玩具店が商店街から消えたように感じる。子どもの遊びが多様化し、またTVゲームが登場してモノを玩ぶことが少なくなった。それで古いブリキのおもちゃを買い集める年配者がいるが、筆者もそんな玩具で育ったのに、ブリキの古いロボットや自動車には全く関心がない。
ところが京都に出て来て間もなく伏見人形を知り、それから10年ほど経って急にそれに強い関心を持ち、買い集めるようになった。その過程で昨日投稿した正月の飾りものである土人形を何かのついでに入手したが、同じ土人形でも正規の、つまり由緒ある郷土玩具と、そうではない無名の人が作った量産品とがあって、後者は誰も研究せず、消耗される。郷土玩具も元来無名の人が作っていたものだが、戦後にブームがあって、その製造に携わる人たちは作家として祀り上げられることになった。筆者は郷土玩具に関心はあるものの、伏見人形に限っている。また伏見人形もその全部がいいとは思っていない。郷土玩具収集家は由緒正しさや希少価値性を尊重するが、そこに見え隠れする特権意識は鼻もちならないところがあって、筆者は冷ややかに見ているが、無名の人が商品として量産しているものの中にもなかなか造形的に優れた面白いものがある。そのひとつが昨日の巳年用の紅白の置物だ。小さいので邪魔にならず、どこかの片隅に置いて強いて意識もしないが、たまにそれがある一角を見ると、そのモノが発散する力を感じる。もちろんそれが好きであるからで、好みの造形作品でない場合、当然手元に置かず、見たくもないし、意識に上らせることすら拒否する。そういう作品はたくさんあって、筆者の個性は筆者の好きなものから成り立っていると言える。逆に言えば、筆者の嫌いなものから筆者の個性が露わになっているはずで、その嫌いなものは特にTVに頻繁に姿を見せるので、TVをなるべく見ないようにしている。話を戻して、昨日の巳年用の飾りものは、ネット上におそらく画像はなく、誰がいつ作ったものかわからず、郷土玩具収集家は見向きもしない。彼らは造形を見ずに由緒を重視するからで、美をまともにわかっていない。そういう連中はどの世界にも大勢いて主流を誇っているが、傍流に真実はしばしば混じる。ただし、あえて言っておくと、傍流主義は全く感心しない。一流をまず知るべきだ。そうでなければ二、三流に稀に混じる異才に気づくことは出来ない。そういう異才はいつか一流とみなされる可能性を孕んでいるが、筆者はまだそういう存在に出会ったことはない。そこでたとえば昨日の巳年の飾りものを隠れた一流と言いたいかと言えば、無名の人による量産品に過ぎないが、慎ましいたたずまいがよいと思うに過ぎない。本棚の暗がりに置くと、侵しがたい雰囲気が漂い、神社の本殿の内部であるかのように感じる。そう感じる心も宝物であると言えば、自惚れが過ぎるが、心にそういう神聖な一画を抱くことは必要だ。
その神聖さを大事にしたいので、気に入りの飾りものが破損したという理由で簡単に捨てたくはない。これが人間となればもっとだが、人間関係が壊れて交流が絶えることはしばしばある。それは詰まるところ失望が理由で、それゆえにモノを収集する人がいるが、男に収集家が多いのは、女よりもはるかに繊細で傷つきやすく、ロマンティストであるからだろう。筆者もどちらかと言えば収集家だが、あれこれ関心を持ちながらどれも中途半端で、その点から人格が「あかんな」と推し量られる。一昨日は家内と自転車で桂にあるスーパーに出かけた。筆者は向日市に用事があり、桂のスーパーで家内が買い物している間に向日市まで走り、その帰りにスーパー内で合流した。それはいいとして、往路で桂川の土手を走り、日差しがとてもよく、今日の写真のカンナが全く同じように咲いていた。今日の写真は先月21日の撮影で、それから10日ほどでは変化はないのはあたりまえかもしれないが、風当たりが強い河原であり、もう夜はかなり寒くなっている。この季節にめげないカンナのたたずまいは、昨日の巳年の飾りものと同じく、筆者の心に神聖な思いを宿す。そのことを伝えるにはこの小文で充分である一方、筆者はそういう小さな気持ちから大作が生まれると思っている。あるいはそういう神聖な小さな思いを発端にしない限り、大作に挑んでも凡作になる。ただし、その神聖な思いはとてもかすかなもので、見過ごしやすく、忘れやすい。人間関係も同じで、そういう神聖さのようなものに気づかない鈍感な人は一時期親しくなってもいずれ別れるし、そうなってもお互い平気だ。そしてお互い相手のことを石と思い、自分が玉であることに気づかない愚か者と内心罵る。これまで何度か書いたが、芸術における聖なるものを研究したロジェ・カイヨワは晩年は人間が作る造形作品に飽き、石に魅せられた。筆者はそこが長年謎になっている。そして最近はガスカールの本を読んでカイヨワが晩年アル中になって死んだことを知り、また謎が深まった。カイヨワの死はガスカールには「あかんな」と思えたのではないか。あれほどの博学がなぜ酒に溺れたのか。聖なるものをカイヨワは見出せなかったのか。大金を投じて収集した世界中の奇石に囲まれて、カイヨワは聖人の心境に達したのだろうか。いやいや、カイヨワは聖人には関心はなかった。宗教に陶酔することをカイヨワは醒めて見ていた。醒めつつ愛する。これが筆者の態度だが、醒め切って愛を忘れることはままある。それは興味を失うことで、筆者は次に何に対して大きな興味を抱くだろう。それにしても土手の坂に陽射しを浴びる赤いカンナの見事さは他に代わるものがない。そのたたずまいが作品であり、わざわざ筆者が写生して聖なる何かを表現するまでもない。またそれは可能ではないだろう。それでも心に宿しておこう。向こうからいつか語ってくれるかもしれない。
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