翌年のことを言うと鬼が笑う。何も考えないではさらに鬼は笑う。それで1年の計は元旦にありと、年が明けた時にあれこれと計画を立てるが、そういう人がまだいるのかどうか。筆者はかなり先のことをあれこれとぼんやり思い、それに備えることがある。

準備はおおげさなので、心づもりと言ったほうがいい。それはいいとして、最近思うのは、明日のことを何も考えずに生きても、それなりに納得行く人生が送れることだ。運なのか努力なのか、70年近く生きて来てどちらの要素が大きかったのか判断がつかない。それは上を見ればきりがなく、下を見てもそうであるからで、運も努力も人並みであったかと思えばいい。これは現状に満足してないまでも納得する気持ちがあるからだ。誰でも70歳手前になればそうではないだろうか。もうあがいても仕方がない。こんなことを思うのは、先日東京のバス停でホームレスの64歳の女性が中年男性に殴り殺されたからだ。彼女がどういう経緯でホームレスになったかは知らないが、コロナ禍によって仕事を失ったようで、これは誰でも同じ境遇になり得るとはいえ、何か突発的なことによって文無しになることを予想しなかったのだろうか。ホームレスは圧倒的に男が多いはずだが、酒やギャンブルなど、無茶をしがちな男と違って、女性は元来用心深く、慎ましい生活でも耐えられると思うが、時に体は女でも男の気性を持つ場合がある。それで来年のことをほとんど考えずに年齢を重ねても、エルザ・トリオレの小説『幻の薔薇』のマルティーヌの母のように、それなりの稀な魅力によって男を引き寄せ、ホームレスにならない女性が多いと思うが、中には運悪く、あるいは努力もしなかったために家を失い、収入が閉ざされる場合がある。先の殺された女性は、そういう運命であったとなれば、自分を大事にしなかったからだ。それは殺した男にも言える。自殺する人も自分を大事にしていないが、自分が死ねば誰かが悲しむという想像が出来ないほどに心を病んでいるとして、そのように心を病むこと自体が自分を大切にしていない、あるいは出来ない状態だ。自分を大切にということは、自分が他人からどう見られているかと大いに関係している。ただし、八方美人になる必要はない。大事な人というのはわずかでよい。その大事な人を落胆させないという生き方が自分を大切にすることだ。これが理解出来ない自分に自信のない人がいる。自分を大切にすることとは、自分のことだけ、あるいは配偶者ないし連れ合いのことだけを考えるということではない。先の殺された女性は身寄りがなかったか、あっても縁が切れていたのだろうが、その孤独の中で死にたくはないが、さりとてどう生きていいかわからなかったのだろう。それで突如殺されたことは、ある意味では自分で招き寄せた運命で、長く途方に暮れなかった分、幸福であったかもしれない。

そういうさびしい人に他者はめったに近寄らない。さびしさは自分を愛していないことから生まれて来る。それで温かい人を求めるが、自分を愛する意味が本当にわからない人は、相手から気に入られるために言いなりになる。そのことが他者ないし相手を喜ばせることと勘違いしていることに気づかない。この言い方は先に書いたことと矛盾するようだが、そうではない。自分を愛し、さびしさから相手を求めない人は、つまらない相手をそもそも近づけない。以前書いたかもしれないが、辻まことの『蟲類図譜』の「愛」の虫の文章にこうある。「……欠乏がこの虫の本質だから、それをうめようとして近所のものに触手を延ばす。こんなにも相手のことをだいじがり、こんなにも自分のことにしか夢中にならない虫もめずらしい。すり寄られたからって、すこしも憐れんでやり必要はないわけだ。」 「愛」をこのように醒めた目で見ていたことに辻まことの孤独があるが、その孤独を愛している人は絶対的な自信がある、つまり自分に満ち足りているので、べたべたと誰かの愛を求めない。辻のこの文章の「欠乏」が大事で、それはさびしさを抱えていることだ。それは自信のなさに由来する。自信のなさの穴は自分で埋めるしかない。他者から褒められると自信はつくが、その他者が口先だけの詐欺師の可能性があることは頭に入れておくべきなのに、頑固かつ精神的に弱い人、つまり心に穴を持っている欠乏人間は、真と虚偽の区別がつかない。それでせっかくの真なる人が近くにいてもそれに気づかず、やがて距離を取られる。ところがそのことに気づいてもとりあえず欠乏を満たしてくれる相手がいれば残念に思わない。想像力も欠乏していて、来年あるいは10年後にどうありたいかを考えず、そのための努力もしないので、運にも恵まれない。その運とは人との出会い以外にないが、人は自分の身丈に釣り合った人としか出会えず、また親しくなれないものだ。自分を愛する人は、自分を愛した次に他人を愛するのではなく、同時に他人も愛する。それで筆者はホームレスの女性を見るとどうにかしてあげたいと思うが、一方でその女性がその境遇になったことを自分も他者も愛せなかったゆえであると想像し、どうにも近寄れない気持ちにもなる。一緒に暮らす伴侶がいても誰にも予想外のことは生じるので、翌年のことは考えても仕方がないという生き方も一理あるが、男女ともに若い頃と違って40代になればもう仕事その他、大きな進展はあり得ない。それまでの経験によって他人の意見を真摯に聴くことがなくなるからだ。今日の写真は今月5日に撮った。葉が赤くなって、筆者は夕焼けを思う。人生の最晩年にほんの一時期、夕焼けのような美しい時期があるだろう。それが今か翌年か。鶏頭の紅葉を見て、夕焼けのような美を長らく湛えたいと思う。

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