整理で撤去される可能性が大で、神社に置いたことはよかった。刻まれる歌は同神社に無関係だが、下の句の「昔の人のしのばるるかな」はマンション建設を改めて考えさせるようで面白い。晩年ますます風刺がきつくなった秋成がこのマンションをどう思うかを想像すると、よくぞこの石碑が昭和時代に建てられた。当時は誰も神社にマンションが建つとは思わなかったに違いないが、秋成は時代が変わることをよく実感していた。
●神社の造形―梨木神社_d0053294_00392231.jpg 秋成が生きていた頃、梨木神社はなかった。そこは公家の屋敷であったが、明治になって天皇が東京に移り、多くの公家の住まいが取り壊された。その跡地のひとつに梨木神社が建てられたが、これは地名に因む。この神社は萩で有名で、細い参道の両脇を萩が生い茂る様子は見ておく価値がある。石碑は湯川秀樹のものもあり、また名水が湧く井戸がある。境内は東西に比べて南北が異様に長く、それでマンションが出来ても「二の鳥居」以北は昔のままで、まあ南を見ないようにすればよい。祭神は明治維新に貢献した公家の三条実万で、彼は秋成の最晩年に生まれ、開国に際して尽力し、「安政の大獄」で謹慎処分の後、安政6年(1859)に58で没した。邸宅跡に神社が出来たのはその四半世紀後だ。筆者がこの神社の名前を最初に耳にしたのは1977年元旦の爆破事件だ。それは当時大きなニュースになった。左翼による行為で、また同じ人物が同年秋に東本願寺爆破事件を起こし、過激派の破壊行為は70年代はひとつのブームになっていた。当時も今も過激派の思想に筆者は無関心だが、梨木神社を爆破した人物の加藤三郎が筆者より3歳上で、天理教の家庭に生まれ育ち、さまざまな思想遍歴を重ねたことを知ると、そこに筆者とは別の意味での一生を費やして自己完成を目指し、それを形として残したいという意思があったことに理解の糸口が得られる気がする。家内が生まれ育ったのは大阪西成の天理教の教会で、それは空襲で家が焼けて身を寄せる場所がほかになかったからだ。家内の両親は天理教を信仰はしていなかったが、天理教に恩があり、今も家内は天理教について肯定的に思っているが、その天理教から激烈な過激行動をする左翼が生まれたことを悪く思わないほうがよい。ネットによれば加藤はインドの思想に心酔するなど、精神のよりどころを求め、一方ではアイヌや朝鮮人など、迫害を受けた民族に同情的で、帝国主義反対の思いを読書から培って梨木神社を爆破した。爆破とはいえ、世間を賑わすのが目的で、わずかに焼いただけだ。加藤は個人で活動したが、セクトを作って対立することは60年代後半から顕著になり、72年の連合赤軍による浅間山荘事件はTV中継されて世間を大騒ぎさせた。彼らは仲間割れからリンチ事件を起こすなど、その排他的感情は宗教の狂信と同様、筆者は忌避すべきものの代表と思うようになった。筆者は多人数が集まって何かをすることをあまり好まず、それゆえまだ加藤は他の過激派と違って関心がある。彼が芸術家であれば時代を画する作品を遺したかもしれず、青春のエネルギーをどこに向けるかで人生が大きく変わることを思うし、今なら筆者は加藤の思想の遍歴は少しは理解出来るかもしれない。今は若者があまりにも国政に無関心になっているが、70年代とどっちがよかったのか。筆者のことを言えば、70年代に現在のほとんどの関心が芽生えた。
●神社の造形―梨木神社_d0053294_00395530.jpg

by uuuzen | 2016-05-07 23:59 | ●神社の造形
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