犀は静かで、月に棲むかのようだ。そのように想像して一頭の犀を月面に置いてみる。それは超現実主義の絵画のようで、シュルレアリストの作品に犀を扱ったものがあるかもしれない。

マックス・エルンストの絵画に犀のようなロボットじみた動物を描いたものがあるが、面倒臭いので今は調べない。ところで、先日エルザ・トリオレの『ことばの森の狩人』はアルベール・スキラが企画した叢書「創造の小径」の1冊と書いたが、当初執筆を依頼されたのは26名で、エルザは紅一点であった。そのことだけでも彼女の才能がわかる。今日は彼女の「ナイロンの時代」の第2作『ルナ=パーク』について書くが、この小説は『幻の薔薇』とは全然違う、もっと高度なとでも言ってよい内容で、面白いと思う人はおそらくわずかであろう。『幻の薔薇』と同じく、主人公は女性だが、彼女の顔や姿についての記述はなく、それだけに『幻の薔薇』のマルティーヌにはない神々しさが感じられる。そこからは、第3作『魂』の内容は本書よりさらに精神的なことについてであろうという想像を誘う。「ナイロンの時代」と称するからには、本書は時代の安っぽい風俗に言及したものかと思ったが、それは見事に裏切られ、また読み始めるとなかなか閉じることが出来ず、退屈だと思う箇所も多々ありながら、読みが加速化する。そして終盤になって意外な展開になるのは『幻の薔薇』と同じで、またその終わり方があまりに鮮やかであるので、忘れ難い小説となる。筆者は長年小説を読んでいないが、本書のようなものがとても珍しいと思う。日本の女性小説家ではまず無理だ。それは、本書のような内容ではとても売れないからで、そのために本書が長年翻訳されなかったのではないかと想像する。本は読み手を選ぶ。どの本もある意味では暇つぶしに供するものだが、TVドラマや映画を見るのとさして変わらない内容であれば、よほどの活字中毒でない限り、本を読む必要はない。エルザはそのことを充分に承知しながら、いかにして小説だけでしか味わえない世界、そして誰も書かなかった内容を目指した。とはいえ、エルザにも好みの小説があり、それは本書で言及される。また巻末の解説では、エルザが大量の安価な推理小説も読んでいたことが書かれるが、本書は読者を宙づり状態にしながら読み進めさせる点で推理小説の影響はある。筆者は猛烈な勢いで読んだので、あちこち消化不良の箇所があり、またどうして別に読む必要が生じた本があった。それは『トリルビー』で、本書を読み解く重要な鍵となっていて、何度も言及され、装丁についても図入りで詳しく書かれる。それで筆者は早速それと同じく1894年刊の初版をフランスに注文し、今日発送したとのメールが届いた。ネットの「日本の古本屋』では15000円で1冊売られているが、ネットで海外から買えば送料込みで2000円もしない。
さて、本書は世界的に有名な映画監督のジュスタンが主人公で、彼は映画を撮り終わって、パリ郊外に古家を購入するところから始まる。後頭部が禿げて髪が天使の頭上の輪のようになった中年男で、映画界にいるので寝てくれる女には事欠かず、また特定のセックス・フレンドもいるが、ひとりでじっくり休む場所がほしかったのだ。家の以前の持ち主はインテリアから女性とわかり、またその品のよさをジュスタンは大いに気にいる。大きな机が書斎にあり、蔵本はそっくりそのままで、その中の1冊に青い装丁の『トリルビー』を見つけ、噂に聞いていたのに読んだことのなかったその本を読み始める。一方、机の下を覗くと、奥に埃だらけの手紙の束を見つける。それを引っ張り出してひとまず屑籠に放り込むが、気になって適当に一通を読むと、ラヴ・レターだ。本書の3分の1の記述はそれらラヴ・レターを引用する。その中にエルザが実際にもらったものが混じるそうだが、それがどれかは即座にわかった。本書のほとんど最後、例外的に長文の手紙がある。その文中に「トリスタン・ツァラ」が出て来る。これでピンと来ない人は本書を楽しめないだろう。ツァラはダダイストで、若い頃のアラゴンと交流があった。またその手紙は本書で書かれる他のラヴ・レターと違って圧倒的に濃密で、エルザには創作出来ない香りと、さすがにアラゴンと思わせる強烈な個性がある。ただし、小説に充てはめる必要上、エルザは少しは改竄しているはずだが、アラゴンとまだ結婚していない頃の、エルザを渇望する、またその肉体を求めるその内容を、小説の一部として公にしておきたかったのだろう。となれば他のラヴ・レターもエルザがかつてもらったものかという想像に及ぶが、筆者はそうであったと思う。解説によれば本書に出て来るラヴ・レターは7人のもので、それをジュスタンは適当に選んで次々に読んで行くが、読んでいないものも多く、本当はもっと多くの男から愛をささやく手紙をもらっていたかもしれない。アラゴンと暮らす以前の20代のエルザは大いにもてて、ラヴ・レターをたくさんもらったはずだ。それらは捨てにくいものだが、本書でも束にされて埃を被っているので、持ち主は捨てないまでももう忘れている。おそらくエルザもそうであったのが、ふと存在を思い出し、それらを利用して小説が書けないかと考えたのだろう。富士正晴の最後の小説『恋文』は踊りの師匠とその弟子が交わした手紙を順に書き写したもので、創作の度合いはほとんどない。本書のラヴ・レターはもらった女性がどういう人物であるかの想像を掻き立てるための道具だ。ジュスタンはラヴ・レターを整理せず、適当に選んで読むので、書かれた順には読まず、また全部を読まないので、ラヴ・レターをもらった女性について読者も断片的にしかわからず、もどかしい思いをしながらほとんど最後まで読むことになる。
その点が物語として面白い『幻の薔薇』とは全く違って、エルザは意地悪だ。ジュスタンは手紙をもらったブランシュという女性の年齢を手紙から推定し、30歳くらいかと思う。これは『幻の薔薇』のマルティーヌが死んだ年齢より上で、エルザはあえてそういう世代の女性をもうひとりの主役にした。先のアラゴンとおぼしき手紙以外はだいたいつまらないもので、本書でもそのように扱われるため、ラヴ・レターの書き手が合計7人と数えないで次々に読み進むが、これらのいわば退屈なラヴ・レターを読み進みながら、ジュスタンも次第に手紙を受け取った以前の家の持ち主のブランシュに関心を抱く。つまり、「これほどもてる女性とはどういう人物で、今何歳で、どこで何をしているのか」という思いだ。また手紙でブランシュがマダムと呼ばれているので、夫がどういう人物であるのかの興味もある。夫がいながら多くの男からラヴ・レターをもらう女性はフランスでも珍しいのではないか。また手紙の中には、ブランシュが書き手と会って一夜をともにしたことに言及するものもあり、それがブランシュが結婚以前か以降かわからないが、人並みに男性経験があったということだ。ジュスタンの行為は他人の秘密を覗き見するようで、いい趣味とは言えないが、魅力のある、謎めいた若い女性となると、一旦興味を抱くとのめり込むのは男の本能だ。それに、映画界にはいないタイプの女性と感じ、監督として何かぴんと来るものがあった。そのことはほとんど最後に書かれる。手紙を読み進めながら、次第にジュスタンはブランシュに魅せられ、ラヴ・レターを書いた男たちに嫉妬する。これはよくわかる心境だ。家を斡旋した不動産屋に訊ねれば、ブランシュがどこにいるかなど、いろいろわかると考えるが、ジュスタンはそうする前に一通の手紙を手にする。それは宛先不明で1年もかかって差出人に戻って来たもので、ブランシュが書いたものだ。それを開封せずにブランシュに手渡すべきだが、ジュスタンは開封して読む。多くのラヴ・レターを読んだ後、それらの受け取り手の女性が書いたものを読むことは最大の情報源だ。そして一読したジュスタンは打ちのめされて泣き崩れる。こう書かれる。『ジュスタンは突然、すべての思考、すべての目標、仕事に対する情熱が失くなるのを感じた。彼は無気力な人間、つまらない世間というものを不快とは思わずに皆と同じようにその中で生きている駄目な人間にすぎなかった。』 これはエルザの人生訓の反映だろう。ラヴ・レターの男の愛のささやきはブランシュにはもはやどうでもいいもので、それゆえラヴ・レターを全部一緒にして打ち捨てておいた。ということは、本作の大部分は結末の重要なことに対するゴミのようなことだが、そのゴミのようなことを通過して人は目覚める。ブランシュは自分が真にやりたいことを見つけ、それに身を投じたのだ。

その意味でブランシュは『幻の薔薇』のダニエルと同格だが、本書のジュスタンは打ちひしがれながらもやがて復活する。それはブランシュへの憧れ、尊敬、愛からだ。また彼は自分が出来る方法でそれをする。そのことはアラゴンによるエルザ賛歌の詩と同じで、作品を通じてエルザは永遠に記憶されることになった。これ以上の愛情があろうか。ラヴ・レターを書く男は平凡だが、愛する女性への思いを不朽の作品として昇華させ得るのは稀な才能のみだ。ジュスタンはそれをしようと決心する。またそのことをブランシュは知ることがない。それを知りながらジュスタンが行動するのは、傍目には悲しみ、狂気に見えるが、尊敬する相手を称えるには相手が生きていようが死んでいようが関係ない。尊敬は最大の愛情だ。女に不自由しないジュスタンが、多くのラヴ・レターと1通の本人の手紙のみを通じて自分の卑小さを実感し、またそこから蘇るという話は、芸術をTVと同じような娯楽と思っている人にはわかりようがない。筆者は最後まで読んで震え、しばし体が凝固した。ジュスタンの決心は美しい。だが、ブランシュのそれは命を賭けたもので、さらに美しい。パリに戻ったジュスタンはたまたま手に取った新聞でブランシュが砂漠で行方不明になったことを知る。彼女はパイロットで、それは実在の人物のアメリア・イアーハートを思わせる。アメリアについてはジョニ・ミッチェルが76年だったか、「アメリア」と題して歌にした。ジョニはエルザの本作を知ってその曲を書いたのではないだろうが、自立した、そして勇気ある女性としてエルザがアメリカを敬愛し、その同じ思いをジョニが抱いた。ラヴ・レターを書いて自惚れている男を後目に、男勝りにも飛行に命を賭けた女性がいた。前述したアラゴンが書いたとおぼしきラヴ・レターには、ブランシュが月に行くことやまた小説『トリルビー』についても言及される。それに本書には月夜が何度か描かれ、最後のそれは原発近くの荒涼とした風景で、それらの光景は犀が月面に佇むような超現実主義の夢のようで、本書を読み終えた後に見た夢は、目覚めた後、現実か夢かわからずに戸惑った。最後に幼ない子どもが出て来て、月を取ってほしいと泣く場面があり、子どものいなかったエルザの子どもに対する優しさが垣間見えて印象的だ。女性の活躍について日本ではかまびすしいが、対等であったアラゴンとエルザからは、女も才能、あるいは覚悟と言ってもいいが、それをもって精神的に自立していることが大事であることがわかる。本書が言いたいのはそれだろう。ジュスタンは当初『トリルビー』の映画化を思うが、それを捨ててブランシュを主役にしようと考える。ならば『トリルビー』はどうでもいいようだが、本書の随所にそれへの言及があり、また一部を引用してもいるので、『トリルビー』から本書を読み解くべきとも言える。エルザへの興味が尽きない。
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