第五回プラチナブロガーコンテスト開催!自由部門に応募します。
魂の塊はコロナウィルスのような形ではないかと想像する。突起がいっぱいあって、それで対象に憑りつく。魂という言葉から執念を思うからだが、執念があっても願いが成就するとは限らない。それはコロナウィルスに感染しても発病しないことと同じか。
で、その感染者はどこでどう感染したのか、今ではもう追跡が不可能になっている。その迷宮入りで思い出すのは、もう20年ほどになるだろうか、世田谷一家殺害事件だ。犯人の血液が残され、その遺伝子がわかっているにもかかわらず、犯人が見つからない。今ではほんのわずかな遺伝子でその人の顔や性格までわかると聞くが、そのようにしてなぜ犯人の似顔絵を作らないのだろう。犯人はとっくにわかっているのに公表出来ない事情があるのかと疑ってしまうが、それほどに警察の不祥事が目立つようになって来ている。学校の先生もだ。児童や生徒に性的被害を加える事件が次々に発表され、真面目な先生も疑いの目を向けられて心地が悪いだろう。極悪犯人と同じ苗字であると肩身の狭い思いをする場合と同じで、そこには世間の目という意識がある。それがネット社会ではエゴサーチをしない限り、嫌な思いをすることはないが、その反対のよき出会いの機会も遮断しかねない。まあ後者は前者ほどにはないと思っておいていい加減で、筆者はネットを通じるとしても、実際に会うことでしか相互の理解は深まらないと考えている。ではこうしたブログはあまり意味がないかと言えば、文章は文章の価値を味わうもので、人格の一端が表われているとはいえ、人格のすべてではあり得ない。文章はそれを書く工夫や技巧が必要で、その意味では作品だが、そう呼ぶに値するブログはどれほどあるだろう。筆者は入魂と言えば全くおおげさだが、毎日こうして書くのは、生活の中で興味を引いたことだ。その心が面白がって動いたことを文章にすることで反芻し、また自分を客観出来ると思っている。さて、今日の投稿は
11月6日の続きだ。その日は10月20日に三条通りで撮った嵐電の車両の写真を載せた。今日の写真は同じ車両を11月26日に撮ったものだ。その頃筆者は自転車で嵐山から渡月橋をわたってひたすら三条通りを走り、三条大宮の蒸し工場まで四度往復した。そのいずれもカメラを持参したのは、パトカーを模した嵐電車両を再度撮影したかったからだ。この車両が単体で走っているのは面白くなく、筆者が喜んだのは、そのパトランデンが小豆色の車両に牽引される二両編成だ。それを10月か11月に一瞬見かけた。パトカーが引っ張られるのは警官が悪いことをして逮捕されたかのようで、現代をマンガ的に表わしているように思えた。こんなことを書けば警察風刺になってあまり好ましくはないが、実際逮捕される警官はいるし、先生も聖職ではなくなったと思われている。聖職でも生殖は必要だが、法を犯しては駄目だ。
11月26日は写真には写っていないが、道路際に京都市指定の黄色いゴミ袋がところどころに集められていた。おおよそ午前中にそれを市の清掃局のパッカー車が飲み込んで行く。その作業をするのは車の後方を走るふたりの清掃員で、これ以上の素早さはないという動きでゴミ袋をパッカー車の大きな顎の中に放り込む。冬場はまだいいが、夏は腐敗した食料が入っていれば悪臭を放つ。信号が青になったので自転車を走らせると、30メートルほど先に若い男女がパッカー車にゴミ袋を放り込みながら小走りしていた。どちらも20代だろう。女性は男性よりも逞しい肉体をしていた。顔はよくわからなかったが、茶髪のおかっぱ頭で、筆者はとても感心した。コロナ禍で働き口は減っているが、ゴミ回収に従事するとは見上げた態度だ。格好をつける男はとてもやりたがらないが、その女性の手際のよい姿は頼もしく、またその元気さに勇気づけられる気がした。彼女が車の後を追って走る距離がどれほどか見当がつかないが、てきぱきとゴミ袋をつかんでは放り込むのはそうそうな運動量だ。にもかかわらずと言うか、そうであるからと言うべきか、彼女は全身がむっちりとして色っぽかった。筆者は彼女とパッカー車を追い越して全力で自転車を走らせた。ちょろちょろと走れば彼女の仕事の邪魔をするからだ。今日の写真は彼女の姿を目撃する少し前、道路幅が広くなる山ノ内地区に入ってすぐに撮った。その地域では嵐電の線路は真っすぐに三条通りを東西に走る。前方から白黒に塗り分けたパトランデンがやって来た。すぐに前籠に入れていたカメラを手に取った。そして電車が通過し、筆者の後方に去るまで3枚撮った。小豆色の車両は、今度はパトランデンに引かれて犯人のようだ。これが正しい姿であるのに、この二両編成は四条大宮に向かう時は小豆色が刑事役をする。身内の警官を牽引してさぞ苦しいと思うが、四条大宮から西へ向かう際は立場が逆になる。そして小豆色は犯人に見えるが、刑事が犯人に見えることは誰でも知っている。そうそう、今夜はどういうわけか「風風の湯」で常連の85歳のMさんと嵐電の話になった。Mさんは四条大宮がその終点であることを惜しみ、堀川通りを南下して京都駅までなぜ乗り入れなかったのかと言う。そうであれば観光客は乗り換えなしに車窓の風景を楽しみながら嵐山まで行くことが出来たからだ。かつての市電が走っている時にそれを実現させればよかったし、また簡単に出来たであろう。とはいえ、市電が撤廃されたのに嵐電が残っただけでもよかった。現在の京都市内は地下鉄も含めて各電鉄の各ルートはどれも中途半端と言ってよく、市内は自転車で走るのがよい。ただし、駐輪場が極端に少なく、路上駐輪すると即座にトラックで運ばれ、2300円支払わねば返してもらえない。逮捕されて身柄を引っ張られないだけましか。「引っ張って 引っ張られるや 人の世は」
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