度合いを言えば人生にそう何度もないキツネの嫁入りの雨だが、それだけに神秘性があり、また懐かしく、美しい記憶になっている。晴れているのに雨が降るというのは、喜怒哀楽で言えば笑っているのにどこか悲しいことのたとえになるか。
それはきわめて珍しい感動のためと言ってよい。あるいは涙もろくなる年齢にはありがちとも言えるかもしれない。先月20日に「キツネの嫁入り」のマドナシさんからツイッターにダイレクト・メールがあり、今月1日の午後4時からアーバンギルドでワンマン・ライヴがあるとの告知を受け、見に行った。満席であったと思うが、50人ほどは入ったのではないだろうか。舞台にかぶりつくようにひとりの若い女性が終始マドナシさんを見上げていて、それがとても印象的であった。彼女は格好いいマドナシさんの姿に見惚れていたとして、予約すれば2000円で見られるライヴであるので、憧れの対象と間近で会えるのはとても安価だ。またライヴハウスとそこで演奏する者が若者の憧れを満たす場所として機能していることを筆者は実感したが、アーバンギルドは広い会場とはいえ、窓のない、つまり時刻や天気がわからない閉鎖空間であり、毎回思うことだが、野外音楽堂のような場所で演奏が楽しめないかと思う。そうすれば同じ音楽でも全然違った味わいになる気がするし、より多くの人たちに知られることにもなる。音が会場から外に洩れるからだ。マドナシさんは「スキマ産業」という名称でライヴを企画しているようだが、その「スキマ」は「キツネの嫁入り」と通じるところがあって、珍しいことをやればそれなりに注目され、活動が続けられるという思いが反映している。その「スキマ」から彼らの曲を見るとなるほどと思えるかもしれないが、「スキマ」ではない「王道」ないし「ありふれた」音楽がどのようなものかとなると、これはTⅤに出るメジャーであろう。ではマドナシさんがTVに出演することを夢見ていないかと言えば、確か5枚もアルバムを出している彼らのことで、出演依頼があれば拒否するつもりはないに違いない。そこで筆者は「スキマ」とは何かをまた考える。スーパーに行くと、BGMでいかにもプロと感じさせる日本のミュージシャンによるフュージョンがよくかかっているし、また別のスーパーでは妙に耳に残る日本のおそらく新しいバンドの変なヴォーカル曲が流れている。そしてそれらはTVでは放送されないもので、筆者は日本の音楽は棲み分けているのかと思う。これは聴き手が棲み分けていることを意味するのか、あるいは用途が違うと言えばいいのか、多くの新しい、そして実力のある音楽が日々生産されていることを思う。その中で「スキマ」を意識することは、簡単に言えばライヴハウス専門で生きて行くことと思うが、それも毎年若手が登場して来ることを思えば簡単な道ではないだろう。
彼らの演奏を聴くのは二度目で、今回は2時間近い間にたぶん13曲演奏された。曲はだいたい5,6分以上で、60年代のシングル盤の2分半を聴き馴れた筆者のような世代からすればかなり長めだ。それは主題の繰り返しが多いからで、その主題に載せてマドナシさんが語り口調中心で歌い、また念仏のように同じ言葉を繰り返す。今回も歌詞は聴き取れなかったので、この感想は歌詞内容について分析出来ず、彼らの音楽の半分しか言及しないことになる。あるいは歌詞がきわめて重要であれば半分に満たないが、それは仕方がない。以前の演奏でも思ったことだが、アンサンブル全体の音量が大きい場合、どうしても歌詞は楽器に混じって客に届きにくい。マドナシさんの歌は歌詞の繰り返しが目立つとはいえ、言葉がとても多く、書いたものがなければ聞き逃しやすい。ミュージシャンが自分の言葉を客に伝えたいのであれば、演奏する曲の歌詞を全部印刷した紙を入場時に手わたせばどうか。その手間や費用はさほどでもないだろう。歌詞の理解を通じて音楽に関心を持ってもらえば、CDの売る上げにつながるのではないか。一方、歌詞はひとつの楽器音と同じで、内容はさほど重要でないとするミュージシャンもいるが、マドナシさんがその点をどう考えているのかはわからない。また彼らの演奏は、中間部はジャズのように即興演奏を繰り広げることはない。つまり、曲はおそらくCDと演奏はほとんど変わらないはずで、その意味で完成されているが、楽器編成が変わることがあって、そのアレンジによってひょっとすれば曲全体の流れの構成も変化するのかもしれない。当夜はマドナシさんの歌とアコースティック・ギター、それにベース、ドラムス、サックス、ヴィブラフォン、ピアノという編成で、女性ヴォーカルが時々マドナシさんの歌を補佐した。メンバーを増やせばより多彩な音楽になるが、当夜の演奏は必要最小限なのであろう。それで全員の演奏に目立つ出番が用意されていた。この楽器編成における「スキマ」はヴィブラフォンで、それを演奏する女性はこのバンドに華やかさを添えているが、以前はトランペットを担当する女性がいたこともあり、男女混合というのがなかなかよい。ヴァイブを含むバンドはたぶん珍しいのだろう。ザッパはマリンバをよく使ったが、「スキマ」的に一風変わった音を目指す場合、少人数編成のバンドではあまり使われない楽器を使うのはごく自然であろう。今はキーボードの電子音でどのような音でも出せるだろうが、マドナシさんはそれをあまり好まないようで、そのことは彼が奏でるアコースティック・ギターに表われている。もちろんアンプを使って音を大きくしているが、エフェクターを通した音は基本的に使わないと言ってよい。そこにごまかしがないと言えば褒め過ぎかもしれないが、演奏メンバーの数とその能力に応じた演奏を生で届けるという潔さが感じられる。
そこから推すと、やはり歌詞は彼の思いを伝える最重要の要素かもしれない。その歌詞の世界はもちろん不随するメロディやリズムによって形容、増幅されているはずで、逆に言えば、歌詞がよくわからなくても、ある程度は音楽から彼が伝えたい思いが理解出来るのではないか。簡単に言えば、彼の歌は短調が多く、それは悲しみや諦念と結びつけられやすいが、「キツネの嫁入り」というバンドの名称と併せ考えれば、たとえば失恋の悲しみや絶望といった、若さゆえの一種の青臭さとは違って、楽しさや喜びを前提としたうえでの哀愁と思えばいい。晴れているのに雨が降るという不思議な天気は、そういう大人が感じる人生の醍醐味のようなものをたとえるのにぴったりで、彼がどういう意味でそういうバンド名にしたかは知らないが、このバンド名は彼らの音楽をよくたとえている気が今回はした。筆者が最も驚いたのは、3曲目のピアノ曲だ。これは今回のライヴでは最も静かな曲で、唱歌を思わせつつ凛とした輝きと純粋性に満ち、きわめて高い作曲能力を感じさせた。歌詞をつけることは出来るだろうが、それをしていないのがよい。これと似た雰囲気の曲は、部分的だが、アンコール前の最後の曲にもあった。子守り歌的な歌があり、やはり哀しみを帯びていた。その前に演奏された「狂騒」は新曲のようで、紛れもないロックだ。冒頭にベースが目立つ素早いリフがあって、それはどこかで聴いたことがあると思いながら適当なものが思い出せないが、そうそうたとえばエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」の冒頭リフの前半に似る。そして後半にはチック・コリアの「スペイン」を思わせる別のアップ・テンポによる変拍子の主題が登場し、全体としてとても凝った仕上がりになっている。「スキマ」を狙う意味はこの曲からよくわかる。アコースティック・ギターを弾きながら語り口調のヴォーカルとなれば、70年代の日本のフォークを思うが、もともとフォークとロックは分離が難しく、フォーク・ロックと呼ばれるバンドがあった。ところが「キツネの嫁入り」はその名称はふさわしくない。変拍子が目立つからだ。その点が21世紀に入ってのミュージシャンがこなすべき特徴なのかどうか、筆者はわからないが、「スキマ」を目指すのであれば一風変わっていなければならず、それには凝った曲を作る必要がある。その凝りの度合いが難しいところで、何度も聴かねば曲は覚えにくい。それに演奏者もよほど練習せねばならないが、耳が肥えている客を満足させるには「凝り」は必要だ。ヴァイブによるリフは、ザッパやレザニモヲの曲を思い出させたが、マドナシさんはそういう音楽も含めて多くを知っているはずで、ちょうどよい「凝り」具合によって他にない音楽を作ろうとしている。それは彼がきわめて常識人で、またその常識の中で「スキマ」という特異点を持とうとしている創作人でもある。