獲得したいものは誰しも幸福感だろう。トリルビーは両親のように家庭を持ち、子どもを産み育てることを望んだのではないか。それが古代ギリシア彫刻のミロのヴィーナス並みの体躯と、類稀な美貌を持っていたので、言い寄る男には不自由しなかったはずだ。

ところがかなり年下の弟がいて、また母はその弟がまだ小さな頃に亡くなったようで、弟はトリルビーの子どもと思われた。当時彼女は17,8歳で、周囲から幼ない妻と思われたほうが変な男が言い寄らなくて却ってよかったのだろう。第7章に男装したトリルビーの挿絵があって、彼女は一時期パリ南方数十キロの街に住んだ。その街に移住した経緯は他の章を読む必要があるが、同地で弟を亡くし、彼女ひとりでパリに徒歩で舞い戻り、迷いながらもスヴェンガリの住まいを訪ねる。男装の必要があったのは、若い女のひとり旅が危険であったからだろう。本書の挿絵によれば、彼女はかなり背が高く、ジョルジュ・デュ・モーリアは男装が似合う女性をイメージしたようだ。その点で映画『悪魔スヴェンガリ』のトリルビー役の小柄な女性は、デュ・モーリアがその映画を見ていたならば、自分の思いと異なることを言ったかもしれない。ついで書いておくと、本書の発売直後からトリルビー・ブームが湧き起こり、早速ロンドンの劇場で舞台化された。今日の最初の写真がそれで、スヴェンガリ役は『悪魔トリルビー』の男優とそっくりだ。つまり、映画化するに当たって本書の挿絵や舞台の写真が参考になった。また、時代が下がるにつれて本書から遠い俳優を起用することになるだろう。日本の時代劇がそうで、今は昭和30年代頃までと違って、味のある時代劇俳優は皆無となった。顔の輪郭を初め、あらゆる面で日本人がここ半世紀で変わってしまった。それと同じことは世界中で言えるだろう。トリルビーは19世紀末の女性であって、今はもう望めないだろう。今は今の美女にふさわしい物語が必要で、それでエルザ・トリオレは『幻の薔薇』のマルティーヌを創造した。それから60年経った今、絶世の美女にふさわしい物語があるはずだが、トリルビーと同様、美人は薄命で、20代前半で多くの人に強烈な印象を残して世を去る必要がある。そうでなければロマンにはならない。筆者は紺色の表紙に金押しで表現されるトリルビーの上半身を見ながら、これ以外の愛らしい絵は考えられず、また本書で描かれる彼女の人生を憐れに思うが、残酷なことを言えば、美しいままに死んだことはよかった。23歳のトリルビーはスヴェンガリが心臓発作で死んだ後、みるみるうちに痩せ衰え、髪に白いものが混じり、目尻に皺が増え、30歳に見えると書かれるが、一方で死の直前の彼女はますます美しさが増したとあって、言葉では表現不可能な魅力を持つ女性は稀にいる。その思いは女性にはわからないかもしれない。本書ではリトル・ビリーがその魅力に捉えられる。

本書の扉に花畑に立つトリルビーの正面全身像の挿絵がある。これはスヴェンガリと去った後、歌手として世間に出て来た時の姿で、それを見て「三銃士」であるリトル・ビリー、タフィー、レアードの3人のイギリス人画家は肝をつぶす。歌が下手であったのに、なぜヨーロッパ中を沸かせた歌手になり得たのか。もちろんスヴェンガリがそうさせたのだが、数年の間にそれが可能だろうか。デュ・モーリアはその現実的な答えめいたことを本書の最後に書く。それは『悪魔スヴェンガリ』で描かれるように、単に催眠術によるものではない。いかにデュ・モーリアの時代に催眠術が流行していたとしても、それで歌がうまくなるという筋立てはあまりに人を馬鹿にしている。ま、このことは後に書くとして、映画での中心となる登場人物は「三銃士」の3人の画家とトリルビー、スヴェンガリ、そして彼の弟子ないし相棒のゲッコーの計6人に過ぎないが、本書ではもっと多く、スヴェンガリやゲッコーの世話をするマルタという老女、また「三銃士」側の血縁や知り合いも多く出て来る。そして各人の性格づけが挿絵も相まって鮮明で、全員がいかにもという生活を送っている。それはある意味ではどの人物も紋切り型に描かれていると誤解されやすいが、本書の最初から最後まで重要な役割を果たす大柄な紳士のタフィーでさえも、完璧な人間とは描かれない。そこは風刺画家デュ・モーリアの面目躍如と言ってよく、紳士淑女にも欠点はあり、反対に両親がいなくなったトリルビーが身を寄せるマルタン親父夫婦は、廃品回収業と古道具屋をしているが、人間的にとても温かいとされる。ただし、そういう人物の庇護下にあるトリルビーは、幾分かはそういう人物にありがちな性格も持っているとされる。これはたとえば、トリルビーがたばこを吸うことだろう。映画では彼女が最初に登場する場面で貫禄十分に煙を吹き出す。本書ではその様子が詳しく書かれるが、後の章では、つまりリトル・ビリーと恋愛関係になってからは彼女がたばこを吸わなくなるので、当時でも娘がたばこを吸うのは世間的には下品なこととされていたのだろう。話は戻る。本書の表紙に金押しされるトリルビーの姿についてデュ・モーリアは、軍服の外套とその下はペチコートのみと書く。映画では彼女は初対面のリトル・ビリーにその服装を不思議がられ、彼女は階上の彫刻家のモデルのための衣装といった言葉を返すが、本書にはその言葉はない。軍服のコートは彼女の貧しさを形容していて、マルタン夫妻から譲り受けたものだろう。ペチコートは19世紀末では下着ながら現在の薄手のスカートと同じだ。また彼女の靴はサイズがかなり大きく、底が擦り減った男物だ。ところがスヴェンガリによって歌手となった彼女は豪華な衣装に困らなくなる。もっとも、それらの高価な衣装はマルタが管理していて、トリルビーは彼女から無料で貸し与えられている。

だが、マルタは守銭奴ではなく、スヴェンガリの急死後、トリルビーが病気になった時はリトル・ビリーの母バゴット夫人とともに大いに世話をし、トリルビーの珍しい病気に関心を持った紳士と一緒にパリ市内を気晴らしに歩かせる。その場面は第8章にあって、挿絵も巧みだ。トリルビーは街を歩きながら、透き通るブランドの向こうに働く女性たちの姿を認める。そこは洗濯屋のアイロン掛けをしている店で、トリルビーは5,6年前に自分がその職業に携わっていたことを思い出すのだ。そしてドアを開けて中に入り、自分を雇ってくれないかと訊くと、アイロン掛けをしている若い女性たちは一同に驚く。高価な毛皮のコートに帽子を被ったトリルビーはどう見ても大金持ちだ。ところが彼女はフランス語の俗語で話す。淑女の身なりと美貌であるのに言葉が卑俗で、しかも働きたいとは何事か。トリルビーの背後でマルタは軽く額を何度か叩く様子をアイロン掛けの女性に示し、そのそばで付き添いの紳士がうなずくと、アイロン掛けの女性は事情を察し、「いくらでも仕事はありますよ」と笑顔で答える。ところが、もはやトリルビーは歩くこともやっとだ。彼女はスヴェンガリが死んだ後、歌をぴたりと忘れてしまい、昔の自分に戻ったのだ。そして働かなくてはならないと思い詰める。そのことがいじらしくて悲しい。タフィーがトリルビーを診させた医者は首をひねるばかりで、病弱になって行く原因がわからない。トリルビーはついに死を意識し、自分が持っているお金や宝石を、親切にしてくれた「貧しい」マルタやゲッコーに譲る遺言を伝える。「三銃士」の三画家は手の施しようがないが、ベッドにいるトリルビーを三者三様で描く。それらはみなかなり違うのに、どれもトリルビーそのものだ。この表現は面白い。そうこうしていると、大きな荷物が届く。それを開けて全員驚く。それはスヴェンガリが雇ったハンガリーのバンドを指揮するスヴェンガリの全身を捉えた写真で、ヴェニスで撮影したものだ。各都市をツアーして回ったスヴェンガリとトリルビーで、届け先がわからなかったものがようやくスヴェンガリの死後に届いたのだ。トリルビーはその写真をまじまじと見ながら「ハンサムね」と言い、そして突如ショパンの即興曲A♭のメロディを最初から口ずさむ。その美声は部屋中どころか、建物全体に響きわたり、かつての歌姫トリルビーが蘇生したことに慄いてマルタは悲鳴を上げながら部屋を飛び出す。スヴェンガリの死後、人が変わったように歌を忘れていたトリルビーなのに、写真を見た途端に見事な歌声が蘇った。そして歌い終わると彼女は意識を失い、リトル・ビリーが介抱するが、最期に彼女の口から洩れた言葉は「スヴェンガリ、スヴェンガリ、スヴェンガリ」であった。さて、もう1,2回は投稿するつもりだが、物語の進行順に書いていないので、次回はまた話が戻るかもしれない。

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