呪いの言葉は兄の口から出る。妹からそう思われないために優しい気持ちでいるべきだが、お互い家庭を持ち、子どもが出来ると、生活の水準や考えが違って来る。特に厄介なのは、妹の配偶者が兄を侮ることだ。
たとえば妹が兄のことを大切に思っていても、夫の稼ぎが世間並み以上にいい場合、「お前の兄はなんぼのもんじゃ」といったことを時に言い、それに反発する妹も次第に夫の意見に染まって兄を軽んじるようになる。そうなっても妹夫婦の仲がよければそれでいいのだが、ほとんど経済力だけが夫婦仲を支えていて、真に幸福そうには見えない。幸福であったとしても慈愛に満ちた顔からは縁遠い。ただしこういうことを言えば、金のない者のひがみと思われる。それほどに経済的に成功した者の心は貧しい場合がある。
ギル・エヴァンスは名声の割りには金に縁がなかったが、年下のジャズ・メンがたくさん慕って集まった。それに黒人の奥さんのアニタはギルより30歳ほどは年下のようで、またふたり揃っての写真の笑顔は、純粋さの見本を思わせて胸を打つ。アニタは美人ではないが、働き者に見え、彼女が晩年のギルと添い遂げたことは、ギルの音楽の高潔さと相まって、人間とはどうあるべきかを教えてくれる気がする。あまりにも醜いものが氾濫する現在、人は心に汚したくない、汚されたくないものを持つ必要がある。その聖なる存在は神や仏ではなく、人であるべきだが、一瞬で心に何かが響く他者との直接的な出会いはめったにない。直感は誰しも持っているのに、他者との出会いに際して運命の神が提供してくれたと気づく前にもう縁遠くなっている場合が多い。それを無理にたぐり寄せて親しくなることもあるが、それには若さが必要だ。ギルがアニタと夫婦になったのは、年齢差を超えて精神が共鳴したからだが、アニタはギルにスヴェンガリが持つ魔術を感じ、それに呪縛されたのだろう。年齢を重ねるほどにその人が持つ性質が顕著になる。枯れて行くほどに本質が露わになるとして、筆者は息子以外に作品としての種子をどれだけのこすことが出来るかと思い続けている。そしてそのために鶏冠鶏頭の種子を蒔いて2年目となるのに、思い描く理想の花に出会えない。そこでふらふらと歩いている間にたまに鶏冠鶏頭を見つけるが、そのどれもが違った形をしながら完璧で、またどれも筆者が望む形ではない。響き合うことの困難さをそんなことからも思うが、自分で育ててそれが得られる保証もない。これは迷路をさまよっているも同然だが、出口のある迷路ならば、盲人でもたとえば右側の壁に手を触れて歩き続けると、遠回りをすることになっても必ず出口に至る。筆者はその出口があると信じている。今日の最初の写真は先月14日、近所で見かけた。そのままで絵になるほど三角形の構図は完全だ。2枚目は嵯峨のスーパー近くで先月29日に撮ったが、一昨日見ると鶏冠状の花が少し大きくなっていた。
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