○か△か×かとなれば、〇と△の間かというのが正直な気持ちで、それはショーとしていささか未成熟であったと思うからだ。金森幹夫さんから以前、武田理沙さんが歌もやるという話を聞いた。その生演奏を聴く機会が先月30日に大阪であった。

例年どおり、松本和樹さんがイギリスのザ・ワッツのライヴを開催することになり、その前座扱いだ。正直に言えば筆者は武田さんの2枚組CD『パンドラ』をじっくりと聴き込んでいない。いずれその感想を書く気でいるが、多様な音の乱舞に戸惑っていて、まだ心の中での落ち着き場所がない。だがもう2作目のアルバムが出るのか、あるいは出たのか、それにはヴォーカル曲があるという。また30日は会場で彼女から500円で3曲入りのCDを買ったものの、彼女の手になるジャケット絵を眺めながら、まだ聴いていない。筆者はCDを前にすぐに聴かないことのほうが多く、何年もそのままにしながら、死ぬまで聴かないと思うこともある。どういう音楽が詰まっているかわからないCDを喜んで即座に聴くエネルギーがもう筆者にはない。それで今日の感想は30日の彼女の演奏のみについて書くが、その前にひとつ述べたいのは、これはとてもデリケートな問題なので書かないほうがいいかと迷いながら、どうしても踏み込まねばならないという葛藤がある。そう葛藤だ。武田さんにもそれがあるだろう。彼女は今年31か2で、結婚が高齢化しているとはいえ、世間的には子どもがいても不思議ではない。筆者は家内と長らく同棲したが、女性は30歳までに最初の子を産むのが身体によいと知っていたので、30歳で子を作った。そういう常識はどうでもいいという生き方は否定しないが、子がほしいのであれば、また母体がより安全に子を産むには、30歳までがよいというのは事実で、筆者は自分のわがままで家内にもっと遅く子を産ませることは絶対に避けたかった。それはさておき、武田さんは多くのミュージシャンと共演し、普通の人と違って格好いい異性との出会いが多く、恋愛も多くしているだろう。筆者は彼女とは個人的なメールや連絡を一切したことがなく、ライヴ会場のみでわずかに言葉を交わすだけだが、30日の彼女は白黒の地味な衣装でもあったためか、どこか悩みを抱えているように感じられた。それが当たっているかどうか、また当たっているとして筆者は勝手にその原因を想像するだけで、それをあえて書くならば、苦しい恋愛をしているのではないかと直感した。当日彼女の激しい歌と、ピアノの殴打に近い連打を目の当たりにしたからだ。もちろん『パンドラ』にもそういう激しさは横溢していたが、機器で音質を変化させない当日の生のヴォーカルは、嗚咽に近い何かを感じさせた。そのため、痛々しさすら感じたが、それはライヴならではの生々しい、得難い、つまり儲けものの出来事でありつつ、やはり客は大いに戸惑う。

500円のCDは「サルビア」、「断頭台の灯」、「深海魚」の3曲が入っていて、どれもヴォーカルがあるのかどうかわからない。これらの題名は『パンドラ』からはそう驚かされるものはないが、まじまじと注視させられるのは「サルビア」だ。この花は高さ20センチほどの小型で、普通は真っ赤な花がびっしりと塔のような穂にぐるりとつく。その色合いから熱い恋愛や激情のたとえに使われるが、筆者は写生したことはあるものの、それを題材に作品を作ろうと思ったことはない。人の爪程度の小花で、中心画題にはなりにくいからだ。筆者は彼女からコスモスの花を連想したことがある。それは天気のよい秋に風に揺られながら、太陽を向いて軽やかに舞うように色とりどりの花を咲かせ、彼女の笑顔にぴったりと思ったからだ。あるいはそうあってほしいという筆者の願望によるのだが、ということは筆者は彼女の本質として暗い激情を感じたのかもしれない。彼女はそれをサルビアの花に投影したのかと勝手に思うのだが、暗い激情を言えば深海魚もそれを連想させる。30歳を少し過ぎた独身女性がみなそういう激しい感情を抱えているかどうか、筆者にはわからないが、苦しい恋愛をしていれば抱えがちであろうし、またしばしば恋愛は苦しいものだ。武田さんが現在恋愛中として、それに対して当然筆者は何か言える立場にはない。ただし、客としてライヴを聴き、今までとは違う何かを感じれば、その理由を考え、妄想を連ねる自由はある。それが全く的外れであることは大いにあり得るし、またそうであってほしいと思うが、一方で彼女が本音を人前に晒すことに躊躇しないという一種の勇気に感心しつつ、またショーとしてはどうかと減点的に思う。これは簡単に言えば、彼女のヴォーカルがこなれていないために戸惑ったからだが、そのことを彼女がある程度自覚しながらも歌わずにはいられない理由を筆者は考え、それが苦しい恋愛のせいではないかと想像する。あるいは全く正反対に楽しい恋愛の絶頂にあるためかもしれないが、とにかく激しい思いをピアノだけでは表現出来ず、言葉に託すことになったところに大きな変化がある。だが、歌は声色や声量、また歌う本人の全人的魅力が関係するもので、歌のみで世界的に有名になれるほど、人々は絶品を求め、愛するものだ。武田さんがピアノや打楽器、ノイズを操って音の絵画ないし映像を構築する技術に長けることはもうみんなが知っているが、そこに歌を持ち込めば、恐い者なしの存在になり得る。ただし、歌も才能は欠かせず、人生全部を投入しても逸格になれる保証はない。技術を要するものはすべてそうだ。彼女の声色は低音気味で、それはそれで魅力があり、こうして書いていて筆者は彼女の声を鮮明に想起出来る。だが、初めて彼女の歌を聴いて惚れ込むというより、まず驚き、抱えている悩みのようなものをぶち撒けていると感じた。
それは怒りと哀しみが混じったもので、そこまで彼女が深刻な状態にあることにどう反応していいやら、筆者の戸惑いは大きくなる一方だが、若い女性が悩みを抱えているような姿に筆者は感情移入して耐え難いのだ。これは筆者のような高齢者になっても恋愛の苦しみを覚えていて、ひとつの恐怖になっているからだ。そして恋愛で苦しんでいる時はどうすればそれから脱却出来るかを考える余裕はないが、ひとつだけわかっていることは、表現者であれば作品を作ることだ。そのことに没入すると、その間は忘れている。ところが武田さんのライヴで激情を感じると、彼女は自分の表現行為で却って苦しみにはまり込んで行くのではないかと心配する。もっとも、筆者がここでそう書いても彼女の苦しみを減らすことにはならず、それどころか筆者の妄想が迷惑がられると思うが、それでもこうして書かずにはおれないほどに、当日の彼女の演奏は異様で、その意味では稀な成功か、稀な失敗のどちらかと言える。稀は成功とは、激情を存分にぶち撒けることが出来たからで、稀な失敗は、客を戸惑わせて、心配も含めてさまざまな思いに駆り立てたからだ。ではそうすべきであったか。当日は最初にシンセサイザーとノイズの静かな曲が奏でられた。曲名はわからないが、新曲だ。その後ピアノに移り、歌いながらそれを次第に激しく奏で、中間にソロを披露してまた歌に戻り、爆発的に終止符を打った後、次にドビュッシーのピアノ曲を思わせるように静かに締めくくったが、2曲で30分程度であったか。静かに始まって激しくなり、また静かに締めくくるスタイルは彼女の基本だが、聴き取りにくかった歌詞に「茨の道」という言葉があって、それのみで歌詞全体を想像することは無茶であるにしても、「苦しい恋」を連想して不思議ではない。あるいは苦しい何らかの状態で、それを凝視して跳ね返すのに彼女は歌を必要としたのだろう。そうそう、彼女は絵が好きで、ライヴの前にスマホで好きな絵をいろいろ見ると聞いたし、絵の道に進もうと思ったこともあるらしい。当夜の彼女の演奏は、ドビュッシーの印象主義を土台に表現主義を加味したものと言ってよい。それは『パンドラ』で予告されていたものだが、言葉を持ち込むことで激しさは急増した。歌の導入は一方では現在のアイドル歌手全盛をにらんだものにも感じられ、またそうであれば30少々という年齢は勝負するのに遅いのかそうでないのかだが、これは彼女が決める問題で、聴き手は提示された作品に反応するのみだ。最後につけ加えておくと、筆者は女性の創造者がどう作品を作りながら長く生きて行くことが出来るかについて大いに関心があり、いろいろ本を読もうとしているし、読んでいる。女性が表現を糧に生きて行くことは、男以上に「茨の道」と言っていいからだ。その意味でも武田さんの現在は筆者の関心の中にある。