崖っぷちに立っていることを意識することで日々充実感がある。それで西洋では「メメント・モリ」と言うが、今さえよければいいと考えることは間違いだろう。
「風風の湯」の常連に、最近家業をやめて働きに出ようとしている還暦過ぎの人の話を小耳に挟んだ。配達業務や警備員の仕事も見つからないらしい。一方、コロナで仕事がなくなり、家のローンが払えなくなったので転居する人がいる。捨てられた飼い犬が人間不信になっているところを助けられ、元の快活さを取り戻す様子を海外の犬を保護する団体の映像を以前よく見かけたが、捨て犬は生まれながらの野犬よりも生活力がなく、怯えながら隠れ住み、全身がボロ雑巾のようになって餓死する場合がほとんどだろう。先日NHKのTVが京都の桂川の河川敷に野犬の群れがいることを報じていた。その話を聞いて1年以上になる。捕獲された野犬は檻の中で困り切った顔をしていて、自分の将来を予期しているようであった。元はペットであったから、引き取られる可能性は少ないだろう。野犬が生む雑種の子は自然の中で逞しく生きることになるが、野犬が減少しないのは餌を与える人がいるからだ。捨てる神あれば拾う神もあるということか。野良犬が街中にいた昭和3,40年代に戻って来ているようだが、河川敷に集団で住みつくのは物騒だ。引き取ってペットにすると、「忠犬ノラ公」となって犬も飼い主も周囲の人にもよいから、ペットとして飼うからには捨てるなということだ。ところが今は子どもを虐待する親がよくいて、彼らはペットを捨てることを何とも思わないだろう。親が死ねば仕方がなく、中にはピエール・ガスカールのように精神的に逞しくなり、一角の人物として業績を残す者が出て来るが、多くは野良犬のように人に顧みられず、寿命を縮める。『TRILBY』の主人公のトリルビーがそうだとは言わないが、同書第8章に、トリルビーがこんな発言をする。「貧乏人は死についてあまり考えないわ。お金持もそうすべきで、若い頃に死を笑い飛ばし、軽蔑することを教えられるべきなのよ。中国人のように。中国人は首を切り落される時、笑いながら死ぬことで死刑執行人をおちょくるのよ。それは全くあたりまえのことで、わたしたちはみんな同じ舟に乗っているのよ―誰が怖いものですか!」。今日は久しぶりに梅津に行ったが、松尾橋の下流側の歩道が拡幅されていた。橋をわたり切ると、右手に内田病院のある角に「野犬注意」の小さな立て看板があって、吠える2,3匹の野犬の写真が印刷されていた。それを撮影したのに写っていなかった。憐れなその姿をブログで見せないほうがいいとも思ったので、内心安堵した。そう言えば昨日載せた布絵の白い犬には羽が生えていて、「天使のようにかわいらしい」が、死を連想させもして、その愛らしく清純な笑顔と姿はトリルビーに重なる。彼女も忠犬みたいなものであった。
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