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●てんとう虫の転倒無視
切り絵用に考えていたタイトルだが、絵を思いつきそうにないのでここで使用する。この語呂合わせを思い浮かべながら、さきほど韓国映画『マラソン』の一場面を思い出していた。



ブログには書かなかったと思うが、それは映画では重要な場面であった。映画の最大の山場は自閉症の青年がフル・マラソン大会に出場することだ。走る場面ではそれまでのソウルの都会とは全然違う山辺の晴れた秋の風景が映る。実際にそうした田舎の車道を使用したマラソン大会が行なわれるのかどうか知らないが、もしあるとすれば日本も大いに見習うとよい。青年はマラソン大会は初めてで、途中の山道でランナーも少なくなったところでリタイアしそうになる。その時、後ろから走って来た若い女性がパンか何か袋に入った食べ物を手わたす。女性の顔は映らない。パンをもらって主人公はまた元気を出し、ゴール・インを果たす。その顔が映らない女性ランナーのことをふと思い出したのだ。映画が伝えたかったのは、見知らぬ人の親切によって救われる存在があるということではないだろうか。女性にすればあまっていたパンを捨てるには忍びなく、ちょうどいい場所に青年がへたり込んでいたので手わたしに過ぎないかもしれない。そんなあり得る事情については映画は何ら描かず、観客の想像に委ねている。そのため、誰もが他者に対して親切を働くべしといった教訓的な臭いは全然しない。確かに映画のほかの部分では、青年の母親がマラソン・コーチに執念深いとも思える態度で息子への指導を頼み込み、また監督も折れて青年を大いに勇気づけるので、人間の情愛の大切さを顕著に描く点において何となく現実にはあり得ない感動を無理強いするタイプの映画だと思わせはする。だが、監督はそう思われかねないのを承知のうえで、青年が最後まで走り抜く直接のきっかけを与えたのが全く見知らぬたまたま出会った人であるという物語とし、そのことで人間のあり得るべき姿を描きたかったのではないだろうか。困っている人を見れば、自然と自分が出来る援助の手を差しのべる。たいしたことでなくてかまわない。自分のその場の身丈に合ったことでいい。それがマラソンのように長い人生行路で必要な人間性というものだろう。個人的な深いつき合いを青年の母親とマラソン・コーチとの関係で描き、一方で単に通りすがりの人であっても同じように他者に決定的な影響を与え得る。映画が本当に言いたかったのは後者の点に尽きるのではないだろうか。毎日ブログで長文を書いているのに、そういう肝心なことを後でよく思いつく。そんな例はいくつもある。
 ついでなので、もうひとつだけ書いておく。崔福姫の伝統衣裳再現展のことだ。会場が3つのコーナーに分かれていたことは前に書いた。それとはやや別の離れた場所に1体の等身大のマネキンが台上に横たえられていた。「寿衣」と説明がある。マネキンには白く脱色したのとうすい桃色に染めた麻の生地で顔や体全体が覆われていた。これはチェさんが自らの手で縫い上げた死装束だ。彼女は高齢なので、いつこれを着ることになるかもわからない。だが、ちゃんとその時に着せられる衣類を用意している。その白とピンク色の対比はとても上品できれいであったが、「寿衣」とはよく言った。死は悲しいものだが、老齢に達してならば、それは寿命が尽きたことであり、着せられる死装束を「寿衣」と呼ぶのは正しい。ちょうど梅が咲いている季節でもあるので、白とピンク色がよけいに思い出される。それにしても自分が死ぬ時に着る衣服を自分で縫うのはどんな気分であろうか。きっと普段の仕事と同じであると思うが、それほど普段の仕事も邪念を入れないようにしっかりと責任を持ってやっているに違いない。自分が死んだ後、他人から笑われないような仕事を残しておこうとする心がまえは、物づくりする人の中には大抵宿っている。ましてや死装束も作品として人前で展示されるチェさんとなれば、もっとその思いは強いだろう。生きている間に着用するさまざまな身分に応じた衣裳とは別に、死んだ時に着せられる伝統的衣裳がちゃんとあって、それがそれなりに美しいというのは人間の尊厳を思う精神の表われであって、「寿衣」は心に残った。ブログではそのことをひとつも書かなかったが、これはある程度日を置いて初めて見えて来るものがあることを示す。
●てんとう虫の転倒無視_d0053294_14345569.jpg
 1週間ほど前、3階の仕事部屋に住まわせていたてんとう虫のほとんどを窓を開放して外に出した。てんとう虫は勝手に春を感じれば自分で冬眠から目覚めて飛び立って行くので、放っておいてかまわないが、急に春めいた日差しが照ると、壁や窓の隙間に何百と眠っていたてんとう虫が一斉にもぞもぞと動き出し、中には部屋を飛び回るものがある。早く外へ出たいようなのに、ぴったりと窓を閉じているのでなかなか外に出られない。それで1匹ずつ掌に乗せ、窓を開けてベランダの外にかざす。すると最初はびっくりして縮こまっていたてんとう虫も背中に強い日差しを受けて動き始める。もぞもぞと指の先端まで行き、そこで背中の中央をぱかっと開き、次の瞬間、向こうの畑へと飛んで行く。その様子が面白く、毎年同じようにしてたくさんのてんとう虫を放っている。畑の作物からすれば「虫」であるので、耕す人にとっては迷惑な話かもしれない。だが、てんとう虫は植物につくあの小さな緑色のあぶら虫を食用にするので、むしろ益虫だ。てんとう虫がいつからわが家に毎年晩秋になると住みつくようになったか忘れたが、それ以前は別のところで冬眠していたわけで、筆者が宿を貸さなくても彼らは困らない。毎年、室内の最も暖かい隙間に何百と住むが、虫嫌いの人が見れば卒倒するだろう。それほど大く集まってじっとしている。真冬でもたまには空気の入れ替えで窓を開けるので、そんな時は隙間からばらばらと音を立てて落ちる。それを刷毛などでどうにか外へ出してそっとまた窓を閉めるが、べしゃりと潰れてしまうのがいる。これもどうしようもない。そんな事故死するのを含めての多数の冬眠のはずだ。てんとう虫が暖かい場所に集まって冬眠することを知ったのは、20年ほど前の新聞の子ども欄でのことだ。そんな様子を見たことがなかったので、興味を持ってその記事を読んだ。そして、同じことが自分の部屋で起こるとは夢にも思わなかった。窓を毎日開閉するところでは絶対にてんとう虫は冬眠しない。ほとんど空き家になったような、つまり日中も夜半もずっと外気に晒されないような場所を好む。そのため、筆者はますます晩秋から初春にかけては窓を開けないことになった。てんとう虫をびっくりさせたくないからだ。空気のこもった部屋の中でこうしてブログの文章を毎日書いていると、自分がまるで冬眠して夢想しているてんとう虫になった気分がする。これなら、体が小さいのでいつか妹に見つかっても背中にリンゴを投げつけられることはない。何のことかおわかりかな?
 てんとう虫はある時期に全部が這い出して飛び立ち始めるのではない。いくつかの時期に分かれて飛び立つ。それは春の気温はまだ安定していないことをよく知っており、時期をずらすことで寒さで死に絶える確率を減らし、また晩秋になっても冬眠に入る時期に幅を持たせてなるべく長い時期にわたって活動出来るようにとの配慮からだ。1週間ほど前は大半がいなくなったが、まだあちこちに10や20はじっとしていて、指でつまむと急にのそのそと動き始める。まるで眠っているのを邪魔された様子だ。掌に乗せてひっくり返すとそのままになっているが、死んだように見えながら、やがて勝手に起き上がる。そのため、転倒しているてんとう虫は無視する。そんなてんとう虫は、体の星の数によって害虫とそうでないものとに分けられると子どもの頃には聞いた記憶がある。それは間違いだろう。形はみな同じであるし、星の数によって性質が違うはずがない。筆者が観察したところでは星の数が違う7、8種類が混在して冬眠している。もし星の数によって種が異なるのであれば、雑居して冬眠はしないはずだ。ところで、てんとう虫は「点灯虫」と字を当てたい気もするが、実際は「天道虫」だ。この理由は丸い背中の点々模様を見ていると、宇宙空間であるように見えるところからだ。あの小さな背中に天の道筋があるとは面白い。英語では御存知「ladybird」、つまり「貴婦人の鳥」という意味の愛らしい名前で、てんとう虫が洋の東西を問わず人間には好かれているようであることがわかる。「レイディ」で思い出した。また話は暴走脱線する。
 20年ほど前だったか、ある雨の日、傘を指さずに信号を待っていた。通り向こうはすぐ駅だが、雨が強くてすっかり濡れていた。すると、背後からすっと傘が頭上に来た。驚いて振り返ると見知らぬ女性が笑顔でいた。次の瞬間、「濡れますよ」といったような言葉をかけてもらった気がする。どぎまぎして筆者は無言のままでいた。数歳ほど年上の、知的なレイディという感じの人だった。やがて信号が青に変わった。そのままひとつの傘に入りながら向こうにわたり、すぐに雨で濡れないところに入ったので、そこで女性とは別れたが、何事もなかったように彼女は歩み去った。それから数年経った頃、また同じような場面があった。今度は筆者が傘を指して信号待ちをしていた。ずぶ濡れになった女子高校生がすぐ横に立った。それで一瞬迷いながらもすぐに傘を指したところ、彼女はびっくりした表情で筆者を見つめ、そして前方に向き直ったが、信号が青になるや通りの向こうに走り去った。変なおっさんに何かされそうで恐かったという表情ではなく、恥ずかしく照れている様子が何となく伝わった。そう信じたい。そしていつか雨の日に彼女がずぶ濡れで信号待ちしている人に出会うならば、たった1、2分のことであっても傘を指してやることがあればいいと思う。そんなちょっとした親切は全くあたりまえのことであるのに、親切心から事件に巻き込まれるといった殺伐とした世の中になり、周りの人がどんなとんでもない状況にあってもみな素知らぬ顔だ。つまり「転倒無視」。また思い出したので続けると、韓国旅行した時に市バスに乗った。座席に座っている人が、新たにバスに乗り込んで来て吊り革にぶら下がった知らぬ人の鞄をすっと受け取って膝のうえに乗せた。知り合い同士かと思ったがそうではない。先の停留所で吊り革の人物は座っている人物から鞄を受け取ってそのまま下車した。鞄を持ってもらった方も受け取った方もそれがごく当然のような顔をしていて、日本のように深々と礼もしない。これには本当に驚いた。小さな親切があたりまえのものとして浸透している。数年前、東京で韓国からの留学生がプラットホームに落ちた人を助けようとして電車に轢かれて死んだ事件があった。それは小さな親切が日常的に見られる国に育ったゆえの行為ではなかったか思う。
 そういう親切心を大きく唱えると、きっとまた反論を言う人がたくさんある。そんな親切を声高に言う社会は気味が悪いと奇妙な論法でこじつける。先進国は人間がドライになって当然であり、人々が親切の強要をする社会や国は本当のところは醜い事情がたくさん覆い隠されているに決まっているという見方をするわけだ。確かに小さな親切は押し売りするものではない。みんなが自発的にそういう精神を持っていることが理想的ないい社会であることはわかる。だが、人間が社会的動物である以上は、道徳心といったものを幼いある時期に何らかの形で学ぶ必要はある。困っている人が間近にいるとして、そして自分が何か手助けが出来る立場にあるならばそれをするのが人間であるのに、そんなごく自然なことを間違いと言う社会こそとんでもなく病んでいるのではないか。しかし、ここでも理屈を言う人がきっとある。たとえば、どしゃ降りの雨の中で傘を指さずに信号待ちしている人があるとして、その人に道路をわたる1、2分の間だけ傘を指してやって何になるのかとか、あるいは、その人は好んで雨に打たれているかもしれないとか、さらには、その人が傘の中に入れてほしいとも言っていないので押しつけはよくないといったような意見だ。物事はケース・バイ・ケースで、筆者もてんとう虫が転倒していても無視することが多いので、常に小さな親切を心がけていると主張はしない。だが、たとえば、だらしない格好をした高校生たちが広々と電車の座席を占領し、すぐ目の前に両手に重い荷物を持ったおばあさんが立っていても全く気づかない素振りで大騒ぎしているのを見ると、無性に腹が立つ。自分たちが腰の曲がった老人になった時、若者たちがそういう態度であればどう思うか。確かに老人に積極的に席を譲る青少年もよく目にするから、現在が昔より人々の道徳心が失せたとは断言はしない。だが、親切よりもよそよそしく知らんぷりをする人が昔より増えた気がする。これは筆者のような大人の責任だろう。「親切心など必要ない。それより大事なことは少しでもよい成績を取ること」、つまり「転倒無視の点取り虫であれ」という結果が今のこの日本というわけだ。来年はてんとう虫が学業アップの守り神として讃えられていたりして。
●てんとう虫の転倒無視_d0053294_14360264.jpg

by uuuzen | 2006-03-14 00:11 | ●新・嵐山だより
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