粧し込んで出かけるという意識は筆者より少し上の世代に強い。ただし、そういう70代以上の人は、外出して人に会うにも身なりをほとんどかまわない場合がある。筆者はめったに外出しないが、昔の人間なのでそれなりに服装には気を遣う。

家にいる時は破れたジーパンで平気だが、電車やバスに乗る場合にジーパンはほとんど履かない。30代はそれが平気で、梅津の従姉の旦那さんによく注意された。人と会う時に労働着のジーンズを履くなというのだ。ところが筆者がそれを受け入れた頃、その旦那さんはジーンズを愛好するようになったから、世の中と世代の変化はわからない。それはさておき、筆者は割合化粧の濃い女性が好きで、それは装う意識が強いからだ。人に見られている時は装いによって緊張感を保ち、また過剰な緊張感を減じる。外出は家の中にいることとは違って多くの緊張を抱く。それがまたよく、緊張がなくなって弛緩の状態に常にあると、心身ともにだれて来やすい。筆者が知らないCDを入手して時にすぐに聴く気分になれないのは、未知の音楽にどう対処すればいいのかという緊張、おおげさに言えば不安があるからだ。またその緊張を期待するゆえにいずれは聴こうと思っているのだが、自分の時間をすべて好きなように使っている筆者は、未知の出会いを常に快く受容するほどの暇人ではない。いや、暇はあるが、気力を奪われたくないのだ。そういう意味で言えば、ライヴの誘いは否応なしに未知の音楽が入り込んで来ることで、あれこれ考える前に音楽体験が出来る。それはさておき、筆者はライヴ・ファンではなく、付き合いで出かけている。筆者はどのライヴでも最も高齢で、その意味では場違いであり、この文章も時代遅れであることを自覚している。それでも書くのは、ミュージシャンのためと言うより、筆者のひとつのけじめであり、文章を綴る練習になると思っているからだ。その練習は即興で、書き始める前にあまり何も考えない。予め決まっている冒頭の一字を出発に、湧いて来る思いを連ねる。すると、予期していなかったことが文章となり、結末もうまく締めくくれる場合が多い。それを職人芸だと少々自惚れているが、他人に示すものであれば何でも長年こつこつやり続けるとそれなりに様になる。それは装いが必要と思っているからでもある。さて、先月30日は松本和樹さんから去年聞いていたイギリスのザ・ワッツという男女3人の演奏に接した。演奏はおおよそ想像したとおりであった。女性はユミ・ハラさんで、松本さんによれば彼女はドイツで開催されるザッパナーレに出演したことがある。ドラムスはヘンリー・カウのメンバーであったクリス・カトラーだが、筆者はヘンリー・カウの演奏を全く知らない。もうひとり、クリスと同世代か、ティム・ホジギンソンは卓上に横たえた弦楽器を弾き、当日の40分ほどの切れ目のない演奏の終盤でサックスを吹いた。

曲名はわからず、また全部が即興なのかどうかもわからないが、ユミさんのいかにも現代音楽という雰囲気のヴォーカルが英語、そしてやがて日本語で歌われたので、楽譜に書かれたパートはあるのだろう。それは曲のあらすじであって、彼女の歌い方は演奏ごとに違うかもしれない。おそらくそうだろう。となれば、男ふたりの演奏もそうであるはずで、演奏の初めの頃にティムはふたりの方を見ずに自分の思うまま楽器を奏でていたのが印象的であった。3人の個性が出るのは当然だが、合奏であるのであるまとまり、あるいはその瞬間が火花のように散る。それを感じることがこうした即興演奏の醍醐味で、聴き手は多大なエネルギーを消耗する。もちろん、全く耳に入って来ずに聞き流す人もあるだろうが、それはポップスやロックでも同じことだ。筆者は40分の演奏を長くも短くも感じたが、誰でも彼ら3人に混じって演奏出来るのではないかとの思いもした。ユミさんのピアノは、誰もが聴き馴れているような、なめらかに歌うようなメロディでは全くなく、よく言われるように、猫が鍵盤上で踊っても同じように聴こえるような音楽だ。それゆえにピアノが弾けない人でもユミさんの代わりが出来ると思うだろうが、それはある程度は正しい。音楽の敷居は楽器を五線紙の楽譜どおりに精確に奏でることが絶対条件にあるのではない。そういうある意味では狭い世界に音楽は留まらない。人間の生活全体を音楽とみなすことは可能で、地球の回転も恐ろしく低音が響く音楽であるはずだ。昔見たTVの音楽番組に坂本龍一が楽器を楽譜どおりに奏でられない若者を数人選び、彼らにどんな音でもいいので楽器を鳴らせた。最初は出鱈目に響いていた集合雑音が、やがて一定のリズムを持つようになり、音楽の様相を帯びて来たが、音楽の発生とはそういうものだ。ザ・ワッツが目指しているものはそれに近いだろう。3人がある程度決めた約束に沿って演奏し始め、相手の動きに相互に反応しながら次の音を繰り広げる。そこには目の合図もあるし、身振りもあるはずだが、それは五線紙の楽譜がなければあたりまえで、ザ・ワッツの演奏は主題のない、あるいは聴き手に主題がはっきりとはわからないジャズの即興と言ってよい。一度聴けば覚えるメロディは歓迎されやすいが、それは調性がはっきりしているからで、即興もそれにしたがえば簡単だろうが、ザ・ワッツはそういう耳馴染みやすさの要素を拒否している。そういう音楽では客が精神を集中出来る限界は40分程度で、合奏はそれに近づくと締めくくりを想定し始める。となれば、大半が即興であっても、どのライヴでもある程度は似たものとなる。ただし、その度合いが少なくなると演奏者はその予定調和的演奏に飽き始め、また別の主題を用意して全然違う味わいの曲をやろうとするだろう。それはレコードは面白くないという立場でもある。

毎日何かが違うという一期一会が人生であり、音楽は最もよくそのことを気づかせる。ザ・ワッツがそう思って演奏しているかどうかは知らないが、筆者が思うのはそれで、彼らのライヴを見ることは二重の一期一会と言える。だが、毎日何かが違いながら同じ部分も多く、そのこともまた彼らの演奏は気づかせるだろう。とはいえ、普段はそういう気づきを必要としないほどに人は多忙で、それゆえザ・ワッツの演奏はごくたまに聴くのがよいだろう。またそこに彼らの隙間産業的な存在意義もあるが、聴くことに緊張を強い、そのことで快感を得ることは演奏者も同じであるはずで、そのことを経験させるのが当日別料金で用意された第2部だが、筆者はレザニモヲのふたりとともに会場を後にしたので、その聴き手参加の演奏はわからない。ただし、松本さんからは、ザ・ワッツのメンバーの指示にしたがって音を奏でると耳にしていたのでだいたいは想像出来る。さて、ユミさんは最初ピアノの弦を叩くなどしてジョン・ケージの系譜上にあるかと思わせたが、曲の最後のほうではほとんどヨーコ・オノと同じ即興の叫び声を発し続け、ヨーコへのオマージュを感じさせた。それは前衛芸術家のヨーコに続く日本の音楽家という側面を見せる一種のサーヴィスであったかもしれないし、また世界に出れば日本的なところが求められ、ひとつの強みにもなるからだろう。ヨーコ似の叫びに続いて念仏のような語りも少々あって、そういうことを含めて演奏全体から筆者は60年代の香りを強く感じた。3人の年齢は知らないが、男性は5、60代であろうし、60年代の前衛音楽が身についていて不思議でない。松本さんは毎年彼らのライヴを大阪で主催しているようだが、前衛的な音楽で充分な生活が出来るほどにはいつの時代も甘くはない。それで彼らの日本での演奏も小さなライヴハウスが中心で、またその人数如何で鑑賞料金に差が出るが、一方で学校で教えるなどして音楽一本で生きて行くことが出来るのだろう。それは日本でも同じで、若い頃にライヴハウスで演奏し、実力がそれなりに認められると今は芸術大学の講師の道もある。ザ・ワッツの演奏はポップスやロックという若者が目指しやすい音楽とは一線を画していて、楽器を演奏することの根源、音楽行為とは何かを探るという哲学めいたところに立っている。その意味でライヴハウスでごくたまにしろ、彼らの演奏を聴くことは心をいつもとは全然違った化粧を施す行為になり得る。またそれは言い換えればスター性に乏しく、音楽を目指す若者がそういう音楽一本で食べて行けるだけの世界が日本にはないだろう。芸大で教える人はごくわずかで、またそういう先生の作品は面白くないという意見がある。人に教えて収入を得ず、創作行為のみで生活することはYouTubeになってより簡単になったと思うが、粧しはさまざまで、芸術性の多寡は人気の多寡とは関係がない。