構造と言えば建築をまず思い起すが、音楽にも文学にも美術にもそれはある。ところで安藤忠雄は昔の日本の家屋の厠の不便さに意義を見つけて、鉄筋コンクリートの注文建築の家屋のトイレを、雨に濡れる中庭の向こうに設置した。
昔の便所は不浄を遠ざける意味と汚物を堆肥にする理由もあって、母屋から離したはずで、水洗トイレになればそれを孤立させる必要はなくなった。雨に濡れながらトイレに向かう間に、寒さで脳梗塞になる可能性があり、安藤の言い分はわからないでもないが、筆者は嫌だ。その嫌な構造のひとつが、人名を+の記号で結ぶことだ。去年11月のF.H.C.の「関西ちびツアー」のチラシに、「夜想」での出演者として「丸尾丸子+矢田伊織」の名前がある。後者は女性っぽい名前だが、男性で伴奏のベース奏者だ。前者は丸がふたつあって芸名かもしれない。開演前に金森幹夫さんは男女のデュオが3組揃ったとしゃべったが、これら3組が夫婦か同棲中など、パートナーと呼ぶにふさわしい関係と想像してよいだろう。筆者は人名を「+」や「×」で連ねることを全く好まないが、ふたりが上下に重なったり、組み合ったりするセックスを連想させるからだ。それで今日の題名ではふたりの名前を「&」で結ぼうとしたが、YouTubeの数年前のふたりの演奏では「+」が使われていて、それにしたがう。いきなり辛口めいたことを書いたが、当夜最後に出演した彼らの演奏に大いに感心した。丸尾さんはとても魅力的な女性で、筆者は親しくなりたい。ベースの矢田さんはとても控えめで、音を最低限に絞り、丸尾さんを引き立てていた。それがとてもよかった。控えめ過ぎると、なくてもいい存在と思われがちで、実際彼が演奏しない曲もあったが、文楽に黒子が必要なことと同じく、当夜は彼の存在はなくてはならないと思わせた。目をつぶりながら彼のベースの動きに耳を委ねていると、音楽の真の醍醐味を味わえたと最高度に温かく和んだ。それは丸尾さんの快活で健康的、そして優しさという大人の女性の魅力がひしひしと感じられたからで、演奏後に早々とライヴハウスを後にした彼女と話が出来なかったことを残念に思っている。コロナのためもあってか、当夜はほとんど1年ぶりの演奏であったらしいが、コロナが続けば演奏の機会は減ったままだろう。コロナ禍の間に彼女は以前4人で演奏したピアソラの曲を二人用にアレンジしたと語ったので、作曲や編曲活動は地道に続けているようだ。また当夜は中間にその二人用に編曲したピアソラの曲「帰りのない旅」と『天使の組曲』の「復活」をアコーディオンでカヴァーし、それもとてもよかった。バンドネオンとアコーディオンのどちらの演奏が難しいのか知らないが、前者は小型であるので前者かもしれないと思いながら、ピアソラの曲にある哀愁と勇気の力が彼女は好きなのだろうと想像した。

当夜の3組の男女デュオはそれぞれ男女の役割が違った。F.H.C.の曲はたとえばバッハの「平均律クラヴィーア」を思わせ、かさいさんがピアノの低音部、留美さんが右手の旋律を担当し、ふたりは音色を違えて一体化している。つまり分かち難く、そのことがふたりの生活ぶりを想像させる。レザニモヲではさあやさんが旋律を担当し、くろみさんよりも音楽的に目立っていて、黒子のくろみさんと言ってよいか。レザニモヲのふたりの関係をさらに強調するのが丸尾、矢田のコンビで、丸尾さんはソロでも充分表現出来るし、そういう曲が演奏された。ところが前述のように彼女は4人編成のバンドで演奏する場合もあって、「夜想」での演奏だけでは全貌はわからず、この投稿は彼女の一面を概観するに留まる。彼女は金森さんの出演依頼を承諾したのだが、閉店する「夜想」を惜しんだ曲を用意して歌った。そういうきめ細かい神経を女性なら誰でも持っているとは限らない。彼女の発言や身振りから筆者は自治会に必ずいる世話焼きの人のよい女性を思ったが、常識性を持った人の創作は常識的なものとなって面白くないかと言えばそれは誤解で、むしろ変人を気取っている人がしばしばつまらない作品を生む。誰からも常識人であると目されているのに作品が素晴らしいというのが本当の格好よさではないか。たとえがよくないかもしれないが、筆者は丸尾さんにそういう人格を感じた。当夜は「夜想」のゴシック・イメージに合わせたのか、靴からベレー帽、アコーディンまで含めて黒づくめで、その繊細な心づかいはどの曲にも反映しているように感じた。40分ほどの演奏で8曲演奏し、彼女によれば冒頭と最後の曲はいつものライヴでそのように演奏しているとのことだ。最初の曲「しばやまの夢」は口琴を指で奏でながら歌うもので、筆者は歌詞をじっくり吟味しておらず、歌詞に込めた彼女の思いまではわからない。ただし、2曲目「探査機」は木星に激突するように操作された宇宙探査機のガリレオについての曲で、どうもその最期は砕け散る運命を人間になぞらえたような象徴詩の意味合いも感じられ、この曲によって彼女の作詞のおおよその傾向がわかる気がした。一方、先月中旬に宇宙から砂を持ち帰った「はやぶさ」のニュースに際して、宇宙ファンと言うか、若い女性が歓声を上げている様子をTVで見たが、丸尾さんもそういう宇宙ファンかもしれない。それはともかく、宇宙探査機に思いを馳せるところは、宇宙や星といった言葉を詩が好みがちであることを思えば意外ではなく、シンガー・ソングライターにはさほど珍しくはないかもしれないが、役割を果たした後に自損する運命というのは、芸術家も含めて人間の本質で、彼女はそこに感じ入ったのだろう。それは愛や恋といった女性が好みそうなことを超えた、ある意味では男っぽさで、そこに成熟した女性の貫禄を感じる。

「探査機」と次に演奏された書き下ろしの「夜想の歌」は割合似ていて、デジャヴ感のある短調のわかりやすいメロディと言ってよいが、彼女の落ち着いた声によって引き込まれる魅力を持っている。それは彼女がピアソラの曲に関心を持っていることを理解させるが、ピアソラとは違って歌詞を書いて歌うところに彼女の持ち味がある。それゆえ彼女の歌詞を吟味する必要があるが、ここではそれはまたの機会としておおまかな感想を書く。さてピアソラの2曲を挟んだ後、またオリジナル曲に戻り、金森さんにもっとと促されてアンコール的に演奏した「ようかい人間」まで、「ガラス玉」と「瓦礫の上」が披露された。後者は前述したどのライヴでも最後に演奏する曲だろう。題名の「瓦礫」は10年前の東北大震災を連想させるが、先の「探査機」の自壊するロケットにも通じ、壊れたもの、状態から立ち上がる前向きの思いをしみじみと伝えたいのだろう。となれば、「ガラス玉」の歌詞も何となく理解出来そうだ。悲しみに沈む者を歌が勇気づけられると信じるミュージシャンは多く、またそういう曲が大きな人気を博するが、そういう曲を歌うことは本人の生き方、人間性が露わになるために嘘っぽく受け取られやすい。そのことを知るのであえてそういう社会の悲しみに言及せずに、自分個人の内面に浸り切って、つまり社会の動きから自己を閉ざして表現する態度を取る表現者いるが、丸尾さんは他者の悲しみを共有し、歌の力で前に進もうという立場にあるだろう。そこに嘘が混じらず、また精神的な逞しさを筆者は感じた。これはなかなか稀有なことだ。「ようかい人間」は一転して明るく陽気な曲で、これがまた彼女にぴったりで、陰陽合わせ持つ才能を存分に感じさせる。複雑なメロディや音階、リズムは技巧を要してそれなりに高い評価を受けるべきだが、ベートーヴェンが最後の交響曲ではハ長調のわかりやすい、一度聴くと誰でも歌え、また演奏出来る主題を書いたことは大きな意味がある。結局は単純で力強いものが長生きするのだろう。ただし、ベートーヴェンは最初から単純を旨としたのではない。あらゆることを試した挙句、初心に戻ったと言ってよく、単純性の陰には膨大な試行錯誤があった。丸尾さんがそういうことを思って作曲しているとは思わないが、彼女は音楽で何が一番重要かを確実に知っている。そしてそのことが彼女の演奏、歌を通じて聴き手に伝わる。感動が生まれる場はめったにないものだ。たとえばライヴの40分のうち、わずか数秒でもあれば筆者はそのライヴは成功だと思っているし、実際そういうライヴに接したことがある。その数秒が後々まで輝かしく記憶され、筆者はその演奏者にその思いを伝えたいと思うが、その機会がないままになっている場合がある。筆者は丸尾さんの演奏に素直に感動した。そのことをここで伝えておきたい。「嘘臭い?」「推薦だからね……」
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