蝙蝠が群れになって飛び交うのは夏の夕暮れだと思うが、鳥を食べるのであれば蝙蝠もという気になるのはわかる。飛ぶもので食べないのは飛行機だけ、四つ足で食べないのは机だけという中国人だ。
そのあまりの雑食性がコロナ禍をもたらしたとされるが、まだ真の原因は不明だ。2年前の冬、隣家の片隅に小さくうずくまっている蝙蝠を見かけた。換気口の隙間から入って冬眠していたのだ。そのままにしておいてもよかったが、目覚めたのか、顔をこちらに向けている。すぐにつまんで窓から放り出すとどこかへ飛び去った。昼間であるのできっと困惑、迷惑したであろう。雀は激減中らしいが、蝙蝠はどうなのだろう。夕方になってよく見かけるのは集団の烏で、蝙蝠を見かけない気がする。烏が山に帰った後、もっと暗くなってから羽ばたいているのかもしれない。そうそう、中国人が蝙蝠を食べるのは、「福」に通ずる漢字の名前でもあるからだろうが、蝙蝠は人間に食べられたくないに違いない。日本では蝙蝠はあまり人気がなく、蝙蝠の羽を広げて透かし具合を見るという行為に困惑し、迷惑顔になる人は多いだろう。筆者は子どもの頃にトリモチにたまたまくっついた蝙蝠をそのように広げて見入り、雨傘に似ていることに感心したものだ。ところが時代が変わって雨傘は透明なビニール傘が主流になって、蝙蝠はますます不気味がられるようになり、今はコロナの原因とまでされている。かわいそうだ。何でも透けることを人は好むのか、蝙蝠のような黒い陰毛は嫌われ、成人雑誌の女性の裸では下着の透け度が増し、やがてアダルトビデオでは局部のモザイクもそうなった。「見えそうで見えない」から、今は赤裸々が好まれるようになり、「見せるならよりはっきりと」と、身も蓋もない。離婚は夫婦のお互いかどちらかが相手に神秘性を感じなくなることが原因で、それは一緒に長い間暮らしていると仕方なきところがある。「オレはいつかやる」と自信あり気に妻に言い続けたとしても、妻はいい加減、それが法螺であることに気づく。男女ともに夢を持つことはいいが、現実はヤスリのように人も時間もすり減らして行く。家内はおそらく筆者のすべてを知らず、その意味で可能性をまだ信じている。それが妄想であっても、それが夫婦の間にある間は別れないものだ。一方、男も女に神秘性を求める。それを保持する女性はきわめて稀だ。さて、2日前の夕方、スーパーからの帰りに渡月橋の上から嵐山を見ると、今日の写真のように山のてっぺんの少し下に太陽が透けて見えた。これは初めて見る。神秘性と言えば大げさだが、同じような状態や写真を見たことがない。もう1枚撮った写真では、カメラの感度の具合が大きいのだろうが、空が大きく丸く明るくなっていて、その形は後光、アウラと呼ぶにふさわしい。嵐山の背後から日が差しているだけの単純な舞台裏だが、絵になる瞬間ではないか。「乱舞する 蝙蝠包む 嵐山」
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