「
達観を 形で示す イチジクや」、「イチジクの 一字一句も なき形」、「一軸の坐るイチジク 達磨かな」。二番目の句は10日ほど前、嵯峨の大きなスーパー内でイチジクを見て作った。
朝採れが6個500円、8パックほど売られていた。筆者はイチジクが好きだが、500円は高いと思って買わなかった。すると筆者の眼前で小学生男子を連れた若くてきれいな母親が、「イチジクあった!」と笑顔で言いながら1パックを籠に入れた。家内はイチジクを食べないが、家内の死んだ姉は大好きで、筆者とウマが合った。これは30年もっと前のことだが、友人にたくさんの手紙を送っていた時期の一通の封筒の裏側に、イチジクの絵を描いたことがある。クレーの晩年の絵を簡単に真似たものだ。太い筆致を旨としたクレー晩年の作はどこか前衛書道的な味わいがあるが、クレーがその絵のイチジクをキリストにまつわる聖なる果物と意識したかどうかはわからない。それはさておき、その手紙の中で筆者は、死ぬまで何個イチジクを食べるかとなると毎年5個としてもせいぜい300個程度で、その数が知れていると書いた。その後、筆者は数年に一度しかイチジクを食べず、たぶん死ぬまで数十個も食べないだろう。そう考えるとやはり見かければ買っておくべきかと思い、一昨日同じスーパーに行った時、同じ場所に同じように朝採れのパックが10ほど売られているのを目撃し、今度は迷わずに買った。1パックだけ7個入りがあったのでそれにしたが、数が多い分、どれも小さい。その売り場に片隅に「イチジクの食べ方」という図入りの説明が掲げられていて、バナナのように皮を剥くとあった。そのことを10年ほど前に母から聞いたことがある。筆者は必ず両手で縦割りし、主に中のツブツブだけを食べていたが、それではもったいなく、また何となく汚らしい。それで説明どおりに頂部から順に薄皮を剥き、丸裸にしてかぶりつくと、これまでにない満足感を覚えた。で、今日は上桂の大型スーパー前で古本市があったので、それ目当てに出かけ、ついでに店内を覗くと、全体が紫黒の完熟したイチジク6個入りが390円で、一昨日は100円ほど損した。イチジクの形はニンニクに似ていて、また陰嚢を思わせるが、宝珠の形でもある。これほど完璧で一字一句の説明も不要な造形はない。柿を数個描いた牧谿の有名な絵のその柿をイチジクに置き換えても、似た雰囲気になるはずで、そんなことを思いながら今日の写真を撮った。イチジクの安定した形は壁に向かい続けた達磨のようでもあり、筆者も達観していたいものだが、来年古希となる年齢であれば、腐敗する一歩手前に完熟を自分で感じないわけではない。それで近年は若い人のことを心配もするようになって来ているが、彼らは彼らで迷いながらやがてイチジクのように悟るだろう。とはいえ、それは殻に閉じ籠ることでもあって、ある人の達観は他者にはそう見えない。
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