鈍感は無関心と同義に使われることがある。一旦関心を抱くと猛烈に詳しくなる人がいるが、世の中はクイズ番組ではないから、即座に反応して答えを出す必要はない。とはいえ、人生は有限であるという幽玄さに誰でもいずれ気づくものだ。

鈍感を決め込むもよし、敏感になって走り回るのも勝手だが、筆者はなるべく長年気がかりになっていることは解決しておきたいとますます思うようになっている。今日は
1年2か月ほど前の7月30日の満月の夜に家内と登った愛宕山の頂上にある神社について書く。その日に撮った写真は全部深夜のことで、提灯の列やぼんやりと浮かぶ千日詣りの人々の姿が写っているだけで、愛宕神社の外観がどのようになっているのかはわからないままでいる。神宮寺であった時の本尊についても知識がなく、先ほど同神社のホームページを見てにわかに知識を得た。明治の神仏分離令によって寺はなくなり、その本尊は別の寺に移された。高い山にある寺となれば修験道が絡むのは常識で、愛宕山には白雲寺があった。その三門は黒門と呼ばれて現存する。今日の最初の写真がそれで、往路で直前に撮った。夜なのでなおさら黒く見える。この門の奥が境内で、門から石段は少し左に曲がり、その後愛宕神社本殿の前までほぼ一直線に続くが、千日詣りの夜は門以降、提灯がたくさん灯される。今日の2枚目は長い石段の突き当りの本殿で、3,4枚目はその内部だ。去年7月30日の「ムーンゴッタ」の投稿にも似た写真を使った。本殿の授与所で筆者は「火廼要慎」と書いた大きな御札を買った。それを買うのが主な目的で当夜は登った。それはともかく、本殿内部は大勢の人で、これは千日詣りであるからだ。普段は夜に訪れる人はいないはずだ。訪れるにしても麓からの石段は真っ暗で懐中電灯が必要だ。戦前はケーブル・カー、ホテルがあったが、夜も参拝出来たのだろうか。戦時中の鉄の供出でケーブル・カーが撤去され、それで愛宕神社参拝はかなり減少したのではないか。渡月橋から東100メートルに路面を走る電車の嵐山駅があって、それを使ってケーブル・カーに乗り継げば、足腰の悪い老人でも愛宕山に登ることが出来た。戦後に麓の清滝は嵐山からはハイウェイで結ばれて便利になったが、戦前は線路で嵐山から清滝、そして愛宕山と観光名所はつながっていた。それは現在の生駒山を思えばよい。生駒山がいいのかどうかだが、静かな宗教的敬虔さを保持する意味ではケーブル・カーやホテルはないほうがよい。そういう意見が戦前からあったために愛宕山登山のための路面電車やケーブル・カーは廃止されたかもしれない。ホテルがあった場所は現在誰の所有か知らないが、戦前の状態に復するかと言えば、大資本が金儲けになると思えばことを進めるだろう。ケーブル・カーのあった場所は現存し、復活の工事費用は案外安く済むかもしれない。

白雲寺の名称は、渡月橋から仰ぐ愛宕山がしばしば雲に隠れているところからはふさわしい。全国に愛宕神社は900もあって、京都はその本社というから、登っておいてよかった。TVで紹介される愛宕神社は東京港区のそれで、そこが本社と思っている人が多いのではないか。都内の神社であるので、長い階段があるとはいえ、お詣りするのは京都の愛宕神社の比ではないほどに楽だ。それが忙しい現代人には向いていて、そう考えると京都の愛宕山のケーブル・カーを復活すべきという意見が出るかもしれないが、愛宕山によく登っている隣りの自治会のYさんは、東京から1か月の休みを取って京都にやって来て毎日愛宕山に登っている夫婦がいたと話してくれた。遠方から訪れるのは、麓から1時間以上かけてたどり着く本山のほうが御利益があると思うからだろう。修験者が身を酷使するのは、信仰は気楽であっては軽くなると思う心が本来人間に具わっているからではないか。とはいえ、神社は多くの参拝客がお金を使ってくれることで本殿の修復や維持が可能となるから、京都の愛宕神社は東京の愛宕神社の賑わいをどう思っているのかと、つい下衆なことを考える。1年に一度の千日詣りでは参拝客の年間数は、たとえば伏見稲荷大社に比べると微々たるものほどにも及ばないのではないか。神社であるからには本尊と呼べるものはないが、それでは仏像ファンは見向きもしないだろう。ホームページによれば白雲寺は修験道の祖「役行者」と白山の開祖が朝廷に許可を得て神廟を建てたことに由来するとある。なるほどと思う。中京に小さな白山神社があるからだ。白山と京都にどういうつながりがあるのかと言えば、日本は山だらけで、加賀の南部の白山から近江、そして京都へと山つながりで白山の山岳信仰が朝廷のある京都に勢力を伸ばしたことは容易に想像出来る。とはいえ、京都ではやはり熊野信仰が大きいはずで、そのことが明治になって白雲寺を愛宕山から追いやった理由になっているかと、何も知らない筆者は勝手に想像する。それで白雲寺にあった本尊の愛宕権現こと勝軍地蔵も廃棄したのかと言えば、さすがにそれはなく、大原野の金蔵寺に移されたが、同寺の本尊は十一面千手観音であるから、寺のどこにどのような形で保存されているか気になる。金蔵寺は大原野神社の西方1.5キロの山中にあって自転車で充分日帰り出来るが、山道なので寺の前まで自転車で上るのは無理だろう。大原野神社には思い出があるのでいずれ行きたいが、そこからさらに山奥となると気は進まない。勝軍地蔵は普通の地蔵とは大きく違って鎧兜姿で馬に乗る姿だ。その名前からも推察されるように軍神で、武士から信仰が篤かった。となれば武士がいなくなった明治以降は人気がなくなったのかもしれないが、神仏混交はいろんな御利益を神宮寺に持たせた。

愛宕神社は「火廼用慎」の御札によって京都中の人々が知っている。それは誰が最初に書いたのか知らないが、同じ書を長年使っていて、ロゴマークのように京都人の意識に深く入り込んでいる。建物が木造であった時代、京都人は特に火伏せの神を身近に感じていたほどに火事を恐れた。台所に伏見人形の布袋像を飾るのもその理由による。火を出せば下手をすれば京都中が丸焼けになる。それで他人に迷惑をかけてはならないという思いが京都人には特に強く根づいたのだろう。現在は燃えにくい建材を使い、消化器も整い、火の不始末による火事は激減しているので、「火廼用慎」の御札を貼る家も少数派になっていると思うが、用心するに越したことがなく、まじないでも長い伝統であればそこに意味を見出したい。愛宕山が火伏や厄除けの役割を担ったのは、京都盆地の北西に位置して市中を守るという陰陽思想からだ。北西から禍がやって来るという思いは、古代に遡ると大陸から敵がやって来るということにつながるかもしれない。もちろん大陸から先進文化を取り入れて来たので、防御一辺倒ではあり得ないが、海を越えた地域と交流を持つことは、疫病などの禍も入って来る危険を意味する。そのことを古代人は知っていたはずだ。沖縄にも外からの禍の侵入を防ぐ敢当石が道路の各所に設置されて来た。その巨大なものが愛宕山とみなされた。その考えに立てば京都盆地は都として理想的で、北西によくぞ1000メートル近い山が聳えていた。そういう愛宕山であるから害を防ぐための塞神信仰が興るのは理解出来る。そして勝軍地蔵を別の寺に移すとして、真南10キロの金蔵寺となったのは陰陽思想が関係してのことだろうか。勝軍地蔵は白雲寺から全国の愛宕神社に勧請されたとのことで、東京の愛宕神社では今も祀っているかと調べると、主祭神は火の神の「火産霊命」(ほむすびのみこと)で、勝軍地蔵ではなく、少し字を変えた将軍地蔵も祀られている。創建は1603年で京都の愛宕神社より1000年近く遅れ、商売繫昌、縁結びの御利益もあるとするのは予想どおりだ。また愛宕1丁目の海抜26メートルの愛宕山山頂にあるが、京都の愛宕神社は嵯峨の同じく愛宕1丁目ながら山の高さは40倍近く、本社の貫禄がある。京都人ならば一度は千日詣りで登るが筆者が気になるのは、嵐山から松尾を結ぶ道路、つまり梅津に買い物に行った帰り、松尾橋を西にわたって渡月橋方面を目指すと、その真正面に愛宕山の頂上が見えていることだ。その道は桂川の流れに沿っただけと言えるかもしれないが、偶然にしてはあまりに舞台が出来過ぎで、わが自治連合会の人々は毎日愛宕神社に見下ろされている。梅津や桂、嵯峨などに愛宕山への道を示す江戸時代の石柱状の燈籠があることによく気づくが、それらを調べ上げた人がいるだろうか。グーグルのストリート・ヴューに頼れば実際に歩かなくても済むかもしれない。