因縁をつけられると恐いと思う人がまだ多いのかどうか、大阪のイメージは他府県人にはあまりよくないのではないか。声が大きく、言葉が汚く、金にがめついというのが大方の印象と想像するが、その雑然性が大阪のよさと思う勝手はある。
そう言えば、筆者は大阪に住んでいた20代までは千日前や道頓堀の古書店によく通い、ある休日の昼下がり、裏通りで数人の男に腕をつかまれ、店に引き込まれそうになった。いかがわしい店ではなく、やや高額なバーだ。確か料金は2万円ほど提示された。筆者はほとんど地面に転がりそうな姿勢になりながら強引に拒んだ。また彼らの行為を半ば冗談の戯れと思った素振りをしたが、確かに彼らの顔はほとんど笑っていた。10数秒で解放されたが、そのような強引な客引きがその後問題となり、やがてそれは禁止された。昼間でも人通りの少ない場所は道頓堀界隈でもある。そういう場所で数人の男に囲まれて腕をつかまれると、大阪育ちでなくても怖いのはあたりまえだ。だが、筆者が遭遇した数人のうちのひとりは、以前に同じ場所で二、三度顔を見たことがあり、何となく近所の知り合いという気がしていたし、相手も筆者をそう思ったのだろう。そこには表現しにくいが、大阪人同士の親しみのようなものがあった。もちろんそういう感情は大阪人同士でなくてもあり得るが、大阪では特にある気がする。それは京都に長年住んで改めて思うことで、京都人は確かに大阪人とは違う冷淡さがある。もっとも、生粋の京都人の定義が問題だ。祇園祭りを維持する中京とそれに南接する下京北部の町衆のみを、そう呼ぶのが習わしで、それ以外の盆地の周辺部、さらに山を越えた山科はただの田舎者と言ってよい。ところが、そんな彼らにも大阪を未開の国のように思っているところはある。未開であるがゆえに関心もあるのが人間だが、大阪人が京都に行くほどに京都人は大阪に訪れない。京都にないものが大阪にあると思っていないからだ。あるとすれば大きなビル群だが、そんなもん、大阪でなくてもあるとの思いだ。で、夏祭りにしても京都人は大阪の天神祭りにおそらくほとんど関心がない。京都に住んでこのかた、筆者は京都生まれの人から天神祭りを見たという話を聞いたことがない。天神なら北野天満宮で、また菅原道真は京都人であったから、日本の三大祭りのひとつが大阪の天神祭りと言われても、京都人は天神の本家はこちらではないかと思っているだろう。では京都で大きな天神祭りをやればいいが、どういうわけか北野天満宮ではそういうお祭りがない。その代わり、梅の咲く季節に道真の誕生を祝う梅花祭を静かに催し、また毎月縁日を開き、道真を決して忘れてはいない。大きなお祭りをするには、その土地に暮らす人々がまずその気になり、しかも祭りを遂行するだけの人と資金が必要だ。北野天満宮にはそういう町衆が不足していた歴史があるのだろう。
大阪の天神祭りは川を下る舟の集まりが見物で、その点は北野天満宮には求められない。天満宮から遠く離れた鴨川は水深が浅く、西の桂川もそうで、とても舟下りは無理だ。渡月橋辺りまでなら現在も保津川下り観光があるが、それでも大阪の大川ほどの水量にはとうてい及ばず、船運の歴史はわずかに亀岡辺りの材木を筏で嵯峨まで運ぶ程度であった。あるいは水量の増える伏見辺りでは、大阪と通ずる船運はあったが、洛中と呼ばれる地域では細い高瀬川のごく小規模の船運のみで、とても大川で繰り広げられる天神祭り級の船の大群を想像出来ない。つまり、大阪は水運で栄えた街で、そのことを再認識させるのが天神祭りだ。その水運に対する矜持があって大阪の学者は住之江の大阪湾沿いに海洋博物館として「なにわの海の時空館」と建てたが、拒費を投じて復元建造した菱垣廻船はたちまち無用の長物扱いされ、数年前閉館した。大阪は湾を埋め立てて広がり続けて来た歴史がある。そのことは今も言え、何年後かには大阪湾で万博も開催される。だが、金勘定は絶対的で、儲からないことはやれないという意識が大阪では強い。いや、本当はそうではない歴史が長いのだが、戦後はその風潮が目立って来た。有名かつ金持ちになる手っ取り早い方法が賛美され、その代表を大阪のお笑い芸人が担うことになった。彼らは死んでまで称えられることを望んでおらず、また誰もそんな気持ちはない。生きている間に顔と名前が知られ、誰よりも経済的に豊かになればいいのだ。それでいくらでも代用が出現し、消費されて行き、きれいさっぱり忘れ去られるが、文化とはそれだけであってはならないという学者の考えは今ではあまり通用しない。天神祭りを運営する人は毎年顔ぶれが少しずつ変わって行くが、祭りそのものはなくならない。お笑いの世界も同じで、仮に数年で芸人が消えても、別の者が人気を得ていればよいということだ。相撲や歌舞伎、映画、音楽界など、みなそうだ。そういう考えの中、菱垣廻船の復元にどれほどの意味があるのかと皮肉る市長が出て来て不思議でない。市長や知事も人気商売で、最も票を集めた者がその役割を任される。そんな時代に浮世離れした学者の言い分は通りにくい。首相に理解があればまだましだが、今はなおさら政治家の人材は目も当てられない惨状だ。それで目先の儲けに釣られて元を台なしにして平気、というより、考えもしない人が大勢を占めている。筆者は今は大阪人ではないので大阪の市政の姿勢がどうであろうと関心がほとんどないし、江戸末期に儒学者が存在価値をほとんど失っていたことを思えば、現在の学者が無駄に飯を食べていると批判されても同情するつもりはないが、お笑い芸人のあまりの下品な顔をTVで見せつけられるにつけ、もっとましな人たちが世間で広く知られるべきとは思う。
さて、天神祭りは次々と目の前に人をたくさん載せた舟がやって来て、それはそれで面白いが、全体像が見えない。それをかなえてくれる場所はないだろうが、橋の上なら後どのくらい舟が続くかはだいたいわかる。それで来年は橋の上から見物しようと思ったが、どの橋が最適かと言えば、やはり天神橋だろう。だが、場所の確保が大変なはずで、そのことは川岸の様子から容易に想像出来る。この人の群れる蒸れ具合が夏の暑さと相まっているのは祇園祭りの宵山も同じで、祭りは人が多く集まり、むんむんとした気分を湧かすところに意義がある。それは世界中同じだが、祭りに直接携わる人と見物客とに二分され、常に後者である筆者は大勢の人に混じって眼前に繰り広げられるお祭りをただまじまじと見るだけで、この文章から祭りのような熱気は伝わらないはずだ。祭りはエネルギーの爆発的消費で、それを感じたのであれば筆者も爆発的な文章を書くべきだが、何しろ川沿いのフェンスから次々と去って行く祭りの舟を眺めるだけで、舟上の人の爽快な気分は想像するしかない。そう言えば筆者は京都の三大祭りの巡行をまともに見たことがなく、祭りの醍醐味は見物にあるのではなく、実際に携わることにあると思っている。ただし、筆者は誰でも参加出来る盆踊りでも見るほうに回る一方で、踊った試しがない。まあ、それでも祭りの雰囲気は客もあってのもので、見物客も祭りの要員と言ってよい。さて、7月25日は梅田から東に歩き、帝国ホテルを目指した。その前の川岸なら広くなっていて見物しやすいと思ったからだ。ホテルにすれば祭り目当ての客が期待出来るが、宿泊せずに建物の周辺を埋め尽くす見物客は迷惑ではないか。ホテル1階は川沿いまで筒抜けの構造になっていて、いろんな店がそれを囲んでいるが、片隅に誰でも利用出来るトイレがあって、そこは見物客が長い列を作っていた。その付近に立って筆者は何年か前にその2階のラウンジで中学の同窓生と酒を飲んだことを思い出した。祭りの当日はそこも満員であったのだろう。6時少し前に地響きとともに巨大な爆発音があった。祭り開始の花火だ。その後盛んに花火は上がったが、真っ暗にならねばきれいではない。祭りは何時まで祭りが続くのかわからず、舟が同じようにやって来ては同じように去って行くことにいささか飽き、また腹が空いて来たので、筆者と家内は川岸に小1時間いただけで天神橋筋商店街に向かった。これまで何度か紹介したパン食べ放題の店に行くためで、その食べ放題は午後7時きっかりに始まる。店の前にたくさんの人が並んでいれば向いの中華料理店に入るが、当夜は天神橋筋商店街が大変な混雑具合なのにそのパン屋は空いていた。8時過ぎにその店を出て商店街を北に向かうと、JR天満駅前の小さな空き地で、祭り姿の中年男性と10代後半らしき女性がふたり、囃しに合わせて踊っていた。その様子を撮ろうと思いながら、あまりの人垣に諦めた。