頻度が増しているザッパ関連の投稿だが、今日と明日でアレックスから届いたザッパ・グッズについては終える。そのため、「その13」は来春アレックスからDVDが届いてからになる。
明後日の投稿では支援者向きに用意されているVAULT PASSの曲などについて触れるつもりでいるが、一昨日書いたように、映画『ZAPPA』をいち早く有料で視聴したアメリカの大西さんからその録画DVDが届いていて、その感想をその後に続けて書く。ただし日本のザッパ・ファンの大方が見たくても見られない映画であるので、本格的な感想は字幕入りの同映画が日本で発売されてから投稿する。さて、昨日の最後の写真は夫婦の仲のよさというより、ゲイルのザッパに対するぞっこんぶりが露わで、少々どきりとさせられる。ザッパのアルバム写真では馴染みのジョン・ウィリアムズが1970年に撮ったものだ。日本の芸能界では結婚あるいは同棲を隠す夫婦が多いと思うが、一緒に暮らしていることがファンに知られれば人気を失うのであれば、もともとその人気はたいしたものではない。ザッパはゲイルと結婚した頃から彼女をアルバム・ジャケットに妻として登場させた。それは自分にアイドル性が欠如していると自覚していたからでもあろうが、音楽の価値はアイドル性とは無関係と思っていたからだ。恰好よさは単なる美形にあるものではない。むしろ男でも女でも美形を誇示する者ほど中身はからっぽだ。10代半ばのザッパがヴァレーズのアルバムを手に取り、そこに写る美形でも金持ちでもなさそうなヴァレーズを眩しく見たのは、男としての格好よさを認めたからだ。話を戻す。昨日載せたスタジオZ内部の録音機器の写真とゲイルがザッパに重なっている写真との間に、ザッパにとって重要な女性がいた。彼女はゲイルのかわいさと違った、モデルか女優のような美人で、ザッパはケイと離婚し、スタジオZをかまえた頃に関係があった。スタジオZは録音したい人の要望に応える施設で、そういう注文がない時にザッパは自作曲を録音した。ザッパの『自伝』に書かれるように、真昼間に、しかも光を閉ざして黒く装飾した小さなスタジオで仕事をしている若者、さらにはイタリア系となると、警察から睨まれた。ろくでもないことをしているのだろうという疑惑だ。そこで刑事が客を装って女との性行為の様子を録音したテープがほしいと注文した。ザッパは当時スタジオに出入りしていた女性に喘ぎ声を演じさせ、それを録音して手わたすと、刑事はスタジオ内でよからぬ行為をしているとしてザッパを逮捕した。それから1か月ほど大勢の男と留置場で暮らしたが、その時に伸ばした髭が、その後死ぬまでザッパのトレードマークになった。髭を剃るにも、1本の剃刀を数十人で使わねばならない環境で、ザッパはその留置場でのことを後年のいくつかの曲に活用する。
逮捕歴があったので徴兵されずに済み、ヴェトナム戦争で死ぬことにもならなかった。釈放されてからスタジオZに戻ると、跡形もない状態で、グーグルのストリート・ヴューでそれが存在した場所を確認すると、拡幅された道路になって消えている。そしてスタジオZで録音した曲や、そのスタジオでの写真が伝えられている。どんな大きな家でも無名であれば数十年で取り壊される。ザッパが長年住んだ家は数年前にレイディ・ガガが購入したが、内装は一変し、もうザッパの残り香はないだろう。話を戻して、保釈されたザッパはスタジオZでザッパに協力した女性の行方がわからず、そこで彼女がわかる方法で一計を案じた。公にしたデザインに電話番号を記したのだ。すると彼女はそれを確認してザッパに連絡し、その後ふたりは密かに交流を続けた。ゲイルにすれば許せない浮気だが、ツアーに出るザッパの行動を一部始終監視することは出来ない。ザッパにすればケイと別れ、ゲイルと出会う前の彼女で、また彼女によってその後の運命的なことを経験したこともあって、忘れ難かったのだろう。還暦過ぎだろうか、彼女の写真がネットにあって、それを見ると確かにとても魅力的で、ザッパが長らく忘れられなかったことは理解出来る。ところがこれは以前に書いたが、彼女はザッパ没後にゲイルを訪れ、ザッパが自分のために遺したものはないかと問うた。もちろんゲイルは彼女に何をわたさずに追い返したが、ザッパが彼女の思い出になる何かを遺していたとしても、ゲイルはそれを処分したか、公にすることは許さず、今後も埋もれたままになるだろう。ただし、ファンは『LUMPY GRAVY』というアルバム名は、ザッパが彼女につけた渾名であることを知っていて、その「ま〇汁」という、ザッパならではのセックス用語から、いかにザッパが彼女との肉体の相性がよかったかを想像する。となれば、刑事に手わたしたセックスの喘ぎ声は、ザッパとの行為中に発したものでなかったにしても、それと同じであったとしてよい。ともかく、写真集『ZAPPA』に散りばめられる珍しい写真の間にザッパの女性関係が隠れている。それは20代であればごくありふれたことだ。50近くになって女を呼びつけてトイレの中で5分で済ます日本の格好悪い芸能人が最近話題になったが、その年齢の頃にザッパはもう大御所になって大部分の創作を終えていた。話を戻して、昨日はウィスキー・ア・ゴーゴーの夜の外観写真を載せた。このライヴ施設は現存し、またザッパの家があったローレル・キャニオンの丘から南下してすぐの坂にあって、少し西にロキシーがある。ストリート・ヴューでローレル・キャニオンを越えた北方のモハヴェ砂漠近郊で少年のザッパが暮らした街までの道筋を確認すると、ザッパが暮らした丘は過去と未来の双方を意識において見下ろす場であったことがわかる。
昨日の3枚目の写真は68年7月23日の撮影で、四つ辻の西北角に建つウィスキー・ア・ゴーゴーの最も目立つ電飾看板がマザーズの録音セッションを伝えている。またその交差点に向かって斜めに掲げられる看板の北隣りに掲げられる大きな看板は、当時ウィスキー・ア・ゴーゴー専属スターであったジョニー・リヴァースで、ジョニ―は今で言うイケメン顔で、わかりやすいリズム・アンド・ブルースを演奏して当時の日本でもよく知られた。そのジョニーの人気の一方でザッパのマザーズが注目されていたことに、アメリカの音楽シーンの懐の深さがある。写真集『ZAPPA』にはウィスキー・ア・ゴーゴーの前で撮った65年のマザーズの写真がある。ザッパを含めて5人で、同じ場所で撮った68年の写真ではメンバーは9人に増えている。テープ収蔵庫からは68年のウィスキーでのライヴ録音が発掘され、いずれその全貌はアルバム化されるはずだが、昨日の3枚目の写真にあるように、入場を待つ客は長い列を成していて、結成から4年、マザーズはウィスキーでの演奏にすっかり慣れていた。そしてそうなりつつあった時にウィスキーで秘書をしていたゲイルを見初めて結婚したから、ザッパの本格的な名声への始まりはマザーズの結成にあった。ウィスキーの大看板にマザーズの名前と録音ライヴが告知されたことにザッパは誇らしかったであろう。それはまたウィスキーのようなライヴハウスの勃興に率先して乗じ、ロックの時代を開拓している自負があったはずで、今さらにその遠い60年代を筆者なりに思い出しながら、ザッパが長い道をたどって目指すことを次々と実現して来た恰好よさに感じ入る。最近あるミュージシャンとそのファンと話すことがあって、筆者はこのブログのカテゴリー「思い出の曲、重いで」の最初にビートルズの64年の「YES IT IS」を取り上げたことを言った。話したミュージシャンはその曲を知らず、筆者は少々がっかりしたが、「知らなければ知る」という気持ちを持つかどうかが表現者にとっては分かれ道だ。せっかくの機会がありながら無視すると成長はない。ビートルズの全曲程度は今の若いミュージシャンはあたりまえに熟知しているべきと筆者は考えるが、古典的名作を知らずともそれに匹敵する作品を作っていると自惚れる若さはあっていいだろう。だがザッパは後に続いたフリーズドライのような味気ないロックに失望した。それに今のミュージシャンはどう応えるかだが、ザッパなど知らずともザッパ以上の人気者になれると思っているだろう。作品に質があるように、その作品ないし作者のファンにもそれがあって、世界は棲み分けている。今日の3枚の写真については明日書く。何となくザッパの初期から概説する文章になっているが、映画と写真集『ZAPPA』がそういう内容になっているからでもある。
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