糞を食べる行為が認知症患者にたまにあると聞く。今読んでいるピエール・ガスカールの小説『種子』の最初のほうに、10歳ほどのガスカールが地元の教会で手伝いをして小遣いをもらう話が出て来る。
その司祭がおはことしている話が、ヴォルテールが自分の排泄物を食べて死んだことで、それによって神の存在が証明されるというのが司祭の持論だ。WIKIPEDIAによると、ヴォルテールは83歳で死んだが、死ぬ間際のことは書かれず、パンテオンに墓所のあるフランスを代表する知性の彼が最晩年に認知症になり、自分のクソを食べていたことが本当かどうかわからない。教会を批判したヴォルテールをフランスの教会が敵視し、それがガスカールが生きた20世紀まで続いていたことはあり得る。それはともかく、長生きを望むのは体が元気で認知症にもならない場合で、先日「風風の湯」のサウナ室でFさんと82歳(現在84歳と思う)のMさんと横並びになった時、健康にあまり自信のない、そしてかねがねMさんの元気さに感心している72歳のFさんは、日本でも安楽死を認めるべきだと意見した。Mさんは意地悪く笑いながら、「ホントにそんな気になれる?」と訊いたが、Fさんは寝たきりになって快復の見込みがなく、周囲に迷惑をかけているのがわかっている、つまり認知症でない状態であれば、さっさと死にたいと言った。その条件はMさんも承知で自ら死を望めるかと訊いたのだが。家内の妹の主人は筆者と同じ歳で、去年癌で死んだが、医者が手の施しようがないとわかっていても、百万円する新薬の投与を主治医に頼んでいた。果てしない苦しみに耐えることときっぱりと死ぬことのどっちがいいかとなれば、やり残したことがあれば死にたくないだろう。平均寿命を超えた高齢でやり残したことがあると思うのは見苦しい話だが、それが生きる活力になる。半年ほど前、筆者より2歳上だったか、日本を代表するお笑い芸人が新型コロナウィルスで死んだ。彼は30歳年下の有名な女性タレントと結婚したがったそうだが、女性は30歳も離れていることを理由に断り、若い男性と結婚した。金や名声があってもあまりに年下の女性との結婚は無理で、彼がなぜもう少し年齢の高い女性と結婚しなかったのかと思うが、若くて美しい女性と頻繁に出会う芸能界だ。一旦覚えた趣味は自分が高齢になっても忘れられないのだろう。女性が真に美しく、また純真であるのは10代後半から20代半ばまであるというのは平均寿命が上がっても不変と思うが、そういう女性を30歳年上の男が求めることも、本音を言えば古今東西よくあることだろう。たいていは理性が働いて自制する、あるいは時間的経済的余裕のなさから諦めているが、前述のお笑い芸人は自分の娘のような若い女性と絶えず関係を持っていた。それを筆者は見苦しいと思うが、お互い独身ならば年齢差は関係ないという見方もある。
今日は昨日見たDVDについて書く。エルザ・トリオレの
『ルナ=パーク』に頻繁に出て来る小説『トリルビー』の映画化だ。『ルナ』にその小説のあらすじが書かれていたが、映画は結末がわずかに違う。その差はさておき、小説では若い女性トリルビーを題名にし、映画では彼女に恋をし、彼女の心理を操る音楽家のスヴェンガリが主役だ。1931年の製作で、20年ほど後にリメイクされたが、『ルナ』の主人公の映画監督ジュスタンはそのことを知らないかのように、ブランシュの書斎で見つけた『トリルビー』の初版本を読み耽って、その映画化の脚本を書く。その際、ブランシュに当初トリルビーの面影を充てるが、ブランシュが夫に宛てた手紙を読むに及んで映画化の件を忘れる。なぜエルザは『トリルビー』を『ルナ』に引用したのか、またジュスタンを映画監督としたのはなぜか。おそらくエルザは31年の映画『スヴェンガリ』を見、また『トリルビー』を当時読んだからであろう。『トリルビー』はフランス生まれでイギリス人の風刺画家ジョルジュ・デュ・モーリエが書いた。彼が書いた挿絵が121枚もある小説で、絵を描かないエルザは『トリルビー』を羨ましく思い、それで晩年に絵や写真を大量に載せる小説や
『ことばの森の狩人』を書いたのではないか。また、『トリルビー』は出版から37年後に本作『スヴェンガリ』として映画化されたことから、『ルナ』の主人公を映画監督に設定したと考えたい。エルザの小説の映画化は彼女の没後40年に『トリルビー』と同じように
『幻の薔薇』で実現したから、彼女にすれば念願がかなったことになる。エルザの言う「ナイロンの時代」は、「映像の時代」と言ってもよく、その映像は今はYouTubeが代表しているが、では過去の映画はもう古臭いかと言えば、本作の映像は白黒ながら俳優の表情がよくわかり、デジタル時代にはない気品が濃厚に感じられる。それに無駄のない編集で、どの場面も印象深い。『幻の薔薇』ではマルティーヌはわずかに顔のことが書かれ、顎がしゃくり上がっているとされるが、本作でトリルビーを演じるマリアン・マーシュのイメージをエルザはマルティーヌに重ねたのではないか。マリアンは本作当時18歳で、マルティーヌが結婚する年齢と同じだ。当時エルザは35歳で、本作のマリアンすなわちトリルビーを理想の美女と思ったとしても不思議ではない。またマルティーヌの貧しい、無教養な出自はトリルビーとだぶる。『トリルビー』から約50年後、エルザはいつの時代にもいるトリルビー的な美女を『幻の薔薇』という別の文脈に置いたが、マルティーヌの夫ダニエルはスヴェンガリとは全く違うタイプだ。だが、『幻の薔薇』を『ダニエル』と題してダニエルを主人公に映画化しても面白い。ただし、ダニエルはスヴェンガリのような謎の多い人物ではなく、本作の主題であるラヴ・ロマンスが役目を果たさない。
そのことは、『ルナ』が男女の恋愛を排除していることにつながっているだろう。エルザは「ナイロンの時代」には男女の恋愛は不毛と考えていたかもしれない。『幻の薔薇』も『ルナ』も『トリルビー』とは大いに違う男女の愛を描く。では『トリルビー』すなわち本作は古臭い愛が主題かと言えば、そうとは言えず、エルザはトリルビーを中心に三角関係となっていたふたりの男に大いに魅せられていたであろう。『ルナ』のジュスタンはトリルビーに恋する若いイギリス人画家のリトル・ビリーを思わせる。一方では魔性を持ったスヴェンガリにも似ているが、いずれにせよジュスタンはブランシュに手が届かない。では本作のスヴェンガリはトリルビーと一体化出来たのか。それは原作の小説を読んでみないことにはわからない。本作について簡単に書いておくと、トリルビーは美女だが尻軽女で、若い画家たちの裸のモデルをしている。これは竹久夢二が結婚したお葉と同じだが、今なら美人であればタレントや歌手になるか、あるいはAV女優になるといったように選択肢が増えている。トリルビーに恋するのがイギリスの中流の上の階級の若い画家リトル・ビリーで、彼はトリルビーが裸でモデルをしていることに心を痛める。トリル・ビリーやスヴェンガリが住むのはパリのカルチェ・ラタンで、そこでは外国から来た芸術家が当時はたくさんいたようだ。スヴェンガリはドイツ系ユダヤ人で、音楽の個人教授をしている。ピアノと声楽を教え、オーケストレーションも出来る。ある日彼は画家が集まる部屋でトリルビーを見かけ、彼女が気儘に歌った声を聞いて才能があると思う。やがて彼はトリルビーを眼力で
呪縛し、リトル・ビリーから引き離してアパートから姿を消す。5年後、彼女はスヴェンガリ夫人で名ソプラノ歌手となって音楽界に姿を表わし、各地で大喝采を得る。彼女はいつもスヴェンガリの指揮を真正面に見ながら歌うが、彼女の才能は5年の間にスヴェンガリの教授によって上達したものか、それとも呪縛による贋の才能かはわからないが、本作の結末で指揮するスヴェンガリが心臓発作で息絶えた途端、彼女は声が出なくなるので、彼女の才能は訓練によって上達したものではなく、スヴェンガリが催眠術で惹き起こしたものと見るべきだろう。スヴェンガリはトリルビーと結婚したので夫婦を名乗っていると思うが、スヴェンガリはトリルビーから純粋に愛されているとは思っていない。呪縛によって庇護下に置いているだけであって、スヴェンガリは自分の呪縛が解けるとトリルビーがリトル・ビリーに目覚めるのではないかと恐れているのだろう。『ルナ』によれば、リトル・ビリーは洗濯女兼モデル業のトリルビーを母に紹介すると呆れられる。身分があまりに違い、これは当然だ。それでトリルビーはスヴェンガリと去る。スヴェンガリを演じるジョン・バリモアは当時マリアン・マーシュより31歳年長だ。
この年齢差は前述した日本のお笑い芸人と女性タレントを想起させる。スヴェンガリが自分の子どもほどの年齢の娘に恋をするのは、いくら独身とはいえ、かなり見苦しい。ただし、彼は彼女の歌う声を聞いて魅せられ、その才能を伸ばそうと考えた。パリを去って5年後、見事な歌手となったトリルビーをスヴェンガリは「自分の最高傑作」と言う。スヴェンガリは音楽家であり、先生なのだ。スヴェンガリの行為は、お笑い芸人がただただ若い美女を次々に漁ったこととは違う。スヴェンガリは常にトリルビーと行動をともにし、他人を寄せつけないが、スヴェンガリは次第に体調を悪化させ、大都市での公演をキャンセルし、ついに場末のしがない場所でトリルビーは歌うことになる。リトル・ビリーはガードの固いスヴェンガリの隙を見つけようと、各地の公演について回り、ついにスヴェンガリと話が出来る機会を得る。その日のスヴェンガリは死期を感じていて、トリルビーに自分の目を見て歌うように伝えるが、公演の最中にスヴェンガリは息を引き取る。その間際にトリルビーが本当に愛したのは自分かリトル・ビリーかを訊ねると、声が出なくなって舞台上で倒れ込んだトリルビーは、リトル・ビリーに抱かれながら、スヴェンガリの名を口にする。スヴェンガリはトリルビーに対する自分の魔術が解けたにもかかわらず、トリルビーが自分を愛していたことを知って死ぬのだが、これが原作の小説では微妙に違うかもしれない。本作はスヴェンガリが主役で、彼は催眠術によって相手の意識を操り、本来はない才能まで惹き出す能力を持っている「悪魔」とされる。邦題の「悪魔」は原題にはないが、『ルナ』ではスヴェンガリは「邪悪」と形容されているので、「悪魔」という見方は的外れではない。ならばトリルビーはスヴェンガリの死の間際に彼の求めに応じて騙されたまま彼の名を呼んだことになり、本作では描かれないが、スヴェンガリの死後リトル・ビリーと相思相愛になるかもしれない。スヴェンガリがトリルビーの声に魅せられ、それを「最高傑作」にまで育て上げたことは、「悪魔」ではなく「神」と言ってよい。相手を鼓舞し、その才能を本来以上に発揮させるのは先生、師匠としては当然の役割だが、スヴェンガリは30歳も年齢差のある小娘を妻にし、心から愛してほしいと願った。それは世間的には常識外れの「悪魔」であろう。トリルビーがリトル・ビリーと結婚し、そのうえでスヴェンガリがトリルビーを名歌手に育て上げればよかったのに、スヴェンガリはトリルビーの才能も身も、そして心も独占したかった。そこには独身の初老男の悲しみがある。前述のお笑い芸人に対して筆者が感じるのもそれだ。いい歳をしていつまで若い女ばかりほしがっていたのか。名声もありあまる金があっても空しい。その点、スヴェンガリはまだトリルビーを名歌手に育てた。
若い頃にモンパルナスに住んだエルザ・トリオレはトリルビーや彼女を取り巻く画家や音楽家のことを身近に感じたはずで、30歳の年齢差のある男女のカップルを見たこともあるだろう。『ルナ』ではジュスタンは42歳とされ、ブランシュは30歳ほどかとジュスタンは思う。12歳差はまだ許容範囲だろうが、トリルビーとスヴェンガリの年齢差とスヴェンガリの強引さは、世間知らずの小娘を悪魔が餌食にしたと思われる。本作ではトリルビーがスヴェンガリに、「(命令どおりにあなたのために)歌って来たでしょう?」と言う場面がある。それは彼女はスヴェンガリの思いのままに行動しただけであって、本意ではないと受け取ることが出来るが、一方ではスヴェンガリを哀れに思い、彼を満足させるために頑張ったと考えることも可能ではないか。それに、トリルビーは裸を若者に晒して食べているような蓮っ葉な、またおそらく身寄りのない、貧しい出自で、彼女が豪華な衣装を着て、多くの観客を楽しませる歌手になったことは、スヴェンガリに感謝すべきことと言えるだろう。ところがスヴェンガリには無理矢理彼女をリトル・ビリーから引き離した負い目がある。スヴェンガリにないのは若さだけだが、これが人生では決定的で、いかに才能があって自分を有名にしてくれるとはいえ、18歳の女性はお爺さんでは嫌だ。女の価値は何よりも絶対的な若さで、男の価値は若さもあるが、同じほどかそれ以上に才能が重要という世間的な見方がある。トリルビーが名家の娘であれば本作のようなドラマは生まれないかと言えば、現実はそうではなく、伯爵の家柄の娘や妻が芸術家と関係を持つ例はいくらでもあった。そう考えると、スヴェンガリがトリルビーを操ったのはさほど悪いことと思えない。むしろ金をやるので、一定期間セックス込みの関係を持てと迫るほうがはるかに醜悪で、またそういう例ばかりが芸能界にははびこっている。トリルビーはスヴェンガリに恩を思い、それで彼の死の間際に愛しているのは彼と口にしたのかどうか。そうであったとしてもスヴェンガリは幸福のうちに生涯を閉じた。彼の言う「最高傑作」は筆者を感じ入らせる。芸術を目指す者は誰しも最高傑作と呼べるものを究極の目標にする。音楽家であり、教師であったスヴェンガリはトリルビーを育てた。筆者も30歳ほど年下の誰かを後継者に育てたいが、そういう出会いがない。それはともかく、本作はスヴェンガリが眼を光らせる部屋からズームアウトして夜の家並みが映って行く場面や、各部屋を通じる廊下など、セットがドイツ表現派的で、リメイク版にはないはずの凝った工夫が印象深い。原作の小説は時代が違うので別な印象を与えると思うが、先日フランスに注文し、発送したとのメールが届いた初版本が、英語なのかフランス語なのか気になっている。『ルナ』にはフランス語が引用されているからだ。
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