口実を言っておけば、一昨日の投稿の枕に孫氏やマキャベリのことを持ち出したのは、レヴィ=ストロースの構造主義が日本のプログレの分析に応用出来ないかと一方でぼんやり思っていたからだ。
昔、レヴィ=ストロースの『仮面の道』を読んで、造形の様式の分析を通じていろいろと明晰に語るその様子に感心したが、言葉で伝わっている神話や、物として残っている部族の仮面を論じることとは違って、今活動中のライヴハウスで演奏するミュージシャンたちの作品を個々に分析して総体として文章によって何か結論づけることは難しい。楽譜を引用してもそれを理解する人がごく限られるし、そうでなくても音色までは楽譜で伝えることは出来ない。それにたとえばフランスの印象派のように、あるまとまった数の表現者が旗印の下に時代を先んじる創作をすることがあり得るかとなれば、松本和樹さんのようなプログレ・ファンが選んだミュージシャンが、多くて2日間、8バンドが演奏するだけで、日本のプログレ・バンドの全貌を誰が知り得ているだろう。そしてその中でどのバンドが最も先進的でプログレの名前がふさわしいかとなれば、筆者にはとうていわかりようがない。そこでまたレヴィ=ストロースの構造主義が応用出来ないかと堂々巡りをするのだが、その主義を使って何か結論づけられることはまずないだろう。あるいはあってもそれが見えるのはうんと先の話で、50年ほど経たねば現在のことははっきりと見えない。とはいえ、筆者は50年前にビートルズを毎日聴いていたし、その後の音楽の流れはそれなりに知っているので、筆者より若い世代の音楽については印象程度は言うことが出来る。ツイッターはその印象を語るのに最適な手段で、ツイッター時代の若者の音楽はせいぜい150字程度で感想が言い尽くされると言っていいのだろう。レヴィ=ストロースが嫌った印象批評だが、それはあらゆる作品に誰でも簡単に書けるもので、筆者のこの小文もその例に洩れない。ただし、そこを自覚するのとしないのとでは大いに差がある。さて、レザニモヲの963さんはつい最近、『どのミュージシャンも誰かをぱくっている』といった意味のことを言った。同じようなことは『仮面の道』の結語でもあって、こう書かれる。『彼が、全く自己の内的欲求に従って自己を表現しているとか、独創的な作品を作っているのだと信じているとき、実は彼は、過去、現在の芸術家に、現在活躍中は潜在的な芸術家に対して答えているのだ。…』 それで筆者は知らない人物の知らない作品に面した時、それが過去の何と似ているかをまず考える。ただし、模倣的な作品でもそこには作者の個性が入り込み、それを愛する人がいる。ぱくりながら、いかに自己主張するかで、作品はすべてぱくられるために存在すると言ってもよい。ただし、ぱくりで新しく優れたものを生み出す必要はある。

9日に最後に出演したのは、ビートルズと同じギターふたり、ベース、ドラムスの4人で、音楽もビートルズから歌を取り除いたものを思わせた。「眞九郎」というバンド名はギタリストであるリーダーの本名だろう。大阪を拠点にしている。昨日取り上げた「バスクのスポーツ」より世代は少し上と思うが、そのこととメンバーのファッション性の差異がそのまま音楽の差に表われていると感じた。まず何よりこのバンドの曲はどれも落ち着きがある。言い換えればテンポが遅く、まったりとしている。「バスクのスポーツ」を聴いた後ではぎこちなさを感じたほどだが、それは欠点ではなく、魅力になり得る。どれもインスト曲であるから、ギターが奏でるメロディはどこか歌のようなところがあって、たぶん歌手を登場させても違和感は全くないだろう。では4人の楽器だけでは物足りないかと言えば、どの曲もいわば古典的ロックの書法にしたがって完成度が高い。またこれはザッパの曲によくある中間部に長いギター・ソロを含まないことであって、そうしたジャズ寄りの演奏を好む人には物足りないだろう。もちろんギター・ソロはあるが、それは楽譜に書かれたもののように伝わる。その意味で眞九郎さんはあまり器用な人ではないように思うが、真面目で実直な感じはメンバー紹介や語りからもよくわかり、またそのことが音楽に手堅さの味わいを付与している。ビートルズのどういう曲を想起させたかだが、『ルヴォルヴァー』の「シー・セッド、シー・セッド」や「デイ・トリッパー」、「アイヴ・ゴッタ・フィーリング」、あるいは「アイ・フィール・ファイン」といった、リフに個性があるR&Bだ。リフはどのプログレ・バンドにもあると言ってよい様式で、その形を通して構造主義から何か見えて来そうな気がするが、「バスクのスポーツ」はコンピュータ・ゲーム時代のと言ってよい新しい手法を感じさせるのに対して、「眞九郎」はビートルズらしい古さをまといながら、ギターが2本絡まる面白さがあって、これは眞九郎さんのギターのみでは出せない味だろうし、また一応はサイド・ギターと言ってよいメンバーをキーボード奏者に代えてもバンドの味は大きく変わると思える。「眞九郎」のギター2本は、常に眞九郎さんが中心にならず、彼がリズムをストロークで刻みながら、サイド・ギターが主題を奏でる部分もよくあり、その点もビートルズ的と言ってよい。ビートルズ以降はギターは1本でよいと考えるバンドが主流になったが、「眞九郎」は2本ならではの味わいを発揮している。エフェクターを多用しないところも60年代風だが、60年代のロックをカヴァー演奏するバンドとは一線を画する味わいがあるのは当然で、伝統を忠実に学びながら新しさを表現しようという思いは伝わる。ただし、それが具体的にどういう箇所かとなれば、「バスクのスポーツ」ほどには指摘しにくい。
ブルースの音階でリフを構成するとどれも似た味わいになりがちで、「眞九郎」の曲の半分ほどは黒人音楽の黒っぽさを感じさせるが、キャプテン・ビーフハートの『トラウト・マスク・レプリカ』に収録されるギターを中心に聴かせる曲の主題と似た、かなりぎくしゃくとした凝った主題もあって、そこが「変拍子祭り」に引っ張り出されるゆえんになっている気がするが、ビーフハートのそのアルバムもビートルズと同時代の60年代であって、アメリカの当時のロックはプログレの基本的語法を出し切ったが、もちろん日本にはイギリスのロックも人気があり、キング・クリムゾンの系譜と言ってよい流れがある。昨日触れたように筆者はジェスロ・タルの音楽を60年代から追い始めた割りにはキング・クリムゾンの魅力には反応しないまま今に至っている。その理由は広大な空間の広がりにおける辛気臭い蜃気楼めいたものを表現するかのような、一種の大言壮語性を好まないからだ。タルの音楽もアルバム1枚で1曲という長い曲があるが、それは数分の短い曲に分節可能な組曲で、ビートルズの『サージェント・ペパー』とそう変わらない。それはさておき、「眞九郎」の曲は構成もかなりビートルズ的で、キング・クリムゾンを想起させない点で筆者好みだが、それは情景描写を意図せず、また4人という古典的で基本的なロックのアンサンブルによって、今も通用する、つまり愛されるはずの音をどう出せるかを試行錯誤しているようで、その真空管を使うアンプを思い出せるところに、安定や安心、渋さを感じると同時に一抹の物足りなさも覚える。60年代以降ロックがたどって来た歴史を顧みると、廃れてしまったがまだ改造の余地のある「型」はいくらでも見出せるだろう。何も最先端の、つまり現在最も人気があるように見える音楽のその先を目指す必要はなく、過去からはいつでもいかようにもぱくることが出来る。そして音楽をぱくっても過去と同じには聞こえない。構造主義を古いとしてポスト・モダンの考えが出て来たが、ロックのポスト・モダンの始まりがいつかとなれば、ビートルズだろう。それ以前と以降ではまるで大衆音楽は様相を変え、過去の「型」を包括しながら「型」の種類を増やしたが、筆者はザッパの音楽を知るに及んで、その「型」がもっと途方もない規模で製造されていることを知った。そしてビートルズ的な音楽は手習いの「型」として誰でもぱくるべきものだが、ポール・マッカトニーが活躍中の現在、ビートルズのポスト・モダン性もまだ総括出来る位置になく、ましてやその日本的展開の見本と言ってよい「眞九郎」の真の意義を苦労して言い定めるのは時期尚早で、ビートルズが『リヴォルヴァー』からさらに見事な変貌を遂げたのと同じように、作品の深化を見たい。なお、当日カメラのメディアが故障し、彼らのステージを撮影出来ず、眞九郎さんのアルバムのチラシ写真を使う。