靄がかかった眺めは場合によっては面白い。「風風の湯」では露天風呂に通じる扉がよく開けられたままになり、浴場が靄でいっぱいになって壁の時計が見えなくなる。もちろん客の顔もだが、常連の身体的特徴は知っているので、だいたいわかる。

筆者は早朝に起きることが苦手で、それなら徹夜で朝を迎えたほうがいいが、年に何度かは午前3時半頃に寝る。その時間帯まで起きていると気持ちが高ぶってなかなか寝つけないが、外は靄がかかっていることがあるはずで、その様子を想像するともう起きていてももうやることがはかどらない。寝床に入るとすぐに新聞配達のバイクの音が聞こえ、世界はどんな時間でも止まっていないことを思う。今日はシカゴの大ヒット曲「長い夜」について書くが、このカテゴリーを始めた頃に取り上げようと思いながらその機会がなかったが、5月25日に東京のバンドのヘンリーテニスのライヴに接し、彼らのブラス・セクションを使った曲がシカゴの影響を受けていることを感じ、ようやく「長い夜」について書く気になった。ビートルズで育った筆者の世代の洋楽好きは誰でもシカゴの曲をラジオでさんざん聴いたはずで、筆者も「長い夜」を聴いてアルバムを買った。ただし、来日記念盤でジャケットは星条旗を模した青地に赤の星を散りばめた、いわばベスト・アルバムが最初で、その次に買ったのが、カーネギー・ホールで1971年4月に録音された4枚組ボックスから選曲して1枚にまとめた黄緑色のジャケットのものだ。先ほどそのライヴ・ヴァ―ジョンの「長い夜」を聴いたところ、あまりにいいので涙が出そうになった。演奏の冒頭に野次かかけ声のような男の大きな声があり、それが臨場感溢れ、シカゴはライヴがいいという昔からの思いを再認識した。だが、このギター・ソロが聴き物の長い曲は、拍子抜けすると言えばいいか、終わり方が味気ない。どんな快感でも終わりがあるから、それは仕方のないことかもしれないが、もう少しどうにかならなかったのかと思う。そしてザッパならどうしたかと想像する。それはさておき、筆者はシカゴの最初の来日公演の中継をTVで見たことをよく覚えている。もちろん白黒映像で、調べると71年6月だ。先のカーネギー・ホールでのライヴから2か月後で、気力が充実したまま来日したことになる。当時の筆者はまだザッパの音楽を知らなかった。70年代初頭はビートルズが解散し、その4人のソロ・アルバムを筆者はもっぱら聴きながら、一方でさまざまな新しいバンドのどれが自分に一番ぴったりするかと模索していた。それで一時はマハヴィシュヌ・オーケストラにはまり、またジェスロ・タルが一番しっくり来ていたが、アメリカよりもイギリスの音が性に合っていたのだろう。だが、クリームはよかったが、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンにはほとんど縁がなかった。
60年代末から70年代前半のアメリカのロックと言えば、グランドファンクが有名で、以前このカテゴリーで取り上げた「ハートブレイカー」は今なおたまに無性に聴きたくなるが、アルバムを全部揃えるほどのファンにはならなかった。それはさておき、「長い夜」は1970年1月の2作目のアルバムに収録され、アルバム・ヴァージョンをラジオ向きに短くしたシングル盤が大ヒットした。そのテリー・キャスによるギター・ソロは筆者にとってはクリームのエリック・クラプトンのものよりも琴線に響いたが、シカゴにおけるギター・ソロは「長い夜」以外はあまりなく、それが物足りなかった。その点を埋めたのがザッパのギターであった。筆者が最初にザッパの演奏を知ったのは、ジョンとヨーコを迎えての71年6月のフィルモア・イーストでのライヴで、ザッパのギター・ソロに筆者は一瞬にしてこれまでにない味わいを感じた。つまり、筆者は70年代初頭、いろんなロックを聴きながら、最もしっくりと来る、それでいて謎めいているギターを求めていた。そしてザッパに遭遇したのだが、その前夜に「長い夜」のソロがあった。またギター・ソロは長いほど堪能出来るので、「長い夜」は6分半のカーネギー・ホールでのライヴが最もよい。ザッパのようにほかの会場でのライヴがアルバム収録されているのかどうか知らないが、別のヴァージョンがあってもザッパのギター・ソロほどには差がないだろう。70年代の終わり頃にテリー・キャスが拳銃を誤って使用して死亡したニュースは日本でも話題になったが、当時筆者はザッパに心酔していたこともあって、シカゴの活動には関心がなかった。ただし、初期から毎回アルバム・ジャケットの中心に彼らの名前のロゴが織物や彫刻、チョコレートなど、さまざまな造形でデザインされ、次作はそれがどうなるのかという関心だけはあり続けた。長年活動を続けるバンドで、アルバム・ジャケットが彼らのように凝ったシリーズ化を見せて来たことはないはずで、彼らのいわば音楽性の統一性と多彩性がジャケット・デザインの変遷の工夫から推察出来る気がしたものだが、現在はそれがどうなっているのかは知らない。どんなバンドでも長年演奏するとメンバーが変わるのはやむを得ず、また年齢を重ねるのに時代の好みに沿おうとするため、無理が生じやすく、新たに若いファンを獲得しにくいが、その点シカゴはいわばポップス路線に微妙に舵を切って成功したと言ってよい。結局のところ娯楽であり、ヒット曲がほしいのであって、そうでなければごく一部のファンに支えられて地味に活動するしかない。シカゴの音楽性は初期はかなり凝った編曲によって玄人筋をうならせたが、それをいつまでも続けることには無理がある。より難易度の高い曲を目指すか、あるいは聴きやすいほうに向かうかとなると、レコード会社は売れ行き第一であるから、万人向けするほうがよい。

そのことは早くも72年7月の5作目の収録曲「サタデイ・イン・ザ・パーク」で実現した。だが、改めて彼らのアルバムを順に聴くと、その大ヒット曲のメロディはデビュー時から予期されていた傾向で、彼らは急に偏向したのではなく、元からあった素質が目立っただけと言える。デビュー・アルバムの最初の曲「イントロダクション」からして彼らのいわば二面性が端的に示されている。それはブラス・セクションによる変拍子を特徴とする主題とバラード的な歌唱部で、前者はジャズ、後者はカントリー&ウェスタンを思わせ、その意味で最初からアメリカの黒人と白人を結合した音楽性で、アメリカを代表するという矜持があったに違いない。ブラス・セクションを含むのでバンドは7人という大所帯で、またシンセサイザーのような電子音を好まず、輪郭のはっきりした、言い換えればごまかしが効かない音楽を聴かせるところに、アメリカならではのバンドの特徴がある。もちろんそのアメリカっぽさにもいろいろあって、シカゴはザッパの音楽とはかなり異なるが、明るさの点では共通している。もうひとつ共通しているのはR&B風のリフと曲の途中でがらりと変わる拍子で、初期の3作目までのアルバムは今なお斬新に聴こえる。その闘争的と言ってよい側面は5作目になると、全体としては彼らのサウンドながら、もっと聴きやすくなる、黒っぽさ、ざらつき感が減ると言ってもよい。ただし、そのことで初期のファンは逃げたとしても、それ以上の新たなファンをつかんだであろう。カーネギー・ホールでの4枚組ライヴ盤は、それ以前の初期3作から代表作をほとんど演奏した内容で、彼らがライヴでどれほど力強くも完成度の高い演奏をするかを見せつけたが、筆者が所有するそのハイライト盤の日本語解説の見開き裏面は7人のメンバーと結ぶように中央にゴールデン・レコードを飾った壁面の前に半パンで座る、プロデューサーのジェームズ・ウィリアム・ガルシオの写真が配される。筆者はこれが半世紀前から気になっている。シカゴの演奏メンバーではないのに、中央に偉そうに陣取るガルシオとは何者か。後に彼の名前をザッパのアルバム『フリーク・アウト』の人名表に見つけ、彼についてなお関心が高まったが、当時は知る手がかりがなかった。ザッパは『フリーク・アウト』の録音以前にガルシオに出会い、彼は一時期マザーズに所属したとされる。録音が残っていればいずれザッパ・ファミリーはCD化すると思うが、たぶん残っていないのではないか。それはさておき、ザッパがガルシオの才能を認めていたことは確かであって、その思いどおり、ガルシオはシカゴを見出して世界的に有名にした。そのことをザッパがどう見ていたかはわからないが、ザッパも管楽器を好み、71年のツアーではシカゴ以上に大世帯バンドでツアーした。そこにはシカゴへの対抗意識が働いていたかもしれない。
ガルシオはザッパより5歳下で、60年代半ば、ロサンゼルスでセッション・ミュージシャンであり、曲も書いていたが、その後シカゴによって巨万の富を築く。ネットで知ったが、シカゴの収益の半分以上を彼が受け取り、残りをシカゴの7人で平等に分配していたというから、いかにバンドの売り出しに貢献したとはいえ、ギャラの取り分は多過ぎるだろう。77年の11作目までプロデューサーであったが、その後に袂を分かった。筆者が知るのはその頃までのシカゴで、いわばシカゴの最もシカゴらしい部分はガルシオがいた時代に出尽くしていた。シカゴの大きな特徴である変拍子のホーン・セクション中心のメロディは、もちろんシカゴのメンバーが作曲したものだが、そこにはガルシオの意思がかなり反映しているのではないか。特に多くの曲を書いているキーボード奏者のロバート・ラムはガルシオに負っていたところが大きかった気がする。ガルシオはプロデュースで得た資金で73年にカリブー・ランチにスタジオを作ったが、85年に火事で焼けてしまい、3億ドルの損害があったという。それでもへこたれず、相変らず田舎にいて油田業などの事業を起こしている。ついでながら、シカゴは6作目をそのスタジオで録音し、アルバムのジャケットは古きアメリカをテーマにしている。そのことからシカゴはアルバムの視覚性のみならず音楽性もガルシオの影響を大きく受けていたと想像出来る。さて、シカゴについて昔から気になっていることに、5作目の最初に収録される「A HIT BY VARESE」というヴォーカル曲がある。シカゴがザッパ同様、ヴァレーズに大きな関心があったことを示しそうだが、ヴァレーズを持ち出したところもガルシオの影響ではないか。ガルシオはザッパがヴァレーズを敬愛していたことはよく知っていたはずで、改めてそのヴァレーズを若者に紹介する思いがあったのかもしれない。だが、この曲名をどう解釈すべきか。ヴァレーズはヒット曲とは無縁の現代音楽家であったからだ。この曲を書いたロバート・ラムは、歌詞の最後に、「自由に演奏し、何か新しいことを試すには、ヴァレーズのヒットに導かれる種子が必要だ」といった表現をしていて、ヴァレーズのヒットすなわち「イオニザシオン」のような最もよく知られた曲から新しい曲想を得るべきと言っていると解釈してよい。ただし、シカゴの同曲はヴァレーズとは無関係の、シカゴらしい、あるいは彼らにすればきわめて聴きやすい部類の曲と言ってよく、実際彼らは同アルバムの売り上げによってヴァレーズにはあり得なかった収入を得たに違いない。ヴァレーズを敬愛するようでいて、実際はますますヴァレーズのような独創からは乖離して行ったシカゴと言ってよく、筆者はこの曲を彼らがアルバムの最初に置いたところに、進路への迷いと、すでに人気路線を突っ走る思いに囚われていたことを思う。

最後に「長い夜」のリメイクのシングル盤について書いておく。今日の最初の写真は上左がシカゴの2作目、上右がカーネギー・ホールでのライヴのハイライト盤、下が86年のシングル盤で、「長い夜」の聴き比べとして並べてみた。カーネギーの演奏から86年までは15年経っていて、またギタリストのテリー・キャスはもう死んでいた。筆者はこのシングル盤を80年代の終わりに、嵯峨のレンタル・レコード店がレコードを大量に処分していた時に見つけた。ジャケットは相変わらずシカゴのロゴで、それがプールの床のモザイクを多くの写真を撮ってモザイク状に貼り合わせたデザインになっている。美術好きにはすぐにわるように、これは当時日本でもとても人気があったイギリス出身でアメリカに住んだデイヴィッド・ホックニーの作品を模倣したものだ。ホックニーはピカソのキュビスムを写真を使って新たな解釈を施すかのように、被写体を数十枚ないし百数十枚撮影し、それらを貼り合わせた写真作品をシリーズとしてよく作った。1枚で撮影すれば済むものを、部分ごとに多く撮ってつなぎ合わせると、撮影角度や場所の微妙な差から、全体は細部がうまくつながらない。そして被写体はより多面的に見える。そのことをシカゴが旧曲の「長い夜」で確認しようと考えたのかどうかは知らないが、相変らずジャケットが凝っていることは確かだ。因みにこのジャケットは彼らの16作目のアルバムからの転用で、筆者は同作を聴いていないが、この「長い夜」を聴く限り、ヘヴィメタ風のアレンジで、86年という時代に応じたデジタル感が著しく、さらに30年以上経った現在、その音も何となく別の意味の靄がかかったように感じるが、一方71年のカーネギーでのライヴ・ヴァージョンは新しさを失わない気がしている。それはたぶん音をあれこれと加工していないからで、エフェクターをほとんど使わず、生楽器の音が中心になる演奏は、いつまでも古いようで新しい。シカゴの3作目まではそのことを如実に感じさせてくれるが、ポップやロック界では同じ曲を同じように演奏し続けることでは人気を保てない。そこで時代に合わせた風味をつける必要があり、「長い夜」も金属の重厚感が満載にされた。そこから誰もが推察することは、大ヒット曲はどのようにもアレンジが可能で、またそうすることでそれなりに評判を得ることだ。86年のこのニュー・ヴァージョンにはガルシオの好みはどこにもない。それが却ってシカゴというバンドの多様性を保証することになった。別の名プロデューサーがシカゴの曲をアレンジすれば、それだけで話題になってアルバムは大いに売れるだろう。そのことはビートルズやジョン、ジョージのアルバムでフィル・スペクターが体現した。シカゴのフィル・サウンドは容易に想像出来る。「サタデイ・イン・ザ・パーク」や10作目からの大ヒット「愛ある別れ」ならなおさらだ。
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