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●『永遠の片想い』
昨夜、本の整理を少しした。家中のあらゆるところに置いているが、どこに移動しても容量は変わらないので、今一番ほしいものは広い部屋と本棚だ。



●『永遠の片想い』_d0053294_1562321.jpg体育館みたいな広い部屋がほしいと昔から思っているが、実現不能が100パーセント確実になっているので、今後も本は縦に積むしかない。こうなると下の方にあるものを引っ張り出すのは1年に1回あるかないかになる。本はやはり立てるものだ。だが、体育館に住むことが実現しないとも限らない。たとえば大地震が来て家が倒壊するなどした時だ。避難先として住むことになる。実際そのようにして子どもの頃、体育館に一時避難した経験がある。その時は台風による浸水であった。話を戻して、昨夜移動した本の中に『コラーニ・バック・イン・ジャパン』を見つけた。これは去年ドイツ文化センターでの蔵書放出で入手した新本だが、まだまともに見たことがない。昨夜もまともに見てはいないが、表紙の埃を払って、パラパラと中を見ると、芥子の実が一部欠けて中が除いている素描を見つけた。芥子と言ってもモルヒネが採取出来る本当の芥子だ。春になれば道端に咲くあの小型のひなげしではない。本当の芥子の実はひなげしのそれの何十倍の大きさがあって、写真では子どもの握り拳程度ある。ルイジ・コラーニは本の中でこの大きな芥子の実をスタジアムのデザインに応用するアイデアとして提供している。芥子の実の外観はよく知っているが、内部がどうなっているかは知らなかった。それがこの素描で大体わかるようになっている。縦方向に仕切りがあって10いくつかの部屋に分かれている。これを実際に確認するために本物の実がほしいが、日本ではごく一部でしか栽培しておらず、許可を得なければ花の写生が出来ないし、ましてや実となると譲ってもらうのは不可能だろう。そうなるとよけいに入手したいもので、菱の実、クルミと制覇した次にこの芥子をと考え始めている。
 長い枕になったが、まだ続く。コラーニの芥子の素描を見た後、その下にあった本を今度は開いた。いや、床に落としそうになって勝手に開いた。『韓国現代詩選』という本だが、何という偶然か、開いたページに「芥子粒のうた」という詩が載っていた。この本も買ったまま一行も読んだことがなかった。それなのに本から読んでくれと言って来た。詩は短い。「そんなに大きくなくってもいい そんなに熱くなくってもいい 芥子粒ぐらいだったらいいの 芥子粒に吹く風であればじゅうぶん」。カン・ウォンギョという1946年生まれの女性詩人の作だ。訳者は茨木のり子。この詩にある微視的かつ果てのない宇宙空間を感じさせる視覚的な味わいはどうだろう。それでいて人間の心というものにしっかりと寄りそった眼差しがある。一度読んですぐに衝撃を受けた。さまざまに解釈は出来る。たとえばコラーニが芥子の実の内部空間をスタジアムになぞらえることにもどこか共通した「広さ」がある。広さは人間が持つべき心では最も讃えられてよいものだ。「そんなに大きくなくってもいい」と言う言葉の中にとても大きい心があるのはどういうことだろう。ところで芥子のまだ青い実の外皮を傷つけるとそこから白い汁が出て来る。これを集めて乾燥させるとアヘンが採れるが、そうした後の実を完熟させると中に芥子の微細な粒が出来る。これは菓子パンの表面によく使用されているものであるから、このルートを辿ると芥子の実も入手出来るかもしれない。韓国人は今でも詩を愛すると聞くが、日本では詩人はすでに滅びた人種に思える。いや、存在はするが民衆の間に広まって行かない。民衆が詩を枯渇した思いから期待しなくなっている。今と視覚的なものが、そして単純でわかりやすいものばかり、つまり軽いものが受ける時代だ。その流れは当分変わらないだろう。名前が売れれば勝ち、何でもとにかく受けるが勝ちという価値の時代だ。
 さて『永遠の片想い』。京都放送で先月録画しながら長らく見なかった。そして見るには見たが、最後の1、2分が切れていて、結末がわからない。そんな中途半端なことでここで採り上げるのはまずいが、ネットで調べると最後がどうなるかは大体わかったので書くことにした。まず映画のタイトルが甘ったるい。そのため見ないでおこうかと思った。若者を対象にした作品であることがわかるからだ。『オーバー・ザ・レインボー』もそうであったが、若者たちの恋愛を扱った作品は筆者はもうほとんど関心が持てないでいる。それにこの映画では主役の女性のふたりが死んでしまうので、よけいにそうだ。人が死ぬ映画は何となく卑怯な気がして面白くない。あまり簡単に人を死なせてはいけない。どんなことがあっても生き抜いて行こうとする人物を主役に置いた作品を筆者は好む。ま、そんな好みを言ったところで仕方がない。「片想い」が恋愛の極致であることは確かだ。誰でもそんな片思いの心を抱いたことはある。「片想い」は人間がプラスとマイナス、凸と凹で一対になるという考えに由来するから、プラスやマイナスが他方より多ければそこにはじかれる存在が生まれる。それを最小単位にすれば1対2だ。この映画はそれを物語の柱として用いている。1は男で、2は女だが、これが逆だと闘争本能むき出しの男っぽい映画になるが、ここでは逆で、いわば両手に花、映画も自然と優しさの溢れた細やかな表情を呈する。最初の方でも予感させるが、映画が進むにつれてふたりの女性が病弱であることがわかる。まずひとりが死に、そして最後にもうひとりが死ぬ。男は最初はふたりのうちのひとりが好きになるが、それが拒まれたのでふたりと友人づき合いをするようになる。そうこうしている間にふたりの女性は男に好意を抱くが、やがて男は最初に好きになった女性ではなくもうひとりの方を想うようになる。女性同士は高校生の時から仲よしで、戯れにお互いに名前を交換して過ごしていたが、そのことを知らない男は、ふたりの片方が死んだということをある人物から聞いた時に、てっきり自分の好きな方と思う。そしてそれを確認する間、自分に送られて来る見知らぬ子どもたちの写真が入った封筒の住所を頼りに田舎を訪れ、そこで自分が好きな女性との再会を果たす。しかしそれも束の間だったようで、その女性もまた病で死ぬ。こういう筋立てだが、『それも束の間だったようで、その女性もまた病で死ぬ』という部分は見ていないので想像だ。このようにあら筋を書くと男が優柔不断でいい加減なように見えるが、男は案外そんなものだ。女性ふたりが大の仲よしで、そこにひとりの男が現われるとどうなるかはほとんど最初から予想がつく。男がどちらか片方と結ばれる話であればあまりに卑近過ぎて映画にはならない。最も効果的なのは男をひとりにしてふたりの女を手の届かない死に追いやることだ。そのことで「永遠」は保証される。だが、筆者の好みを言えば、生きながらにして永遠に出会わない方が本当の永遠に思える。
 この映画で好感が持てたのは、女性がともに高卒で、しかも金持ちでも何でもないことだ。男も20歳でタクシー会社で運転手をしながら大学に通っている。この設定はよい。男が金持ちのぼんぼんで海外に留学するとか、スレトランで頻繁にデート出来るといった身分ではどこか現実離れしてしまう。そんな男であれば薄幸な女性に恋はせずにせっせと尻軽な女を漁り続けるだろう。映画は5年前の出会いから始まるが、ちょうどそれは2002年の日韓合同のサッカーのワールド・カップの時期だ。TVで放送中のスタジアムでの日韓試合を見て興奮する男の姿が映る。男は写真で将来は生きて行こうと思っているが、ある日カメラを手にしてファインダーを覗いていると、ひとりの女性の姿が飛び込んで来た。それが女性ふたりとの出会いだ。カメラを物語の重要な小道具にすることは韓国映画やドラマには頻繁に見かける。『オーバー・ザ・レインボー』はその最たるものであるし、『冬のソナタ』でも部分的にあった。韓国はレンズ研磨の技術が日本より大幅に立ち遅れているのか、必ず日本製のカメラが登場する。日本製の高級カメラを持つことはひとつのステイタスなのだ。この映画では主人公の男が女性ふたりに出会うきっかけとなったカメラ、写真というものが最後までずっと尾を引いて登場する。「回顧」の道具として写真は絶好のものだ。男は父親を亡くしているが、アルバムにはたくさんの家族の写真があって、それでいつでも思い出せると女に語る場面がある。また友人を亡くした片方の女が男に知らせないまま田舎に転居した時、自分を慰めてくれるのは近くの子どもたちの写真を撮ることだ。そのようにしてたくさんは撮った写真は、住所を書いた封筒に入れられたままどれも男に送られることはないが、女に片想いを寄せている地元の若い郵便局員が勝手にその中のひとつを男に送る。それを元に男は女性のもとに行って出会いを果たす。それは最初の出会いから5年経っていたが、女性ふたりが男と会っていた時期はごく短くて、1年に満たなかったのではなかったろうか。男は当然卒業して就職しているが、これは映画の最初で描写されたように思うが、結局タクシー会社の運転手にそのままなった。この設定もよい。男をわざわざどこかの一流企業の社員や有名カメラマンという設定にすれば嘘っぽくなる。得てして夢はかなわないもので、なにがしかの一般的な職業をして生きて行くのが普通の人間なのだ。それは別に不幸なことではない。一流企業の社員や有名な芸術家であってもそれなりの不幸はある。
 男イ・ジファンを演ずるのは陽気な演技では抜群なチャ・テヒョン、女は先に病気で死ぬのがシム・スインで、これは近頃急速に日本でも人気の高まっているソン・イェジン、田舎で療養生活を送りながら子どもたちの写真を撮り続けるのがキム・ギョンヒで、イ・ウンジュが演じている。3人とも適役で、特に前半部におけるまだ楽しそうな3人の絡みはなかなかよい。そんなチャ・テヒョンが後半は打って変わって深刻な表情を見せ始め、まるで別人かと思わせもする。スインはいかにも弱々しくて可憐で、3人がカラオケ店に行った場面では、日本ではふた昔前ほどにはあったかもしれないような、リズムに合わせて両膝を少し曲げつつ歌う。これは見ていて気恥ずかしくなるが、堂に入った演技で特にそうも感じさせない。ギョンヒはスインよりも長生きはするので、より活発な性質として登場するが、それでもはかなさがあって、これもまた見事と言うほかない。彼女は2年前だったか、自殺してしまった。今にして思えばそんなことを予感させてもいそうな映画だと言える。スインとギョンヒは全く顔は似ていないが、どこか双子であるような気にもさせるほど似た感じで登場し、これは仲よしで名前を交換するという設定からしてもそのような演技を求められたのであろうが、さすが主役を張れるだけの役者だ。この3人のほかに印象的な出演者としては、ジファンの妹にムン・グニョンが出ている。『秋の童話』より成長した姿が見られる。勝手にギョンヒの封書を郵送する郵便局員のシンシクは、TVドラマ『ピアノ』で憎たらしい不良を見事に演じた男シン・スンファンで、現実には少しあり得ないようなこういう配役を置いているところはとてもふくらみがあってよい。監督のイ・ハンについては他の映画は知らない。映画の原題は「LOVER’S CONCERTO」という、これもアメリカの60年代に大ヒットしたポップスをそのまま使用しているところを見ると、大体世代の想像はつく。映画ではこの曲は使用されなかったため、どういう意味を汲み取ればよいのか少し理解し難いが、「永遠の片想い」もあまりに少女趣味と言えるので、もう少し工夫があってよかった。誰にも知られないような芥子粒のような小さな存在の人々における悲しい恋の物語ではあるが、そんな人々にも風は吹くし、スタジアムほどの広大な心の部屋がある。この映画を見るすべての人も宇宙から見れば同じように芥子粒のように極小の存在で、映画の中のことが充分起こり得ることとして共感するところはあるだろう。「永遠の片想い」が成就したことになるジファンがどのような思いでその後の人生を歩むだろうか。それこそ「そんなに大きくなくってもいい そんなに熱くなくってもいい 芥子粒ぐらいだったらいいの 芥子粒に吹く風であればじゅうぶん」とでも思うか。
by uuuzen | 2006-03-18 13:14 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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