廃れたものが新しいものに取って代わられると、まず新しい名前が必要になる。歌舞伎や落語の世界では名前をそのまま継ぐことが多いが、それは最初に名乗った人物の偉業を伝えるためだ。
となれば二代目、三代目などは初代に比べてたいしたことがなさそうに思われるが、実際そうだろう。なので、筆者は襲名が好きではない。名は個性を表わすもので、個性の表出を旨とする芸能の世界ではひとりずつが別の名前を名乗るのがよい。京都府立総合資料館は先月新たな名称の新たな建物として誰でも利用出来るようになった。筆者は気になりながら一昨日の25日に天神さんの縁日に行くことなど、いくつかの用事を作り、バスで市内を一周する間にその新しい建物を訪れた。名称は「京都府立京都学・歴彩館」だ。以前の「総合資料」が「京都学・歴彩」に変わった。「総合資料」はかなり漠然とした言葉で、どういう資料を主に集めているのかがわかりにくい。というよりわからない。だがあらゆる資料を集めているのであれば「総合」と呼ぶしかない。そして以前の「総合資料館」が、筆者が目当てに訪れていた芸術系以外の資料をどれほど保存するかについて、筆者は皆目見当がつかない。それゆえ改めて「総合資料館」という名称に凄みを感じる。おそらく図書館分類法にしたがってどの分野の資料も揃えようとしているのだろう。ただし、京都府立であるからには京都らしさは出るはずで、京都の学者の著作が中心になることは想像出来る。また本だけではなく、絵画や古文書などの実物資料もあって、その点は普通の図書館の枠に収まらず、それで「総合資料館」の名称が与えられたのだろう。それにしても「総合」は大きく言い過ぎと思えなくもない。もう少し絞るとしてどういう名称が好ましいか。そこで「京都学」という言葉が浮上したと想像するが、「総合資料館」の前に「京都府立」がついているからには「総合」は「京都」に概ね限定されることは誰でもわかる。つまり「京都府立京都学…」は二重に「京都」を使ってくどい。センスが悪いと言い替えてもよい。「京都学」を国が中心になってやるとは思えず、それで「京都府立京都学…」としたのであれば何となく強過ぎる自意識を感じるが、京都がたとえば大阪学を率先する必要はないという排他意識もうかがえる。名称から「京都府立」は絶対に外せないとして、筆者は「京都学」は不要と思うので、今後このブログでも「・」の後に続く「歴彩館」を使うが、つまり「京都府立歴彩館」とすればよかったと考えるが、それでは「京都府立歴史館」と紛らわしい。正直なところ、筆者は「歴彩館」があまり気に入らない。こうして書いていて、「歴史」と打って「史」を消し、次に「彩り」と打って「り」を消し、最後に「やかた」と打って「館」を出す。この煩わしさに比べるとはるかに「総合資料館」は表示させやすいからだ。
新しい土地の新しい建物に新しい名称が必要となることは理解出来る。以前と同じ「京都府立総合資料館」では斬新さが薄れる。それに以前とは違った蔵書や施設の機能を持たせるのであれば、やはり違う名称が必要だ。それで「総合資料」を「京都学・歴彩」に置き換えたが、「京都の歴史は(どこよりも)彩りがある」という矜持は伝わる。また「総合資料館」という味気なさに比べて、「彩」の文字は艶やかだ。京都は長い歴史があり、それゆえに彩りがどこよりも豊かであるのは当然で、この点は筆者も大いに同意するので、「歴彩」のそのパソコンで表示させにくい面倒さを我慢するが、「・」によって「京都学」と結ぶのは全面的に賛成しない。「京都学」は彩り豊かな歴史がある、あるいは今後も彩り豊かに歴史を紡いで行くために、学ぶ思いを意図しての言葉だろうが、京都が千年の都であったことは誰でも知っていて、彩り豊かな土地の代表であることに文句を言う人はいないだろう。いてもそういう人は学とは無縁だ。そこでまた思うのは「京都府立京都学館」か「京都府立歴彩館」でよく、前者は京都がだぶるのでセンスが悪く、結局後者がいいという思いになるしかない。ところが、以前の「総合資料館」を知っている人でない限り、「歴彩館」では日本各地にある「歴史館」のような、現物や模型、パネルで埋まった派手な展示を思う人が多いはずで、どうしても「学」を強調する必要があったのだろうと想像する。「総合資料館」には学生が主に利用する自習室があったが、その機能は「歴彩館」にもバトンタッチされ、以前よりも建物の外からガラスを通してその部屋がよく見える。また「歴彩館」に名称が変わっても相変わらず本の貸し出しは行なっておらず、蔵書は館内の指定された場所で見るしかなく、その意味で何か特別なことを調べたい人や研究者のための施設と言ってよい。京都の歴史に関する小展示は時に開催されるが、それは府立図書館でも同じで、また双方とも常設展示はない。そうなると、岡崎にある京都府立図書館と合併してもよさそうだが、岡崎と北山ではかなり離れているので、学者が多く住む松ヶ崎に近い北山に「総合資料館」があったことは理解出来る。また丸太町七本松には「市立中央図書館」、市内各地にその分館があるが、図書館は館ごとに蔵書のだぶりがなるべく少ないように連携されている。筆者は上記以外に市内では京大の図書館2か所をたまに利用するが、それ以外に西京区の山手にある日文研の図書館もそこにしかない本がある。ネットの「日本の古本屋」は日本中の古本屋が登録している全600万冊がオンラインで購入可能になっているが、金を出せばどの本でも入手可能という状況にはない。その600万冊や代表的な図書館のどこにもない本が、ある小さな資料館にのみある場合があって、閲覧許可願いを提出し、日時を決めて赴くことが筆者にはある。
「総合資料館」は府立植物園の北東に隣接し、北山通りと下鴨中通りの角にあった。その南にシンフォニー・ホールがあり、「歴彩館」は同ホールの南に出来た。以前は府立大学の農学部の畑で、それがどこに代わりの土地を得たのかという疑問があるが、それはさておき建物の奥に
去年5月に投稿した際に載せた府立大学の建物が見えているのが今日の最初の写真からわかる。となれば、「歴彩館」は府立大学と合併したようなもので、実際蔵書は府立大学と府立医大のものが加わり、それぞれが別のエリアに開架として自由に閲覧出来る。そのことは後述するとして、筆者はいつも下鴨中通りの南端である北大路通りにあるバス停「府立大学前」で下車して北へと歩き、今日の写真も「歴彩館」の南端から順に撮った。警備員が2名いたが、これは車に指示を与えるためか、あるいは真新しい施設であるので、まごついている人に説明するためか、「総合資料館」にはなかった光景だ。ただし、「総合資料館」は建物の前が広い駐車場になっていて、そこに車を停める場合は、脇の別の建物にいる係員に駐車申告する必要があった、「歴彩館」は「総合資料館」よりも道路から近く、駐車場が見えない。別の場所にあるとすれば、その駐車場の位置を知らせるための要員としてふたりが立っていたのかもしれない。建物の黒っぽい色合いは近年の住宅でも見られる流行のようだが、白やベージュでは汚れが目立つし、灰色では味気ないと考えられたか。それにしても色気があまりになく、「歴彩館」の名称にそぐわない。簡単に言えば芸術的センスがない。「総合資料館」もその点は同じであったが、館前の敷石は雨が降ると色合い豊かなことがわかり、館内にミケランジェロの模写を飾って、また調べもの部屋からの北山の眺めはよかった。面白いのは正面玄関前の民家の1軒が食堂に変わったことだ。「総合資料館」はレストランがなく、「歴彩館」もその点は踏襲し、調べものの最中に空腹になれば北山通りまで出なくてはならない。それで館の前に食堂を経営すれば儲かると踏んだのだろうが、もともと調べものをする人が大勢押し寄せる施設ではなく、また付近は大きな家が大半の落ち着いた地域なので外食する人は稀と思えるので、食堂はあまり流行らないのではないか。4枚目の写真から玄関の庇はかなり大きいことがわかると思う。病院を思わせるが、車を横づけした場合、雨に濡れずに済むための配慮だろう。車で訪れるのは少数派と想像するので、館前の車が通る楕円形の道は、中央に彫刻、その周囲を季節の花を見せる花壇にしたほうが、すぐ近くの府立植物園とも関連が出来ていいのではないか。植物の手入れは大変だが、現状は厳めしさが主張して少々近寄り難い。もっとも、誰でも気軽に来てもらわなくてけっこうという考えゆえの「京都学」という名称であろうし、花壇やベンチ、部屋からの眺望などどうでもよいのだろう。
「総合資料館」で筆者がいつも座る席は決まっていた。貴重書を閲覧する大きなテーブルが受付カウンターの近く、窓際にあった。そこから光がよく差し込み、北山が見渡せた。ほかにもテーブルはたくさんあり、貴重書でない場合はそこを利用出来たが、複写コーナーに近いこともあって筆者はそこを利用していた。「歴彩館」になってそういう馴染みの場所が確保出来るのか。その疑問がまずあったが、調べもの室は以前と同じく2階にほぼ同じ面積で確保され、受付カウンターに最も近いところに貴重書閲覧机が配置されている。ないのは自然光が入る窓、すなわち外の様子があまりわからないことだ。また開架の蔵書は以前とはかなり変わったようで、以前はよく目についた豪華書がない。また以前は雑誌専用のコーナーがあったが、それはなくなった。ただし、雑誌の定期購入をしなくなったのではなく、見たい人は書庫から出してもらえる。「歴彩館」となって京都府立大学と京都府立医大の蔵書が合併され、それらはそれぞれ同じ2階の広々とした階段に通じる通路の向こう側に開架として並べられているが、一昨日は一度だけざっと見て歩いただけで、筆者には今後も無縁だろう。この施設は開架を漠然と眺めて気になる本に出合うという、書店や図書館とは違い、何を調べたいかとカウンターの司書に相談し、しかるべき資料を示してもらえるというのが特徴であるのはいいのだが、筆者が昔から思っているのは、書庫にどのような本があるのかその背表紙が見られないことだ。つまり、普通の大型書店のように、書庫の全蔵書がパソコン画面を通じてでも見られる仕組みがほしい。そういうサービスはまだどの図書館にもないと思うが、それが実現すれば意外な本の存在を知る可能性が各段に増す。あることを調べたい本の題名がわかったとして、その本を書庫から出してもらうことのみで満足するのではなく、その本よりも重要なことが載っているかもしれない別の本の存在を自分で確認するには、司書の手助けよりも、自分の目で背表紙を見る以外にない。背表紙からでも嗅覚が働き、その本に自分が暗に探している情報があることを察するものだ。パソコンでの検索はある本に素早く到達出来るが、その本の近隣書は教えてくれない。またそういう仕組みが出来たとしても、その近隣書の周辺の本までは教えてくれず、結局は自分の目視でアナログ的に背表紙を逐一見て行くしかない。そのことを古書店が代表しているが、デジタル技術を使えば図書館の書庫も画面上の開架として確認することはたやすいはずだ。それはともかく、1階は玄関を入ってすぐ左手に展示室があり、また1階中央も広々として展示に使えるだろう。10年ほど前のことだが、筆者が研究中の本が出版されれば「総合資料館」の蔵書となるということを、同館の学芸員から言われた。筆者も華やかとは言い難いが、京都学のわずかな部分に携わっている。