孫子の子孫は今いるのかどうか。いたとして、また兵法を研究しているとして、それが現代に役立つだろうか。戦争のないところでは商売が戦争みたいなものだが、『孫子』がそれに役立つのだろうか。

もっと新しいマキャベリの『君主論』は民主主義の時代や国でも名著として読まれているが、彼がどのように死んだかを知れば、本に書かれた理想を鵜呑みするのはどうかと思う人が多いだろう。作品と生き様が一致していると思われる表現者は幸福と言ってよいが、波乱万丈を好む人の人生がそうとは言えず、また波乱万丈に生きた表現者の作品も波乱に富むとは限らず、作品は作品、人は人で、また作者のことをよく知る人は少数であるから、作品が人より長生きし、その作品から人柄が想像される。それで、そういう想像を人は好みがちで、作品だけがある場合のほうがよいと思えることがよくある。それが音楽の場合、YouTubeでの映像やライヴハウスで生演奏に接することで想像が限定され、却って面白くなる場合がある。おそらくそういうことをザッパはよく自覚していて、それで生演奏の映像作品に粘土アニメを加えるなどの変化を求めた。さて、9日の二番手に出演したのは、以前紹介したテルミン奏者の女性フェイ・ターンと、ギターの垂井利之さん、ベースの泉尚也さんという3人による演奏で、これが初めての共演かどうかわからないが、たぶんそうではないか。筆者は泉さんのベースを聴くのは今回が初めてで、演奏の後、フェイさんと少し話した時、彼女はテーブル上に置かれた販売用の泉さんの新作CD「音の国の鬼」を示しながら、その音楽を3人で演奏したと言った。そのCDは墨摺りの木版画によってベースを抱える鬼が表現されていて、その鬼は泉さんということなのだろう。そのCDを聴いていないが、泉さんがひとりで作曲演奏したもので、フェイさんと垂井さんが加わった演奏のほうが華やかであろうし、またその演奏を版画で表現するには多色にすべきだろう。実際9日の40分ほどの演奏は3人が持ち味をそれぞれ存分に発揮し、一篇の交響詩になっていた。最初と中間、最後にフェイさんの語りがあり、これは「音の国の鬼」にもあるのだろう。その内容を詳しく聴き取れなかったが、鬼が放浪の果てに落ち着くと言えばいいか、ハッピーエンドのような結末を迎えるような語り口と演奏であったので、古典的な物語の形式を踏襲し、また音楽もそうなっていると言ってよい。その意味で、すんなりと心に入って来て何ら違和感を残さず、ゆえに予定調和の一種の退屈さを思う人があるかもしれないが、音楽が演奏されていた40分ほどの間、筆者はとても心地よかった。これは経過が重要であって、結末はどうでもいいということで、フェイさんの語りによって演奏はきっぱりと終わったが、その後鬼がどうなったかを描けば、いくらでも音楽は変化をつけて続けられる。泉さんはそういう思いだろう。

3人の共演名「フェイ×垂×泉」を筆者はどう読んでいいかわからず、あれこれ考えながら「フェイタル泉」と勝手に読んでいる。もちろんこれは「fatal泉」であって、泉に毒が混じっているようなまがまがしさがあるが、鬼であるからにはそれでいいではないか。それで今後はこの3人の共演は「フェイタル泉」とすれば聴き手に覚えてもらいやすいと勝手に推薦しておくが、そう言えば「フェイ×垂×泉」を最初筆者は「フェイスイセン」と読んだ。どうでもいいことを書いているが、「フェイ×垂×泉」ではフェイさんが主導で泉さんは補助という感じがある。ところが当夜の3人は中央に背の高い泉さん、下手にフェイさん、上手に垂井さんが陣取り、演奏も明らかに泉さんの奏でるメロディが最も目立っていた。ベースが目立つと言えばジャコ・パストリアスのそれを誰しも思うが、泉さんの当夜のベースの音色はジャコのそれに似ていた。これはベースがギターと同じほどに自己主張する立場で、ならばベースではなくてギターを弾けばいいではないかと思う人があろうが、ベースの味のある低音はそれならではの落ち着きがあって他に代えようがない。そこで3人が持ち味を出しつつ、またベースを引き立てつつ演奏することが問われたが、フェイさんのテルミンやパーカッション、歌唱は絶妙の間と効果を発揮し、またあまり前面には出なかった。彼女のソロの演奏を知っているので、それはかなり物足りないものと言ってよいが、ベースを中心とした音楽では、また「音の国の鬼」の世界の中では、抑制が求められたはずで、それが却ってよかった。一方垂井さんのギターも控えめだが、後半ではかなりソロを聴かせる部分があり、またそれは彼ならではの絶妙な音の選びと速度、間の取り方で、熟練した大人の味わいがある。もちろんそれは3人に共通し、音楽は全体として充分に熟成された古い酒の香りを放っていた。それは他の有名なミュージシャンの作品で聴いたようなものかどうかだが、筆者は思い当たるものがない。かつてのフュージョンに類すると呼んでいいが、何から何までが過去のフュージョン音楽の模倣と継ぎはぎかと言えば、3人の個性がブレンドして独特のとしか言えない演奏になっていた。筆者は割合後方で演奏を聴いていたので、彼らの仕草はよく見えなかったが、それが却ってよかった気がしている。「音の国の鬼」は映像に不随する音楽というより、それ自体でたとえばプロコフィエフの『ピーターと狼』のようにひとつの映像と言ってよく、その視覚性を想像するには目の前の3人のイメージは邪魔になりやすいからだ。昨日取り上げたⅠVORY TOWERの「月の海」では、かぐや姫役の歌手が十二単からミニのワンピースに着替えて再登場するが、そういう「イロモノ」を必要としない態度だ。ただし、フェイさんは動きによってテルミンを奏でることもあって、一種の演劇性は排除出来ない。

泉さんのベースは5弦のフレットレスで、また当夜はルーパーを前半と後半にとても印象的に使用した。それは筆者が好きなウォーキング・テンポで、鬼の歩みを表現しているのだろう。その特徴的なリフはR&Bに源流がありそうだが、おそらく泉さんの自信作で、その根幹を成すベースの動きのうえにさまざまな音が構築されている。もちろん「間」も重要で、その意味合いをフェイさんはよく自覚して過剰な音を奏で過ぎなかった。筆者は年齢のせいか、あるいは気性によるのか、全体にゆったりとした演奏にやや少な目で控え目な音量というのが落ち着く。ただし、「音の国の鬼」はルーパーの使用によるベース・リフが特徴的とはいえ、ミニマル音楽のように繰り返しの多用に聴きどころがあるものではなく、どの瞬間も一度限りのメロディが紡がれて行く。それはリフ上の即興で、その点ではザッパのようなロックと同じだが、ミニマルの音楽家のたとえばテリー・ライリーの音楽は長々と続くリフに即興が重なって行くところに聴きどころの醍醐味があって、泉さんのベースを使った作品はジャズ、ロック、現代音楽と踵を接している。また作曲の想を木版画に得たとすれば、また鬼が主題とすれば、そこには日本的情緒へのそれなりのこだわりのようなものもあるだろう。それが音楽にどう表現されているかとなれば、当夜の演奏は最初アラビア風の歌やメロディが奏でられ、日本というより異国の情緒が濃厚にあった。その異国性への憧れはⅠVORY TOWERに顕著だが、プログレッシヴな音楽となれば国際性を意識するのは当然でもある。ただし、ⅠVORY TOWERが平安時代と現代をつなぐ組曲を演奏するところに、日本という矜持もあって、それは泉さんにも言えるのだろう。ただし、CDのジャケットに描かれた木版画の鬼は、日本のそれのようでもあり、西洋の絵画に登場するものにも似る。その和洋折衷さが当夜の3人の演奏に表われていたと言えばこじつけが過ぎるだろうか。また和洋の「和」がどこにあるかとなれば、西洋人に聴かせて感想を訊くのが一番だが、こじつけついでに言えばやはり「間」ではないか。それはもちろん欧米のジャズにもふんだんにあるが、当夜の3人の演奏には明らかに風景とその中での鬼ないし人の動きといったものが、きわめて遠近豊かに表現されていた。その遠近の間には空気があり、それが「間」として感じられた。そしてそれこそが3人の演奏による独自の世界で、他の音楽では聴いたことがないものだ。音を過剰に費やすのではなく、さりとてミニマルを意識せず、ふと気づいた時にはその音を出すといった余裕とでも言えばいいか、波乱万丈さや奇妙さを誇示せず、それが却って堅実な印象を与えて嫌味がない。CDとの差は知らないが、演奏メンバーを変えればまた違った味わいが出るはずで、「音の国の鬼」は今後多くのヴァージョンが生まれるかもしれない。