級友という関係があるのかどうかだが、雀にも縄張りはあって仲間意識はあるだろう。2キロ四方くらいは飛び交うらしいが、となればわが家の裏庭に来る雀は少なくても渡月橋から松尾橋に至る、わが自治連合会区域を飛び回っていて不思議ではない。

いかに瓦屋根が減少し、雀も減ったとはいえ、2キロ四方の面積にまだ数百羽はいるはずで、わが家に飛来するのはごく近くの一部地域に生息しているのだろう。毎朝家内が先に目覚めて部屋のカーテンを引くと、必ず雀たちは裏庭の木の枝に留まってこちらを向いている。「早う、起きてえな、爺さん、お腹空いているやん」 そんな雰囲気だ。今朝、雨が降っている音で目覚めたところ、家内は裏庭を見下ろしながら雪が積もったと言う。筆者は即座に三島由紀夫が切腹したことを思い、彼が腹を切り、首や肩を切られて血を吹き出しながら、「ついにやったぞ」と歓喜に震えながら次第に死の暗い世界へと意識を消して行ったことを想像したが、筆者はもう半分は目覚めていたので、次になぜその情景を想像したかを考え、『ああ、そうか、雪か』と思い至った。三島と言えば雪だが、彼は雪が消えた後の泥も見ていた。その泥はこの現世だが、それを醜いと感じれば感じるほどに美しいものを求める。三島はそれのために殉死を決め、最も思い切りのよさと武士にしか許されていない方法を選んだ。誰でもいつか死ぬが、老いぼれて心身ともに醜くなって死ぬよりは、少しでも若くて体もきれいな時に死ぬというのはわからないでもない。一昨日嵯峨のFさんに、奥さんを亡くして悲しみに沈み切ったある男性の話をすると、「わからんことはないが、わしはそんなことはなかったな。いつかは誰も別れがあるしな」と、少々意外な返事を聞いた。Fさんは奥さんを見送っていることは知っていたが、改めて訊くと、聞き間違いかもしれないが、18年も病床にあったそうだ。その長さでは覚悟が出来ていたろう。三島の割腹をさっさと消し去り、布団から出て窓の外を見ると、雀がいつものように枝に留まってこちらを向いている。冬場なので雀は脂肪を蓄えて死亡を排除しようとしている。そのふっくらとして白い胸は、触ると雪のように柔らかいだろう。雀には正月もないが、筆者の餌やりもそうだ。毎朝10時に与えるが、今朝の雀は筆者が知る限り、30分前にもう待っている。雪は雨に変わり、ずぶ濡れになって辛いだろう。すぐに義替えをして裏庭に出た。水仙の葉に積もった雪が氷になっている。めだかを飼っている容器は数日前から厚さ3センチほどの氷が張って、硬いもので叩いても割れない。いつものようにフェンス上のキムチの白いプラスティックの蓋に古米を注いだが、雀の姿はない。どうせすぐに戻って来る。そしてまた30羽ほどが飛び交い、鳴き合って食べる。この世は泥かもしれないが、輝かしいことはいくらでもある。あるいはそう思うべきだ。

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