認められたい願望が花にもあるだろう。他の花よりも目立って虫に来てもらわねばならない。風の流れに種子を運ばせようと考えたものもあるが、どの花にも個性があり、人はそれを認識して分類している。

いつか宇宙人が人を支配したとして、人の典型を定めるに当たってどういう条件を出すか。マネキンは人の美しさ、姿のよさを代表する意味合いで作られて来たが、今はそのマネキンそっくりに化粧する、あるいは整形することが流行っている。その典型的な美と同一化したい願望によって、誰もが無名性のマネキンのように個性が見えなくなっている。先日のザッパロウィンでヴォーカリストのジョーさんと話した時、AKBに代表される若い女性群は誰もが同じような顔に見えると筆者が言ったところ、彼はそれに同意した。もっとも、その意見は家内のもので、筆者はTVに頻繁に出る若い女性やそもそも芸能界に関心がない。それはさておき、ジョーさんはメタル・バンドを結成していて、そういう音楽に詳しいようで、メタルに無関心な人にはわからないが、どのバンドも個性があって音楽に違いがあると言った。これはよくわかる。門外漢には区別がつかないが、関心を抱き始めると違いがわかって来る。花に関心のない人が花の種類をあまり知らないことと同じだ。ならばAKBを初めとした若い女性グループの全員もそれぞれ違う個性があって、ファンはそれを見分けていて、ゆえにジョーさんの思いは矛盾していることになりそうで、今はもうメタル系の音楽は流行らず、数年で消耗されるアイドル歌手が大手を振り、歌手を目指す女性もそういうものだと割り切って、少しでも若い間に世間に認められようと精を出す姿はきわめて正しいと言わねばならない。そういうグループの9割以上は引退を強いられるが、利口であればそうなっても新たな生き方を目指すだろう。きわめて有名な者がいる世界ではその何百倍もの人が無名かつ薄給に甘んじていて、それは野球でも相撲でも同じだ。無名でもごくわずかに声援を送ってくれる人があれば、つまり認めてくれている人があれば、生活に張りも出るのだろうが、ジョーさんが言っていたように、女性は見切りをつける時期を逃さないことだ。昨日は『ドクトル・ジバゴ』について少し触れたが、何人かの男と関係を結びながら、ララはジバゴの子を宿し、そして出産した後は強制収容所送りになって死ぬ。両親を知らずに育ったその女の子は父の唯一の遺品のバラライカの名手で、その演奏に独学で熟達する。ジバゴの腹違いの兄は彼女のその才能を知ってジバゴの血を引いたと確信するところで映画は終わる。音楽の才能は遺伝する場合が多いが、ジバゴは医者であり詩人で、音楽もよくしたことは、中国や日本の文人を思えばよい。『ドクトル・ジバゴ』は、そういうジバゴに愛されたのでララは輝いたのであって、女の値打ちは男で決まるところがあると言っているようなものだ。

今年植えた鶏冠鶏頭は写生したくなる花が得られなかったが、今日の2枚目の写真の花は双生児のようで目立った。早くからそれをザッパロウィンの客に配るお土産の袋に描くことを決め、7日の昼過ぎにそれを切り取り、同じ絵を水彩絵具で20枚描いたことは先日書いた。今日の写真は先月25日で、双生児の鶏頭も若々しい。鶏頭の花は長生きで、長らく楽しめるのがよい。今日は先月20日以来、また四条大宮の蒸し工場まで自転車で往復し、往路で右京区役所の西手に咲いていた久留米鶏頭を一瞥したところ、
先月20日とあまり変わらない姿でまだ咲いていた。カメラを持って行かなかったので撮影出来なかったが、おおよそは想像出来るだろう。少し老いはしたが、無事に同じ場所に立っている様子は頼もしい。これが花あるいは鶏頭に関心のない人なら気づかないが、人間でも同じで、心に認めないと見えて来ず、また認めて想いを寄せるとその存在から元気を与えてもらえる。放ったらかしで育つ花の場合はいいが、自分で種子から育てた鶏頭は水やりをするなど、世話が欠かせず、またそうすればするほど愛着は湧くもので、もう一歩進んで写生し、またそれを元に大きな作品を作ると、鶏頭も喜ぶのではないか。ともかく、今年は8月1日と11月7日に絵具でさっさと描き、育てた意味はあったとせねばならない。2枚のその絵は、どちらも「対」を意識したが、それはもちろん筆者と受け手との関係だ。そんなことを考えるのはロマンティックだが、それは自分勝手な夢想家の意味も含む。そんなことを考えていたので、昨日も『ドクトル・ジバゴ』の話をした。ジバゴはロマンティストで、ララは現実主義者だが、女は誰でもそうで、男のロマンを平気で踏みにじる。それがわかっていて男は女にロマンを抱きたがるが、TVの向こうで微笑む女性はマネキンで、筆者は魂を感じない。話を戻して、7日に描いた双生児鶏頭からはたくさんの種子が得られた。来年は新たに買う種子とは別にそれを植えると考えている。鶏頭の花は植物園など立派に咲いているほかの場所で写生すれば手っ取り早いが、描きたくなる花は見つからず、見つかっても充分に描けないだろう。今年の番外編の投稿写真からもわかるように鶏頭は背丈がさまざまで、また鶏冠鶏頭でも種子によって色や葉の形が違う。同じ種子でも育つ環境で立ち姿は大きく変わり、実物から作品が規定される。今年学んだことはその点で、写生する花の形姿によって作品の構図その他が制限を受ける。もっと簡単に言えば、先月20日に右京警察近くで見かけた久留米鶏頭はそのままでたとえば六曲屏風の構図になりやすいが、背丈が30センチほどの矮小性の園芸種では無理ということだ。迷路に入り込んだようになかなかの難題で、それで鶏頭は昔からあまり描かれて来なかったのだろう。桃栗三年のように鶏頭も三年目にものにしたい。

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