牝鶏は牡に比べて地味だが、鳥はだいたいそうだ。これは牝に認められるための涙ぐましい努力と思えばいいが、人間は女性が化粧をして着飾り、美しくあろうとする。
女のようにどこかなよっとした男を美形とする風潮があるが、女はさまざまで、優男より筋骨隆々のマッチョ好きもいる。筆者は妹ふたりと母親との家族で育ったので、どことなく女っぽいところがあるとたまに家内に言われるが、中学生の同級生に筆者と同じく女ばかりに囲まれて育った男子は大学生になって同性愛者であることを自覚し、結婚せずに今も男好きだ。筆者にはその傾向はなく、環境によって同性愛者となるとは限らない。最近家内は男と女の境界はきっぱりと分けられるものではなく、グラデーションを描いているということをTVで知って筆者に何度か言った。体は男だが心は女、あるいはその逆の場合でも、長じて性転換手術をする話は珍しくないが、性差がグラデーションであるならば、性転換手術にこだわる必要がないのではないか。とはいえ、本人が違和感を抱くのでは仕方がない。その違和感を植物は抱くことがあるだろうか。今年鶏頭の花をあちこちで目撃し、特に久留米鶏頭のあまりに立派と言える大きくて丸い花の塊を見ると、どことなくグロテスクで、そのことを花も感じているのではないかと想像してしまう。久留米鶏頭は種苗業者が園芸種として作出したものと思うが、今後はもっと大きな花の品種が生まれるかもしれない。筆者が描きたいのはその球体の花ではなく、扁平な、つまり二次元らしい花の鶏冠鶏頭で、それで充分に雄鶏の風格がある。今日の写真は10月20日撮影の
「番外8」に載せた久留米鶏頭を、先月24日、染めていた振袖の蒸しを工場に持参する際に撮った。右京警察の西100メートルほどで、ちょうどお婆さんが外に出て花の世話をしていたので撮影の前に声をかけ、しばし話が弾んだ。日当たりがいいので見事に咲いていると褒めると、お婆さんは喜び、もう1週間ほどは切らずにおくと言い、今月6日、家内と同じ道を走った時には消えていた。筆者はお婆さんに鶏冠鶏頭が好きだと言うと、背後の広隆寺の地蔵さんの脇に見事な鶏冠鶏頭が咲いていると、両手で花の大きさを作りながら教えてくれた。3日後に広隆寺の広い駐車場に入ると、地蔵さんは見当たらず、おそらく境内にあるのだろうが、どこに自転車を停めていいのかわからず、結局確認出来なかった。それにしてもこの久留米鶏頭は色も形も立派で、そのままで絵になっている。これでは筆者が描いても負けるし、またデフォルメするとグロテスクさが強調されて、底の浅い、飽きる面白みしか表現出来ないだろう。2枚目の写真は、一部に鶏冠状の小さな花が咲いていて、久留米鶏頭が鶏冠鶏頭から作出されたことを思わせる。鶏頭も男女の性差と同様、グラデーションで品種が並んでいるのだろう。
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