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●『HALLOWEEN 81』その5
く意思がいくら強くても外的な要因で思惑を変えざるを得ないことは多々ある。本作のディスク6の2曲目にザッパの語りとして「最後のハロウィーン・ショー」がある。



これは81年のパラディアムでのハロウィーン・ショーの最後という意味だが、結果的に本作のディスク5,6に収録される11月1日はザッパ最後のハロウィーン・ショーになった。確かパラディアムがディスコ会場として改装されて使えなくなったからだ。ザッパはディスコ・ブームについて4年前のパラディアムでのハロウィーン・ショーで「ディスコ・ボーイ」などの曲で風刺したが、そのステージに客を上げて「ブラック・ページ#2」の演奏に合わせて踊らせたことは、ディスコのような単純な音楽のみが音楽だけではないとの意思表示があってのことだ。大衆音楽ではより大きな人気を得た者ほど有名かつ金持ちになって成功者とみなされ、その点ザッパはロック界で二流に留まった。隙間を狙ったと言ってもよいが、そういう消極性とは微妙に違うのは、たとえばオーケストラの総譜を書く才能があったことで、演奏技術も含めて一流であった。もっともザッパのギターは先人ギタリストの技法を丹念に学んで習得したものではなく、自己流で、その過程で他のギタリストの持ち味を吟味した。ディスク5に収録される「街の灯り」のギター・ソロは前年にはサンタナの「シーズ・ノット・ゼア」を最後に奏で、ギター・ソロ・アルバム『黙ってギターを弾きな』ではその箇所を省いて「カルロス・サンタナの秘密のコード進行の変奏」という曲名がつけられたが、本作では「シーズ・ノット・ゼア」は演奏されないが、それをほのめかす箇所がある。またそのほのめかしはサンタナがカヴァーした同曲にはないもので、ザッパはサンタナのソロから独自のフレーズを導き出した。それが「秘密のコード進行」というのだろう。サンタナはおそらくザッパの何倍も金も稼いだと思うが、知名度の点でも特に日本ではサンタナはザッパより上のはずだ。それは大ヒット曲「ブラック・マジック・ウーマン」があり、また聴きやすいギター曲であるからだが、同曲や「シーズ・ノット・ゼア」は他人の曲で、サンタナはカヴァー曲で有名になったのであって、創作の量から言えばザッパの足元に及ばない。ところがザッパについては敬して遠ざけるというのが大方の評論家の立場で、日本の音楽評論家として有名で高齢の女性もザッパの音楽はまともに聴いて来なかったはずで、また聴いても意味不明と思ったであろう。そこから何が見えるかと言えば、ロックを含めて大衆音楽は虚飾まみれで、真に実力のある者は脚光を浴びにくいことだ。筆者はたまにはサンタナも聴くが、すぐに別の音楽を聴く。その点ザッパは時代ごとに特色があって楽しい。ハロウィーン・ショーのボックス・セットの3作は、4年ごとのライヴの大きな変化を知るのによい。
●『HALLOWEEN 81』その5_d0053294_23531249.jpg
 本作ではザッパの曲の採譜で才能を認められたスティーヴ・ヴァイがギターを補佐し、また2年後のアルバム『ユートピアから来た男』ではザッパの語り調の歌を採譜し、そのザッパの声とユニゾンでギターを弾くという曲芸を披露するが、ザッパのソロを採譜するアイデアは80年代に意外な形で他の曲に応用された。そこから見える点は、ザッパが即興演奏の一方で楽譜を重視したことだ。その楽譜があって管弦楽団のための編曲やシンクラヴィアによる演奏が可能となった。それこそ「遺伝子操作」と呼ぶべきことで、ザッパの本質は他の音楽家にはない楽譜と即興の密接な関係にある。またその即興は録音がなければ採譜され得ないから、ザッパの本質は録音に内在する種々の可能性にもあった。本作もそのことを大いに意味している。本作はザッパ没後の発売ではあるが、本作の31日の真夜中のショーは生放送されたので、ショーを丸ごと聴かせることをザッパは避けていなかったと言ってよい。ザッパはただ時代にあまりに先んじていたのだ。ザッパは本作で計3つのショーが丸ごと収められることを否定しなかったはずで、またそういう機会がいつか訪れるかもしれないと思えばなおさら完璧な演奏を追求し、かくて本作のような曲の切れ目のない、そして隙のないショーが仕上がった。29,30日の演奏が収録されなかったのは、レパートリーがだぶり、また31日、1日の演奏がより出来がよかったからだろう。本作のディスク5,6の核心部分の曲目はディスク1、2のそれと同じで、聴き比べる楽しみがあるとはいえ、同じ演奏をもうふたつ、計4枚のディスクとし、本作を10枚組にすると価格は2万円になったのではないか。さて、きわめて多忙でもあり、また予想外の出来事にも見舞われ、もう本作の感想は書くことがないと思っていたが、総論めいたことを書き足す気になった。近年ザッパの新譜はボックス・セットが目立ち、1万円以上の価格となっているが、これは2,30代には痛い出費だろう。リアル・タイムでザッパの新譜を買い続けて来た筆者のような60代後半のファン相手の商法と言ってよいが、それでは懐メロとなってザッパの評価が後の世代に伝わりにくい。それは別段筆者の知ったところではなく、この文章にしても筆者の自己満足で書いているが、書くからには自分に照らす思いがある。そのザッパ以外の余分なものがこうした感想文には必然的に入り込み、真の評論と言えないと思う人もいるだろう。だがそこは評価の別れるところで、それがいいと言う人もあれば、嫌と思う人もあって、後者は資料的なことで充分と考える。筆者自身がどちらかと言えばそういうようにしてザッパの音楽を聴いて来たが、どうせ書くなら他人が書かない、書けないような工夫めいたことを投入しようと考え、今に至っている。
●『HALLOWEEN 81』その5_d0053294_23533811.jpg
 その書かない、書けないものは、人間は誰しも異なるので誰が書いてもそのようなものに必ずなると言えそうが、そこに最後まで読ませる「面白さ」という観点を想定すれば、誰もがそういうものは書けない。綴った文章を他者に読ませるにはそれなりの腐心は必要となる。筆者は音楽家ではないが、いちおう創造を職業としていて、その視線からザッパの仕事を見るといろいろ教えられることはある。ただし、筆者が好きな芸術家はほかにもいるので、何から何までザッパの影響を受けた文章を書くということはなく、またそれが出来るという自惚れも持っていない。それはさておき、本作のコンサートに集まった人たちの大多数はザッパの全アルバムをおそらく所有せず、2時間ほどのショーを楽しむために駆けつけ、さらにはほとんどが創作家ではないだろう。そこで思うのは、ザッパはそういう人たちへの娯楽を提供するために猛烈に練習し、新曲を書き続けたことだ。そこには作り手と受け手という一方通行があるだけかと言えば、決してそうではない。ハロウィーンの一夜をザッパの演奏で大いに楽しんだ後、また人々は日常に戻って自分の仕事に就く。そしてそれら数多くの創作とは無関係のような仕事であっても、そこには尊さを感じるべきだ。それが自尊心だ。自分の収入になる仕事を愛せよと言えば何となく嘘っぽく響くが、やはりそうであって、そういうようにザッパのショーを楽しんだ後に日常に戻ってもらえることがなければ、ザッパは落胆したのではないか。ザッパの頑張りを見て自分も頑張る気力を持つことが、ザッパの音楽への理解の第一歩だ。確かにショーを見ることは現実からの一時逃避だが、そこで得た活力を日常の仕事に使わねば申し訳ない気が筆者はする。その意味でザッパの音楽は前向きの心を持った人に響き、鬱から自殺するような人には理解出来ない。またそういう人は本作を知らず、知っても買えない貧しさで、また聴く時間もないかもしれず、本作の感想を綴ることの無意味さを思わないでもない。ザッパの歌詞からは勝者の価値感を持っていたことが伝わり、それは弱い者いじめと受け取られかねないほどだが、気弱な人、自信のない人はそもそも聴かず、無縁と言ってよく、害はない。また妙に自信のある人はザッパを誤解するはずで、結局のところどのような作品もファンを選び、ある一定以上は広がらない。それでいいのであって、聴くべき人は直感にしたがって存在を知り、聴くに至る。またそうでない限り、聴いても何らかの糧にはなり得ない。この段落は即興で一気に書いているが、本作と無関係かと言えば、筆者はそうではないと思っている。で、ザッパには克己心が途方もなくあったが、そういう人物からすれば、「仕方がない」と自分を許してしまう者は耐え難いもので、仕方がないと思うよりもどうにか苦境を脱する手立てを採れと考えている。
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 本作に旧曲の「ヨー・ママ」が収録される。これは家にこもって何でもママ頼りになっている人物のことを歌う。70年代のアメリカでも引きこもりは社会問題となっていたのだろう。同曲はそういう人物に対して、「ママと一緒にいるべきだ」と歌うが、軟弱な精神ではとても世の中では生きて行けないが、精神が弱い引きこもりが同曲を聴くことはなく、聴いても同じようにママに何でもしてもらうだけで、同曲は引きこもりが社会復帰することについての具体的な提案はない。ザッパの歌詞はみなそうで、社会の断面をただ描写するだけで、ザッパ自身は猛烈に仕事をするばかりであった。ところがそのザッパは自分のツアー生活を最良とは思っていなかった。それこそ「仕方ない」側面があった。妻子を食わせるため、自己表現のために、毎年ツアーに出て多くの即興を実現し、録音をものにする必要があった。75年のアルバム『ボンゴ・フューリー』では、ツアー先の味気ない食事に嫌気が差した心境を歌う曲があり、筆者はその曲からヴェンダース監督がアメリカで毎日違うホテルに泊まったことを連想する。ヴェンダースはその生活をいいとは思っていなかった。仕事のために仕方なくで、それはザッパも同じであったはずだ。何が言いたいかと言えば、自分のやりたいことのためには苦痛も伴うということだ。アクセル・ムンテの『サン・ミケーレ物語』には、医師のムンテが尊敬する人物としてサン・ミケーレ島の老人の漁師が出て来る。彼は無学かもしれないが、その生活の営みは2000年以上前と同じで、その悠然さに心を打たれる。ザッパは祖父がシチリア島で葡萄を栽培していたことに「何といい生活であったか」と書いたが、それはムンテの思いと同じで、有名になって大金を稼ぐことだけが幸福とは限らないことを知っていた。そこに「ストリクトリー・ジェンティール」の歌詞を照らせば、どのような職業でもご苦労様であって、この世に不要な職業はないとザッパは思っていたことになる。そして許せないことは、いい加減な仕事をすることだ。葡萄を栽培していい加減なことをすれば、いいワインが作れない。それでは家族が困る。葡萄の栽培は命がけだ。そのことはザッパが音楽に邁進したことと同じだ。そう考えると、ザッパがスウェーデンの教師がザッパのコンサートのたびに姿を見せることを快く思わなかったことが理解出来る。教師の本分を徹底して守れば、ショーにうつつを抜かすことは出来ないからだ。「黙ってあんたのギターを弾きな」の意味がそこからもわかる。ま、以上の大半は本作の録音当時に筆者が思っていたことで、筆者も若い頃と何ら思いは変わっていない。毎晩このような長文を無料で書くのはただの自己満足だが、毎日練習しなければ衰えるとは思っている。とはいえ、上達する年齢でもない。ザッパについても才能に優れた人が書くべきだが、書く技術の上達には日々の練習あるのみ。
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by uuuzen | 2020-10-20 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など
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