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●「I PUT A SPELL ON YOU」
穴式住居に誰もが住んでいた頃の人間は今より言葉が少なかったであろう。それでも生活が成り立っていたのであれば、言葉はあまり必要ないと思う人がいて不思議ではない。



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実際、学校で文字を学んで文盲ではないのに文章に関心がなく、読みたく人はいる。語彙が豊富で自在に文章を操れる人は、人間の進化から言えばそうでない人より進んでいると見てよく、ノーベル賞に文学賞があることも納得が行く。今夜「風風の湯」で82歳のMさんと話していると、血筋の話題が出て、Mさんは貧しく育てばあらゆる面でその後の成長が閉ざされると意見した。筆者は昨日からピエール・ガスカールの小説『種子』を読み始めていて、そこには彼の少年期のことが書かれている。彼は母を亡くして叔父叔母に育てられた極貧生活であったが、後にゴンクール賞をもらうほどになった。「鳶が鷹を生む」のたとえの代表格と言ってよいが、もちろんMさんはそういうきわめて稀な例外があることは承知しているだろう。逆に言えば、何ひとつ不自由のない家柄に生まれてもボンクラを輩出する。何が言いたいかと言えば、Mさんの言う家柄云々は偏見と受け取られかねないということだ。話を戻すと、語彙が豊富であることは多くの言葉を学ぼうという意識があってのことで、そういう人は覚えた言葉をしかるべき機会に使おうと常に思っている。筆者はさほど読書家ではないが、戦前の本を読んでいるとたまに見慣れない言葉に遭遇し、それが何度か出て来ると自分の語彙に含めていずれ使おうかという気になる。一方、これは京大出の医者と話したことだが、彼はある文章の中では同じことは別の表現を使わないほうがいいと言った。別々の言葉で同じことを表現するというのはおかしなことで、言葉が違えば表わすものが違うはずだが、彼の言わんとすることはわかる。論文では文学的表現は不要で、誰にでもわかりやすく、なるべく語彙を少なくして明確に言いたいことを誤解が生まれないように書くべしということなのだ。これは機器操作のマニュアルや法律でも同じだろう。そこには言葉の綾といったことは不要で、無味乾燥さが尊ばれる。そういう文章は読み手に誤解を与えないという配慮の点では小説と同じでも、個性を極力排除しているので面白みはない。もっとも、論文は個性の産物で、物の見方に独創がある。個性を表現するのに語彙の豊富さは不要ということになり、先日書いたエルザ・トリオレの『ことばの森の狩人』の最後の文章、「私には言葉をもたぬ動物たちの悲痛なさけびが聞こえるのです。」が釈然としない。動物は鳴き声や叫び声で意思伝達していて、それは語彙がきわめて少ない人同士の関係を同じで、彼らだけの間での関係であれば何ら問題はなく、彼らが内心悲痛な叫びを発しているとは言えないだろう。SNSで知り合う人もそうで、似た者同士はどういう時代であれ、何らかの方法で親しくなる。
 人間の叫びは生まれついてのもので、鳥の鳴き声と同じだ。人間だけが使う言葉の原点に動物の叫びがある。ムンクが1880年代半ばに描いた『叫び』は、言葉で表現するにはまだるっこしい思いを表現したものだろうが、ムンクはその思いを言葉を連ねた詩としても表現し、それをそのまま歌詞として曲をつけてノルウェーの女性シンガーソングライターのカリ・ブレムネスは歌った。ムンクは言葉の必要のない絵で表現したのに、なぜ言葉を使って同じ思いを詩にしたのか。絵や言葉、あるいは音楽では表現し切れないものを感じていたのだろう。それがエルザの言う「悲痛な叫び」かもしれない。また叫びは悲痛なもので、悲痛の絶頂にあって人は言葉を失う。だが、絵を描いたり、詩を書いたりすることは、悲痛のドン底で身動きが取れない状態では無理だ。何かを創ることはその何かを客観視することであって、醒めた眼差しが必要だ。つまり、狂気は必要でも全くの狂人では駄目だ。ムンクは自然の中に叫びを見て、それを全身で感得しながら絵画や詩にする冷静さがあった。あるいは発狂するかもしれない恐怖を作画行為で鎮めたと言ってもよい。絵を描いている間は絵に専心出来て無心になれるからだ。そう考えるとエルザの前述の言葉は理解出来る。言葉を持った人間は芸術を生み、そのことで悲痛な叫びを客観視出来ると彼女は言いたいのだ。昨夜38歳の女性パティシエが交際のあった4歳下の男に就寝中に殺された事件があった。男もパティシエで、それは芸術性を必要とする職業だが、恋愛のもつれによる激情は悲痛な叫びを芸術行為に昇華させることがなく、お互い死んでしまう情死の形を選んだ。ムンクも女性からピストルで撃たれて指を怪我したことがあり、独身を通して絵画を自分の子と思う人生を歩んだ。それが可能な名声や経済力のない表現者はどうすべきか。その例が筆者のこのブログと言うつもりはないが、生きることは思うことで、絶えず積もり続ける思いは何らかの形で吐き出せばならない。悲痛な叫びでは全くなくても、自分の関心事を客観視する手段にはなる。さて、先日YouTubeでたまたまビートルズの映画『レット・イット・ビー』に使われなかった映像を見た。当時ヨーコ・オノは36,7歳で、彼女がジョンにくっついてスタジオにいたことは知っていたが、彼女がビートルズの伴奏で歌っていた様子は初めて見た。彼女は同じ69年にジョンと一緒にプラスティック・オノ・バンドとしてステージで同じように悲鳴歌を披露するが、ふたりは71年にザッパと共演し、やはりヨーコは絶叫を披露し、2012年にはジョン・ゾーンとセッションして相変らずの悲鳴を聴かせた。つまり、ヨーコの歌詞のない絶叫曲はビートルズ、ザッパ、ゾーンと次々と時代を代表するミュージシャンとの共演において同じ様式で実現し、彼女の代名詞のひとつが「悲鳴」であったとみなしてよい。
 ジョンは特にその影響を蒙り、「マザー」という曲では母を知らない原体験を絶叫で穴埋めしようとした。そういう心の穴が開いていたジョンにヨーコは入ったが、ヨーコも実の娘と会えないという悲しみを当時持っていて、悲痛な叫び声を上げることでしか、自分を慰めることが出来なかった。それはともかく、ビートルズがヨーコの叫びに合わせて演奏する様子は当時としては最先端のロックで、ヨーコがロックの時代を先取りしていたと自認するのは無理もない。ポールがベースをアンプに近づけてフィードバック音を出す様子は、ジョンとヨーコがザッパと共演した時にザッパがやったことでもあるが、ビートルズがニュー・ロック、アート・ロック、プログレッシヴ・ロックの先鞭をつけたことが、『レット・イット・ビー』には採用されなかった映像からわかる。ビートルズがヨーコの叫び歌を聴いて度肝を抜かれたかと言えば、リズム・アンド・ブルースやロックンロールを10代から聴き、演奏して来たからには、叫び声がひとつの大きな表現であることをよく自覚していた。ジョンもポールも絶叫を発することは得意で、その効果を心得ていた。その絶叫のみを取り出して言葉に優先させたのがヨーコで、そこにはエルザの言う「悲痛な叫び」がある。その悲痛性はジョンが内面深く隠し持っていたもので、ポールはそうではなかった。そこからヨーコがジョンと結びつき、そのことをポールが冷ややかに見ていたことが理解出来るが、母が精神を病んで自殺したという恵まれない少年時代を送ったピエール・ガスカールも「悲痛な叫び」を抱えながら書き続けたと言ってよい。悲痛な叫びを持っていると自覚する者はその発散を上手に統制すべきだが、他者を恨んで挙句殺してしまう、あるいは自殺は避け難く、画家が自殺することもしばしばある。それはともかく、ヨーコの絶叫歌はジャズと言ってよく、共演者との息が絶妙に合うことを前提にした即興で、始まりはさておき、どのように終わるかを見定めながら経過を構成して行く感覚が欠かせない。それは予定調和と言ってよく、その意味で「仮想された悲痛な叫び」であって、悲痛さは真に痛切ではない。芸術とはそういうもので、悲痛さを出来る限り生の形で表そうとしながら、ヨーコはやはり芸術家で、形の美を求める。その形の美、つまり予定調和的に起承転結のある絶叫型の歌唱はどこかに理性が感じられる点で、狂気が露わでありながら狂気を客体化している。それはリズム・アンド・ブルースやロックンロールでも同じで、悲鳴は様式美によって飼い慣らされている。ヨーコの場合はその様式はもっと自由ではあるが、人に聴かせる作品の意識によって形式美は守られている。その形式美は言葉にならないもので、一連の音の連なりとして聴き手は認識するが、鳥のさえずりや動物の鳴き声とは全然違う構成美であって、その意味において絵画や詩と変わらない。
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 2週間ほど前、「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」を思い出し、YouTubeで盛んに聴いた。筆者はこの曲をクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)で知ったが、68年当時のシングル盤の邦題は原題を片仮名に置き換えたもので、その意味を知らずに聴いた人が多かったのではないか。というのは、筆者が京都に来て染色工房を任されていた時に雇ったアルバイトの女性はこの曲の原題の意味を知らず、筆者に訊ねたことがあったからで、「スペル」に「まじない」の意味があることを教えた。今はYouTubeでオリジナル曲を歌ったスクリーミン・ジェイ・ホーキンスの映像が見られるが、半世紀前は情報が乏しく、ジェイ・ホーキンスが歌ったこの曲を知る人は少なかったはずだ。その意味でCCRのカヴァー演奏は大きな意味があった。彼らは4,5年の活動で、あっと言う間に解散して今ではあまり話題にならないが、土臭いアメリカ南部の雰囲気を演出したバンドとして、日本では本物の南部出身のオールマン・ブラザーズ・バンドより当時はよく知られた。それはシングル盤のヒット曲を重視したからで、よくラジオで曲が流れたからだ。アルバムが高価であった60年代末期、金のないロック・ファンの若者はラジオでヒット曲を聴くことが中心で、FM放送でアルバムの全曲を聴かせることが始まった頃であった。シングルカットされたCCRの「スージーQ」はジョン・フォガティの歌とギターがなかなか格好よく、また2分半の倍以上あったと思うが、彼らにはユーモアが欠けていた。そのことをジェイ・ホーキンスの「アイ・プット・ア……」と比べるとよくわかる。そして当然のことながら、今なら圧倒的に本家のホーキンスの歌がよい。この曲は1956年にヒットしたが、筆者は記憶がなく、日本でのシングル盤発売はなかったのではないか。当時日本盤が出ていれば、この意味がわかりにくい原題は日本独自の題名がつけられたであろう。CCRの盤がそうしなかったのは、原曲に敬意を表し、まさか勝手な邦題をつけようとは担当者は思わなかったからに違いない。だが、印象に残りやすい邦題がつけられないものか。ラヴ・ソングで、好きな女がうろうろすることを、まじないをかけて止めさせようとする男の気持ちを歌うが、映像からはよくわかるように、ホーキンスは歌い方に若干の笑いを持ち込み、真剣な愛の告白というより、気分的な余裕、一種の遊び感覚としての「まじない」を持ち出す。「ア・スペル・オン・ユー」で思い出すのは日本の「耳なし芳一」の話で、これは怨霊から逃れるために全身にお経を書く男の話だが、ホーキンスの言う「スペル」は、自分が相手に憑りつくための呪文だ。そのため、原題は「お前に呪文を書いてやろう」という意味だが、これでは長い。
 日本語の歌詞として歌えるものとなれば、「呪文を書いてやる」、「呪縛してやる」、「呪ってやる」、「お前への呪文」、「呪文」といった表現から選ぶしかない。いずれもシングル盤の邦題としてはふさわしくないが、「呪文」はスティーヴィ・ワンダーの曲なら似合いそうか。「まじない」という言葉を使ってもいいが、本曲では「呪う」という意味合いが大きい。つまり、愛する相手を思いのとおりに束縛したいと歌うのだが、この発想は珍しい。ヴードゥー教の影響を指摘されもするが、実際はどうなのだろう。また呪文は日本や中国でもそれ独特のカリグラフィがあって、文字としては読めない。その意味で言葉にならない叫びのようなものを視覚化したもので、独自の文化を持っている。ホーキンスの歌は彼の「スクリーミン」がいみじくも自称しているように、リズム・アンド・ブルースにおいての叫びを重視、多用したもので、本曲では自分の思いではどうにもならない恋相手の女性に呪符を書いてやると歌うのであるから、魂の叫びを二重に表現している。しかもその方法がどこかコミカルで、その余裕さの表現から聴き手はおどろおどろしい呪術に対して緊張を和らげられる。この曲は700ものカヴァーがあるとされるが、そのように歌うのは彼だけであろう。極上のエンターテイナーであったことはYouTubeのどの映像からもわかるが、棺桶から起き上がって髑髏が先端についた杖とともに歌う彼の姿は、彼が死んだとは思わせない魔術がある。彼は自分が歌う映像が残り、たとえばYouTubeで気軽に鑑賞されることを想定しなかったはずだが、棺桶から蘇った死人が歌う曲とした演出はレコードからはわからず、彼は生演奏を重視していたと言ってよい。ショーは聴くだけの楽しみさではなく、見ることに大いに意義があるとする、オペラに通ずる考えで、ホーキンス以上にその楽しみを演出した黒人ミュージシャンがいたであろうか。マイケル・ジャクソンのような派手な踊りはないが、ホーキンスの顔の表情や仕草は明るい道化者で、また彼が黒人であることがわかっているだけに、その明るさのはるか奥に潜む悲痛な叫びを思うとなおさら彼が天晴に思えるが、黒人差別をどう考えていたかはわからない。ジャズではルイ・アームストロングが笑顔を振りまいた代表と言ってよいが、彼らのその態度を卑屈と見る意見に筆者は同調したくない。ともかく、ホーキンスは言葉にならない愛の悲痛な叫びをおどけて見せる余裕で表現し、観客を大いに楽しませた。その叫びはジョンやヨーコのそれとは違うが、思いの丈を吐き出さずにはおれない点では同じで、筆者はどのミュージシャンの叫びにも大いに同意する。ムンクの「叫び」は人形に表現されるなど一般化したが、ホーキンスのこの曲も改変の余地がないほどに完璧で、そしてユーモアを含む。
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by uuuzen | 2020-08-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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