活発にいろんな意見がファンの間で交わされるとしても、そもそもファンの数が知れている。昨日はEPの最後に収録される「BRUTALITY」について書いたが、それを含む新たなシンクラヴィア・アルバムが発売されても、さほど話題にはならないだろう。
「BRUTALITY」における声のサンプリグはテリー・ライリーの名作とされるミニマル音楽を意識していると思えるが、ミニマル音楽嫌いのザッパは同じサンプリングという手法をもっと暴力的に使うことである種の怒りをぶちまけたかったのだろう。ただし、そこには面白がるという態度がある。「BRUTALITY」でもうひとつ思うことは、77年のハロウィーン・コンサートでザッパがタクシーの玩具を用意し、そこから警察官の逮捕の声をボタンを何度も押しながら鳴らし続けたことだ。それから6,7年後にシンクラヴィアを使ってもっと高度で複雑な繰り返し音が容易に奏でられるようになった。ザッパにすれば巷の子ども用の音が出る玩具がシンクラヴィアになっただけのことで、音を発するものはどんなものでも音楽に使えると思っていた。それは騒音を組織立てれば音楽になり得るという思想で、ヴァレーズから学んだことだ。つまり、シンクラヴィア曲にもヴァレーズへの思慕がある。そういう観点でザッパを論じることは熱烈なザッパ・ファンでも多くないだろう。それがゲイルには大いに不満であった。彼女の晩年はとても頑固なイメージがまとわりついたが、それは愛するザッパが真に理解されないことへの苛立ちだ。その真なる理解とはザッパを全方向的に見て評価することだ。今日と明日はアレックスから届いた本『ZAPPA』について書くが、その序文でアレックスはゲイルに初めて会った時の頑なな態度を綴る。それは当時のザッパ・ファンなら誰しも知っていたことで、ゲイルはザッパに充実に倣ったのか、近づく見知らぬ人物を容易に信用しなかった。誰もがザッパを利用して儲けようと企んでいると思っていたからだ。ザッパは親友がいないと語ったが、利害を超えてつき合える長年の親友は珍しいのではないか。多くのメンバーを次々と雇って望む音楽を実行し続けたザッパだが、メンバーとは技術でつながりはあっても、雇用関係であって、親友とは言えなかった。自分の才能を信じてすぐにザッパから去ったメンバーはいたし、そういう人物の転身具合を見るとさらにザッパは非情さを感じたに違いない。それで最も信用出来るのは妻のみで、その思いを継いだゲイルがザッパ亡き後、テープ収蔵庫の行方を心配しながらごく少数の関係者以外誰も近づけなかったことは理解出来る。それは妻の鑑であって、ザッパの音楽はゲイルの存在なくしてはなかった。ゲイルがザッパと同じように音楽家であるか、あるいは別の表現者であれば、夫をライヴァル視し、早々とテープ収蔵庫は見捨てられ、中身は散逸したのではないか。
アレックスはゲイルに会ってドキュメンタリー映画を作りたいと申し出たのに、ゲイルは素気なく、ごくわずかな時間しか会わなかった。ところがアレックスの考えを受け入れ、テープ収蔵庫を見せることになった。悲惨な状況になりつつあるそうしたテープやフィルムを修復保存するには大金を要する。そこでクラウドファウンディングを立ち上げることにし、5年前の春にそれが始まった。1億2000万円近い金額がファンから集まったが、150ドル以上の支援者に送られる本は、巻末の名簿によれば1510人だ。先日書いたようにそこ筆者の名前がなく、他にも漏れている支援者があるとして1600人と想定しても、それは世界的に有名なミュージシャンと比較すればわずかな数で、たった1600人と言ってよい。日本のちょっとしたアイドルでもファンの数はそれより多いだろう。そのごくわずかな数のファンのひとりである筆者がこうして書いていることはさらにごくわずかな人しか読まず、筆者は徒労に熱を上げているのだろう。話を戻して、ゲイルが不満であったのは、ザッパが70年代のギタリストとしての評価しか下されていなかったからだ。クラシック、現代音楽に関心のある筆者のようなザッパ・ファンは例外と言ってよい。そこでアレックスはザッパの音楽の全方向を見定めたドキュメンタリーを作ることをゲイルに提案し、それが受け入れられた。それゆえ、来年発売されるサウンドトラック盤にはヴァレーズやストラヴィンスキーの代表作も収録される。そういうことをすればますますザッパの音楽は難解で、ファンも逃げて行くと考える人もいるかもしれないが、真の姿を理解しようとしない人は実像を伝えるうえでは迷惑だ。ザッパを通じて70年代のアメリカのロックがわかるだけではなく、そこには現代音楽や他の芸術とのつながりもある。そういう文脈でザッパを位置づけることは、ザッパを歴史的に広く正統化することであって、ロックにザッパが収まり切らなかったことを明らかにする。そういう敷居の高いところにザッパを祭り上げることを否定したいファンがいることはわかる。大衆音楽は大衆のものという考えだ。だが、絶えず消耗されて行く大衆文化の中から高い位に置くべきものが生まれ出るし、生んで行くべきだ。そうでなければ人間の営為は単なる犬や猫といった動物と大差ない。「生きている間が華」は正しいが、その生きている間に創造された華は他の人が後々大事な鑑とする態度は創作者にはある。心に宿すそういう敬意からまた新たな輝かしい作品が生まれるのであって、筆者はある意味ではそういう考えでザッパの音楽を聴き続けている。そういうファンが世界に1000人もいればたいしたものだ。厳密に言えばキリストがそうであったように数人でもよい。筆者はそういうひとりとは自認しないが、真に価値あるものを愛したい。その意味で筆者はザッパの親友だ。
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