藪の中を探すような、途方に暮れた思いで先ほどようやくレザニモヲのDVDを見つけた。それを大音量で聴きながら今日の投稿を書き始める。そのケースの厚みは通常のケースの半分ほどの薄さのため、他の映画のDVDの背後に紛れてなかなか探せなかったのだ。

レザニモヲからもらったまま視聴していなかったが、一昨日26日の夜、京都のPARADISE GARAGE(以下PG)でそのDVDの鑑賞会があって筆者は参加した。そこでの話を今日は混ぜる。DVDでは各曲が始まる際の曲目表示はジャケットの背後と同じティファニー・ブルーにされ、また歌詞のある曲は同じ色の字幕となるなど、全体にデザインが統一された。そこには筆者の勝手な助言もあったが、特にメニュー画面はゲーム感覚に倣い、各曲がさあやさんが描いた白抜きのアイコンを散りばめ、ヴィジュアルの楽しみが増した。ジャケットの宝舟は帆に「獏」の字を書く。これは江戸時代に流行した庶民が求めた正月に枕の下に敷く御札で、現在もそれを授与する寺社があるが、筆者はその若冲時代の古いものを所有している。獏に悪夢を食べてくれる願いを託す一方、宝物を満載した舟が港に入って来る様子を望むのは、いつの時代も変わらぬ人の思いだ。「獏」の漢字を帆に描く宝舟の話をさあやさんにしたのは去年か2年前だ。レザニモヲの初DVDのジャケットがその絵を用いるのは京都らしくていい。ただし、レザニモヲの曲が京都らしいかと言えば、舞妓や金閣寺のイメージからは遠いかもしれず、理解してもらえるかとなれば心もとない。ライヴハウスの「夜想」はレザニモヲの母的存在で彼らが頻繁に演奏した場所だそうだが、堀川御池の南東角から少し東のビルの地下で、昨日載せた最初の写真の看板が示すようにゴシック調の雰囲気だ。それは今日の最初の写真の鏡からもわかる。また11月23日は二番手にレザニモヲが出演したが、さあやさんの服装はゴスロリ(ゴシック・ロリータ)風の黒づくめで、彼女の音楽の原点に「夜想」が影響を及ぼしていることに気づいた。だが、ゴスロリという形容がふさわしくないほどに、もうさあやさんの個性は狭い地下の「夜想」から飛び立って独特のものになっている。彼女が音楽を学んだ堀川高校は「夜想」からは目と鼻の先にあって、レザニモヲの音楽が京都らしいことは当然と言ってよいが、先ほど家内から京都らしいとは何かと訊かれたので、「伝統と革新」と答えた。京都には古いものとそれを改革しようとするものとが同居するからだ。もっとも、さあやさんがそのことをことさら意識しているのではないだろう。意識するとすれば、もっと経験を積み、新しいことを探ることにより腐心するようになってからで、今はあまり意識せずに好きなことをしている段階だろう。だがその初期が重要で、無意識の行為の中に後年に強く意識することが形になって表れている。

音楽における京都らしさとなれば、たとえば江戸時代の京都の音楽とレザニモヲの関係を論じるべきだが、江戸時代の音楽は録音で残っておらず、また筆者にはその知識もない。そこで造形一般の京都らしさで言えば、工芸性を思えばよい。京都市内の中央部は碁盤目状の道が縦横に走り、その規則性は事物を意匠的つまり表徴的な型として表現することに大きな影響を与えたに違いない。そして江戸期は手作りの時代で、京都では工芸に限らず、どのような造形でも型が重宝された。その型を用いると素人でもそれなりの見栄えのよい作品が出来るので便利だが、それは同じほどに弊害でもある。それゆえ型を革新することが求められるが、これが容易ではない。ところでレザニモヲの曲はくろみさんとのふたりで作曲、演奏されるので、ルーパーを使っても音の多重性、多彩性には限りがある。どの曲も数分程度にまとめられ、中間部に即興の場を設けて全体を引き延ばすことがない。それは混沌性からは遠く、もっぱら明晰性を特徴とする。そのことも京都の伝統と言ってよい。筆者は自分の仕事の友禅にしろ、年賀状の図案の切り絵にしろ、曖昧さを排除して白黒を際立たせる造形であるので、気質的にレザニモヲの演奏は性に合う。ザッパの曲は年を経るごとに変化して行った場合が目立つが、筆者はさあやさんにレザニモヲの曲も新たなアレンジ施してはどうかと言った。それは今後あるかもしれないが、曲目紹介の語りや身振りも含めてどの曲も完成していて、部分を改変ないし別の部分を付加するよりは、最初から新たな曲を作ったほうが手っ取り早い。また短い曲を特徴とするので、それらを多く組み合わせた組曲を作ってはどうかとも筆者は言ったが、さあやさんはミュージカルに関心があると答えたので今後新曲のみの組曲があるかもしれないし、それは大いに期待したい。現在のレザニモヲのライヴ演奏は組曲として機能しているので、それは案外早く実現するのではないか。こう書きながら筆者の頭にあるのは、レザニモヲの初DVDや今後発売される初CDをザッパの『フリーク・アウト』になぞらえれば、二作目は『アブソルートリー・フリー』のような組曲になるかということだ。またミュージカルとなれば歌すなわち歌詞が必要だが、さあやさんには電子マリンバによる特徴的なリフとは別に、19,20世紀のフランスのクラシックのピアノ曲を思わせる叙情的な歌つきのピアノ演奏がある。それはフォーク・ソングとは一線を画し、またそれだけにライヴハウスで演奏すれば聴き逃されやすいが、DVDにも収録される「チョコレート組曲」は濃密な完成度を誇っている。同様の曲に「少年」や「美術館」があり、それらの歌詞もすでに圧倒的な個性が宿っていて、後は彼女がどういうよき影響を受け、作詞においても才能を発揮し続けるかだが、素直で感じやすい彼女であるので期待して見守りたい。

PGで彼女からすぎやまこういちのゲーム音楽が好きだと聞いた。また11月の『ザッパロウィン』のライヴでは爆風スランプの音楽を好むことを知ったが、どちらの影響を蒙っているとしてもなるほどと思う。PGでは彼女が作曲し、くろみさんが曲の構成を考えると聞いたが、以前くろみさんから聞いたことには、レザニモヲのライヴでは練習はしないとのことで、それほどにもう体に音楽が刻み込まれている。またくろみさんはザッパニモヲで演奏するほうが楽しいとのことで、松本さんが驚きながら、「レザニモヲあってのザッパニモヲではないか」と言ったが、くろみさんが手慣れたレザニモヲの演奏よりもザッパの難曲に挑むことが楽しいと言うのはわかる。またさあやさんはルース・アンダーウッドを敬愛し、ザッパの音楽が好きであるので、レザニモヲにザッパらしさがあるのは当然だが、「夜想」での45分ほどの演奏の最後、アンコール前の曲は7,8分の長さのレザニモヲの初期作で、その筆者が初めて聴いたザッパらしい凝ったメロディに、初期作らしい真面目でしかもどこかぎこちなさを感じた。アンコール曲の「バク」ではそれが一気に払拭され、彼女らしい持ち味が横溢しているが、それはより単純化したことの力強さだ。単純なものは完成度が高いと見られがちだが、それは無駄を省いた結果である場合に限る。その無駄を音楽で言えば繰り返しの饒舌さと同じかとなると、レザニモヲの曲は繰り返しを大きな特徴とし、またそれは饒舌とは感じられない陶酔性を伴ない、ミニマリズムの影響を受けていると言ってよい。あるいはもっと遡ってロックンロールのリフだ。そうした外国の造形からの影響に京都味を加味していると言えばいいが、これはたとえば江戸時代の京都の文人画家が中国を規範しながら京都らしさしか表現出来なかったことに通じる。つまり、何百年経っても京都の表現者は外来のものを模範にしながら京都独自の味わいを盛る。これは京都に長年住まないことにはわからず、また身につかないことで、そういう京都が日本文化を牽引して来た。都が東京に移って東京らしい型のようなものが生まれたとは筆者は思わない。今でも海外が見る日本文化のイメージは京都が培って来たものが大部分を占めるであろうし、そうなれば現在のライヴハウス・シーンにおける日本的なものはレザニモヲが担っていると言ってもいいのではないか。それはまだ筆者が金森さんや松本さんのようにライヴハウスで演奏するミュージシャンをほとんど知らないうわ言かもしれないし、また先ほど家内がDVDを筆者の傍らで視聴しながら、「変わっている」とつぶやいたように、TVに出演するミュージシャンが演奏しないような曲であろうが、そうであるからこそ、京都の文化の伝統と革新を内在化した良質の音楽を今後も作り続けて行く期待が持てる気がする。以上はDVDの解説の補足でもある。

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