児童が学校で使う楽器にピアニカがある。筆者の息子が使っていたものが手元にある。縦笛ほどの長さで、息を吹き込みながら鍵盤を押すと音が出るので、オルガンやピアノよりはるかに手軽で便利だ。それに電気の必要もない。

ピアニカはおそらく商品名で、一般的にどう呼ぶのか知らないが、メロディオンや鍵盤ハーモニカという表示がF.H.C.のCDにはある。金森幹夫さんから今年2月だったか、彼らが札幌からやって来て演奏するというので誘いを受けた。その半年ほど後か、今度は京都市内の画廊で彼らのCDジャケットを描いた画家の個展があり、その画廊でも演奏すると聞いたが、どちらも行かなかった。すると金森さんから彼らの2枚のCDが届いた。ところが筆者はなかなかそれが気になりながら聴かなかった。どこかで鳴っているのをたまたま耳にするのとは違い、未知のCDが手元にあると、筆者が買ったものでない限り、なかなか聴こうという気になれない。これが画集ならぱらぱらとページをめくってすぐに個性がわかるが、全く内容を知らないCDを聴くことは、つまり自分の時間に強引に侵入して来る音楽の個性に対峙するには、覚悟と決断が必要で、大きなエネルギーを消費する。それでジャケットを見ながら放置していた。金森さんから彼らが今年三度目に京都で演奏する機会があるとのメールがあって、次の京都での演奏はいつになるかわからず、すぐに2枚のCDを聴いた。2,3日はそればかり聴き、そして11月23日の「夜想」でのライヴに備えた。金森さんのメールには彼らが作ったチラシの画像が添えてあり、「関西ちびツアー」と題され、神戸、大阪、京都の計4か所での演奏が予定されていた。ライヴハウスごとに出演バンドが違い、全部金森さんが企画した。京都に住む筆者はコロナ禍下でもあって、最終日の京都のみを見ることにした。それにしても1年に三度の京都来訪とは、彼らがこれまで京都で何度演奏したか知らないが、京都に縁があるのだろう。筆者は沖縄には若い頃に一度だけ訪れ、また民藝がらみで関心はあるが、北海道には行ったことがなく、また行きたいと思ったこともない。それは多分にその文化がぴんと来ないからだ。もちろんアイヌが観光客相手に作った木彫りの熊など、また開高健の小説「ロビンソンの末裔」を通じて、若い頃からそれなりに想像はして来ているが、東京から移住した人が多いと聞き、いわば東京という日本の最先端文化の一部かつその拡張が育まれているのではないかとぼんやり思っている。それが正しいかどうかはわからず、また確認する必要を感じないほどに無関心で、それほどに北海道は茫洋として筆者には捉えどころがない。ではその先入観がF.H.C.の音楽を聴く際に邪魔になるか、参考になるかだが、北海道独特の自然や歴史は必ずしも現代の若者が創造する作品に大きな影響を与えていると考えるのはおそらくよくない。

F.H.C.は「かさいあつし」さんと「留美」さんが中心になって30年近く活動を続けている。バンドの名前の由来について質問したが、あまり意味はなさそうであった。覚えにくいのは損だと思うが、そのことは彼らの音楽についても言えるかもしれない。かさいさんはチョップマン・スティックという、筆者は初めて見た10弦のギターのような楽器を担当し、これは弦を抑えるだけで音が出る。かさいさんはキング・クリムゾンが使っていると言った。また彼によれば作曲はパソコンを使っているとのことで、それは今ではあたりまえなのかどうか筆者にはわからない。パソコンで作曲したメロディを留美さんがメロディオンで演奏しやすいように試行錯誤すると思うが、かさいさんの奏でる音は伴奏的で、留美さんの演奏がより前面に出ている。彼女はアコーディオンも弾くので、鍵盤楽器全般を担当すると思ってよく、また少々歌いもする。また「夜想」でのライヴでは低い声で曲目紹介をし、機器を操作してノイズも奏でた。CDではドラマーが参加している場合があり、また全曲女性歌手の歌を伴なうCDもある。後者はその歌の印象があまりに強烈で、かさいさんと留美さんはすっかり伴奏に回って影がうすい。そこで歌のない他の3枚を聴くと、それで充足しているという不思議な感慨を覚えるが、ふたりのみの演奏ではやはり音は少なく、素描的と言ってよい。その素描性は今回のツアーのチラシ絵に端的に表われているが、CDのジャケット絵も淡彩風だ。またその点を除いてジャケット絵には共通性があまり感じられないが、どのCDも仕上がりは共通していて、2,3分の短い曲がたくさん収録されている。しかもどの曲も短いフレーズの繰り返しが多く、メロディアンの音色を電子マリンバにすればレザニモヲの音楽に変異しそうだと思わせる。実際はそうなっておらず、留美さんの吐息が混じるメロディオンの素朴な音に特徴、持ち味があり、筆者は彼女になぜその楽器を使うのかと質問したが、アコーディオンのように重くないのがよく、また肺を使うことがしんどいながら性に合うといった話を聞いた。それは大げさな音を好まないと言えばいいか、等身大の自分を提示するという態度で、一見地味で大きな体格でもない彼女だが、容易には動じない芯の強さを感じた。彼女は札幌の隣りの地域のさらに隣りの辺鄙なところで生まれたそうだが、年に三度も京都に来るほどの身軽さ、気軽さがあって、それが理由でもないが、筆者は今では田舎に暮らしていても時代遅れにならないと言った。特に北海道はそうかもしれず、また寒さのために1年の半分は家にこもっているような暮らしでは、金沢のように独特の緻密な工芸性が育まれやすく、実際彼女によれば芸術家が集まる地域があって、F.H.C.は彼らと交流があるようだ。

素描は多くの色を使った大作の小さな見本という捉え方がなされるが、素描ならではの味わいが大作では失われる場合があり、素描は素描の持ち味がある。F.H.C.の曲はどれも素描風で、もっと使用楽器を増やして多重録音による多彩で長大な音楽を目指しているかと言えば、それはないだろう。多彩で長大なものを好む筆者はそれが少々物足りないが、基本はふたりでしかも生演奏でいつでも再現出来る音楽となれば、音色が素描風に少なくなるのは当然だ。ところが凝ったリズムや旋律によって一種異様と言うべき音の世界を紡いでいて、一度や二度聴くだけでは覚えられず、実際筆者は4枚のCDを10回以上は聴いているが、なかなか覚えられない。印象に残りにくいことは筆者がこれまで聴いて来た音楽に似たものがない、ありいは少ないと言ってよく、またこうも考える。彼らは自分たちの音楽がよく記憶され、時には他人にカヴァーしてもらいたいとは考えていないのではないか。音楽にありがちなそういう媚のようなものを拒否する意図があると考えれば、彼らなりの、たとえばコンロン・ナンカロウのような、現代音楽という分野への切り込み行為かもしれないという思いに行き着く。何度聴いても曲と題名が一致しないので、筆者はあることを考えた。3枚のCDに同じ曲「OCEAN AND STRAIN」(大洋と戦慄)の別のパートが収録されていて、それら5曲を章順に並べて聴き直すことだ。そして現在のところ、第1、2,3、5(これは2ヴァージョンあり)、9章で、4,6,7,8章が未発表になっている。その理由を知らないが、第5章の2ヴァージョンを聴き比べると、当然のことながら楽譜があって異なる楽器で演奏していることがわかるので、4,6,7,8章ないし、10章以降も書かれているかもしれない曲を全部揃えた組曲CD『大洋と戦慄』が期待される。とはいえ、筆者は先の5曲を何度も聴きながら、そこに統一感がありそうでないことに戸惑い、それと同じことが4枚のCD全体にも言えることに気づく。また「夜想」でかさいさんから受け取った2枚のCDのうち、「関西ちびツアー」はジャケット内部に記される曲名と収録曲が全く違い、彼らが大量の曲を書いていることを想像させる一方、短い曲をどのように組み合わせてもよいという考えがあることを思わせる。となれば、「大洋と戦慄」の未発表の章はCD化されないかもしれず、そうであっても、あるいはそうであるがゆえに、彼らの音楽は素描としての持ち味を強化する。それは北海道の原野をどう開拓するかという、「ロビンソンの末裔」で書かれた初期移民者の、熊に襲われながらの地道で困難な生活の遠い反響ではないかと筆者には思える。彼らがたとえば京都の伝統文化にもっと関心を持つと、案外その素描は華麗な彩をまとうだろうが、北海道らしさは失われるか。
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