喋り声がうるさいと府立図書館で注意されたことがある。見知らぬカップルから質問されたからだ。それに応じていると、近くの若い女性がよく聴こえる声で筆者をたしなめた。その声のほうがよほど大きいのに、まあ仕方がない。

府立総合資料館には筆者はいつもひとりで出かけ、司書以外とは誰とも話さないが、1階にある自習室は学生でいつもいっぱいで、彼らはよく話すだろう。その自習室が新たな総合資料館に出来ることは間違いない。筆者がいつも利用する2階の貴重書の閲覧や調べものをする部屋の奥も自習室代わりに使われているも同然で、学生で席が塞がっていることが多いが、話し声は届かないので気にはならない。さて
昨日、
一昨日と長年通い続けた府立総合資料館の写真を投稿した。いつ取り壊されるのか知らないが、修繕して別の施設として使えばどうか。市内の小中学校の校舎はそのようにして生まれ変わっている場合がある。時代の特徴を具えたそれなりの歴史的な建物で、内装を変えて使われ続けられるのが好ましい。木造の二条駅舎は交通博物館に移設されたし、なるべく京都の街並みは変えないほうがいいと思う。そう言えば京都市内の派手な看板はもうほとんど見かけない。それは大阪に任せて京都は品よくやろうという考えで、筆者は賛成だ。ところが民家では時々とても派手な色の壁を見かける。下町であるので、うるさく行政指導しないのだろう。あるいは指導しても耳を貸さないかだ。そう言えば看板をおとなしいものに取り換える費用は幾分かは自前で、その金がないので拒否している会社や店舗があると聞く。それはさておき、今日の写真は今月11日に撮った。2月8日に撮った写真を5月2日に載せたが、その後建物はすっかり完成し、資料の移動もほとんど終わっているのだろう。顔を知っている司書たちは新しい建物に勤務すれば面映ゆいはずで、筆者も楽しみにしている。新しいものが出来る前は拒否反応があっても、出来てしまえばすっかり馴染むものだ。そのことを筆者は「風風の湯」で経験した。もっともそれは出来て1年後から利用し始め、そして一旦行くようになればもうなければならない存在になっている。現金なものだが、古いものはそれはそれでいいが、新しいものもいい。それに古いものがなくなれば新しいものを利用するしかない。古いものが新しいものに取って代わる場面を経験することは、さびしさと喜びが混じる。ただし、古いものは手作り感の重厚性がだいたいあるが、新しいものは軽やかで、それが軽薄に思えることもある。古くていいものは残すべきだ。その古さの中のよさを新しい時代の人が理解し尽くことが可能かとなれば、そうとは限らない。それで古いものに新しい意義を見つけることが絶えず行なわれるが、府立総合資料館は民具などの古い現物資料も保存している。となれば、現在の古い建物を保存すればいずれ資料価値が見出されることになる。