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蟹の横歩き」は「人の勝手」でもあって、蟹に前向きに歩かせては迷惑がられる。飛ぶ鳥は人間を見てきっと不自由だと思っているはずで、それを自覚する人間は飛行機を発明したが、いずれ進化して鳥になるだろう。
とすれば人間は鳥より遅れていることになる。さらには蟹よりも劣っているかもしれず、蟹の横歩きを不思議に思わないほうがよい。人間のほうがはるかにおかしなことをしている。文字を書くことはその最たることで、無料でほとんど誰も読まないこのような文章を毎日綴る筆者は、狂っているとしか言えない。とはいえ、筆者はこの行為を蟹の横歩きほど自然なこととは思っていない。きわめて不自然なことと自覚していて、また人間はその不自然の中で生きることが他の動物と違うところだと思っている。ロビンソン・クルーソーのように自然の中で自然らしく生きることは筆者の関心にない。さて、今日は9月18日に大阪市立美術館に『土佐光起展』を見るために訪れた際に通り抜けた大阪天王寺の「てんしば」の写真を使う。
去年の梅雨時に初めて訪れた時、芝生はまだ根づいていなかった。それがほとんど緑色になった。以前は公園内のほとんどの面積がタイル張りで、その反動としてこの芝生は妥当だが、芝生はもともと不自然なものであって、タイルとは質感が全く違うが人工的な点では同じだ。筆者の恩師がボストン大学に1年ほど招かれた時、玄関前に広い庭のついた一軒家を使用し、その庭の芝生が伸びると、近所の人が芝刈り機を貸してあげようかと言ったそうだ。それは「お前のところだけ芝生を刈らないので、近隣の住民はみんな迷惑している」という意思表示で、先生は芝生は面倒だと思ったそうだ。先生の家は築百年以上の日本家屋で、裏にいくつかの石燈籠が立つ大きな庭があり、その植木の手入れをたまに思い立ってすると聞いたことがある。そういう庭に比べれば、芝生は大雑把で味気ない。それでも天王寺公園はラヴホテルや高層ビルで囲まれ、緑の地面はほしい。ごろりと寝転ぶことは出来ないようだが、大勢の来場者がみなこの芝生をくつろぎの場として自由に使えば、毎日のことであり、芝生はダメージを受けるのが早い。あるいは成長が適度に抑制されていいのかどうかだが、ゴルフ好きな親父がゴルフクラブを持参せずともスイングの素振りをしそうで、今後この芝生の評判がどうなるかだ。見るだけでも植物は心を癒す効果があって、2,30年はこのまま行くだろう。そして管理や手入れの費用がもったいないということになれば、またタイルを敷き詰める意見が出るはずで、そのような繰り返しで歴史は進むが、何でも儲からないことはやめてしまえという考えの為政者の口から、天王寺公園をつぶして轢死状態にしてもすぐ慣れるという意見が出て来ないとも限らず、それなりに同公園の推移を見て来た筆者は行く末をあれこれと想像する。