耐え難き暑さを耐えて、貪り読んだ。先ほどエルザ・トリオレの『ルナ=パーク』を読み終えた。日本で未刊の第3作目『魂』の内容を知りたくてたまらない。
原書を買ってネットの翻訳サービスに頼りながら読む手もあるが、フランス語を学んで自分で訳すとなると、長生きしての話だが、残りの人生を費やす必要がある。『幻の薔薇』は1957年から翌年にかけて書かれた。エルザ61歳から2歳にかけての作で、『ナイロンの時代』と題した3部作のうちの最初だ。小説に限らず、面白くない文章は価値がない。読む気を起こさせないものは書き手に工夫が足りない。本作は読み始めると展開が気になってのめり込んでしまう。『ルナ=パーク』もそうであった。2作を比べるとエルザの女性観がわかり、『魂』の内容が大いに気になるのだが、英訳本があればそれを読もうか。「ナイロンの時代」の「ナイロン」は今ではあまり使われなくなったので、本作や「ルナ=パーク」も古臭い感じがするが、ナイロンよりもプラスティックがどちらの小説にも出て来る。そのため「プラスティックの時代」とすれば、プラスティックが氾濫して大いに困っている現在の人間社会をより暗示したものになった。一方で思うのは、ガリマール社が美術叢書『L’univers Des Formes』の1冊として67年に刊行した『Afrique noire』(黒人アフリカ)の副題「La Création plastique」(可塑的創造)だ。これはアフリカ美術を「何物にも囚われない自由な創造」という意味において「プラスティック」と形容していて、本書は同書以前の出版ではあるがエルザはアフリカ美術がそのように形容されることを知らなかったはずはなく、女性に身近な「ナイロン・ストッキング」や「ナイロン・パンティ」から「ナイロン」を時代を代弁する最良の言葉として選んだのであろう。実際本書にはナイロンのパンティが登場し、またほんのわずか布切れであるヴィキニの水着も出て来る。そうした新文明の商品は還暦を迎えたエルザが批判的に見ていたことは想像に難くない。では本書は女としてとっくに終わったと男からは見られる高齢の女性が若い女性の淫らな生活を風刺したものかとなると、そこまで辛辣ではないが、女性には何が必要かをほのめかしていて、『ルナ=パーク』はその点がさらに強調されている。女性に必要なものは魅力だ。これは男も同じで、それを感じて他者は接近する。その感情を愛と名づけていいが、本書も『ルナ=パーク』も愛についての小説で、愛にのめり込み、振り回される人物を描く。その愛は肉欲を含みながらそれを超えた、崇高と呼んでよいものだが、純愛物語といった安っぽい形容は全くふさわしくない。むしろ成就されない、挫折の愛を描く。あるいは愛は成就されると消えてしまうもので、追い求め続けるところに永遠性があると言いたいようだ。
本書の感想をどう書けばいいか、筆がなかなか進まない気がする。概説してしまうと、これを読む人はもうわかったと思って本書を手に取らないかもしれない。それは惜しいことだ。感想を書きにくいもう半分の理由は、エルザが本書で何を伝えたかったのかがよくわからないからだ。それを筆者はずっと考えているが、主人公の若い女性マルティーヌの愚かさを嘲笑する気になれず、むしろ精いっぱい生きたと思う。本作でマルティーヌは年配の男から、第1、第2とうまくやり通せたので、第3の段階もうまく泳ぎ抜くようと言われる。ところが結果的にはマルティーヌはしくじる。エルザはその原因を戦後の高度成長期によくあった、時代の波に飲み込まれた愚かさとして描くが、思い通りに行かなくなった彼女の姿は、今の日本では無数の同じ例がある。それは自分がしっかりしていなかった、つまり性格の弱さによるものと断言してよいとは限らない。順調に見えていた人生が明日どうなるかわからないことは、新型コロナウィルスの出現からもよくわかる。ローンが払えなくなって家を手放す人がいて、彼らの人生設計が甘かったと非難することは酷だ。マルティーヌは頑張り屋で、仕事を怠けず、また借金で首が回らなくなった時、身を売ってでも穴埋めしようなどと思う尻軽女ではなかった。自分をしっかりと持っていた女性であるにもかかわらず、人生は早々と頓挫してしまった。ではエルザはマルティーヌに何が欠けていたのかと言いたいのだろう。マルティーヌの母は性に奔放で、父親が誰かわからないが、たぶん村長だろうとエルザは書く。マルティーヌはパリから車で1時間ほどの村外れに、村長に建ててもらった小屋に母と異父兄弟、それにマルティーヌの父ではない父と暮らしている。子どもたちはあまりに貧しく、新品だった頃の色合いや柄がわからないほどの服を着て野生児といったところだが、マルティーヌは学校に入ると成績優秀で一度聞いたことはすぐに覚える。そして器量がよく、とても目立った。母は住まいから半径50キロ以内には他に比べようのないほどの、男を引き寄せる魅力があって、結婚してからも別の男と家のベッドで寝るが、夫はそれを目撃して相手の男を刃物で刺そうかと思いながら文句を言わない。どのようにしても妻の奔放さは直らないと諦めているのだ。その母の性質をマルティーヌは受け継いだかと言えば、これが正反対と言ってよく、10代で好きになった村のある男ダニエルに一途で、彼が一瞬でも振り向いてくれることを終日道端で待つほどだ。ダニエルはマルティーヌを子どもと思って相手にしないが、やがてマルティーヌは女らしく成長する。16歳頃か、村のお祭り日に美人コンテストが開かれる。マルティーヌはそうしたことに関心はないが、周囲が囃し立てるので舞台に上がる。そして優勝し、その完璧な美しさにダニエルも見惚れてしまう。
女は誰でもそういう脱皮時期があるものだが、誰もが認める美形はめったにない。もちろんその基準は人によりけりで、それゆえ本作の映画化はマルティーヌにどういう女優を起用するかで、読者の多くは自分の思いと違うことにいささか幻滅を覚えるのではないか。その点、言葉のみの小説は想像を掻き立て、その想像の中に読者は自分なりの完璧な美を形づくる楽しみを得る。想像している間がいいのであって、現実が手に入ると後は慣れがいずれ起こるだけであることを誰もが知っている。とはいえ、手に入るのであればその現実をほしいと誰もが思っている。人生はそのほしい現実を手に入れることと言ってよいが、そのことには際限がないだろう。それに金で買えることは味気ないから、金やまた自分の力ではどうにもならない対象をしばしば人はほしがる。夢想するだけならいいが、具体的な行動を起こして人生を費やすことは賭けだ。エルザにはそれがあったが、マルティーヌにはなかったと言ってよい。あるいは目標が物欲に囚われ過ぎていた。マルティーヌは自分の美貌を意識していたようには描かれず、また自分で稼いで自分の好きなモノに囲まれて暮らす以上の大それた夢も持っていなかった。その点は日本の同世代の娘とは大いに違うと思う。今は自分が美人であるかそうではないかをよく知り、美人でないと思う女性は美容整形手術を受ける。愚かなことだが、そのあたりまえのことを本書は書かず、類稀な美しい肉体と顔を持ったマルティーヌでさえも人生を不本意に終わらせなければならなかったことを示し、日本の若い女性がマルティーヌのことをどう思うかということに筆者は関心が湧く。ところで、本書は巧みな比喩が多く、さすがの才能と思わせられるが、こんな面白い表現もある。神は人をちょうどよい状態に作り上げることはめったになく、たいていは作り足らないか作り過ぎて、なかにはぶよぶよに太ってしまう人がいる。10代半ばのマルティーヌは完璧な美を有し、おまけに物覚えがよいが、彼女は将来有利になるために上の学校に進むべきという先生の言葉を聞かずに中卒で就職する。詳しくは書かれないが、家庭の事情からそうするしかなかったのだろう。その選択肢のなさに同情を禁じ得ないが、マルティーヌは決めた道に果敢に歩み、実力を発揮して行く。とはいえ、安月給の雇われ人で、身分相応の暮らししか出来ない。学校を出る頃、マルティーヌを娘と同じように思う親切な女性が現われる。彼女はパリにある美容院の経営者で、マルティーヌはそこで働く。女性を美しくする仕事はマルティーヌに似合っていたが、本を読まない彼女にお似合いの仕事であったとも言える。誰もが振り返るほどの美貌を持っていれば、今ならタレントか女優になるだろう。マルティーヌはそうなっていてもよかったが、おそらくエルザはそういう業界について詳しくなかったのだろう。
それにタレントや女優は美容師からそう遠くない職業だ。エルザはそういう職業を嫌悪してはいなかったと思うが、さほどの関心もなかったであろう。外見の美は一時的なものだ。薔薇の花の最も美しい期間が1日であるのと同じように、美女もすぐに老ける。本書も女性が周囲からちやほやされなくなった時の惨めな気持ちについて書く。それはマルティーヌの思いではなく、エルザは一般論として書いているのだが、魅力が人並み以上と自他ともに認める美女もいつかは10代、20代の美女に席を譲らねばならない。ネットやTVでは若く見られることに時間と金を費やせという広告を毎日見るが、本書の別の箇所では、若く見られたい行為は滑稽とある。滑稽であっても若く見られるほうがいいと考える女や男が多いのが現実だが、年齢はどうあがいても隠せず、「若く見えますよ」という言葉はお世辞だ。では若いとはいつまでか。本書の最後のほうでマルティーヌの母が46歳で死ぬ。マルティーヌはそれを高齢と言う口ぶりだが、母は死ぬ間際まで抱いてくれる男に不自由せず、女として幸福であったと言う。ではマルティーヌの幸福は何で満たされたか。パリで働き始めた彼女はダニエルと遭遇し、すぐに恋仲になる。ダニエルは学生で、彼女と寝ても結婚を迫られず、遊ぶのにはいいと思うが、やがて結婚したくなり、彼女を田舎の家に連れて行く。ところがマルティーヌはパリにすっかり染まっていて、田舎暮らしを好まず、美容師を辞めようとしない。母代わりの経営者の女性夫婦から買ってもらったアパートにふたりは住むが、研究に忙しいダニエルはしばしばアパートに帰らない。あるいは帰れない。そこからふたりの結婚生活は次第に無理が生じて行く。ふたりの財布は別で、マルティーヌは自分の給料で家具調度を整えて行くが、ダニエルに援助はしない。ダニエルは薔薇の品種改良をしている家柄の三代目で、これまでの勘と経験に頼る新種改良ではなく、遺伝子を研究して目指す香と色、形の薔薇を作り出そうとしている。それはかなりの冒険、賭けで、財産を一気に失う可能性があり、父は好ましく思っていない。そういう大変なストレスの中、ダニエルは苦学を続け、大量の本を読み、学業優秀で卒業し、やがてどこで働くにも困らない資格を得もする。そんなダニエルになぜマルティーヌは人生を添わせようとしなかったのか。第16章に書かれるように、稀な美貌に恵まれていたマルティーヌにも「やり遂げる力」があった。昨日書いたように、それはげろを吐く麻薬中毒でアル中の男をとことん愛し続ける女にもあったもので、エルザにはないものであったと、エルザは言いたいのだろうが、実際はエルザにも「やり遂げる力」はあった。そうでなければ本書や『ルナ=パーク』のような面白い小説が書けるはずがない。マルティーヌの「やり遂げる力」は彼女の仕事柄にもよるが、住まいを快適にすることであった。
フランスでは戦後の高度成長期で、また見栄えのよい物が皆無の状態で育ったマルティーヌが好みの家具調度品に憧れ、それを自分の働きで次々に手に入れて行くことは無理もない。それにクレジットつまり月賦で買う方法が整っていて、マルティーヌは借金に追われる。後半生をどう生き抜くかを考えればいいのに、周囲から美女と認識され、自分の働きで金がうまく回っていると、将来もそれが続くと考える。経済的に困窮するマルティーヌを雇用主は助けるが、それで追い着かないほどにマルティーヌはさらにモノを買う。「ナイロンの時代」とは新商品が無数に市場に出た時代であった。消費文化の中で消耗して行く人をエルザは本書で描きたかったのだ。マルティーヌは子どもの頃からダニエルが見初めた唯一の男で、結婚後も他の男に目を向けることはない。言い寄る男はたくさんいたはずだが、ダニエル以外の男に魅力を感じなかったのだ。一方、ダニエルを含めて誰とでもすぐに寝る女も登場するが、だらしない女を小説の主人公にする考えはエルザにはなかった。そういう女はいつの時代にもたくさんいて、どのように描いても同じようなものになる。そこにロマンがなく、小説になりようがない。今はネットのアプリでその日のうちにでもセックス相手を見つけられるようだが、それがあたりまえと思っている人に本書や『ルナ=パーク』はわからないし、そもそも読もうともしない。そう言えば、昨日書いた日本の有名な女性小説家は、美女に生まれていれば毎晩男を漁ってセックスしまくっていたと発言していた。何と下品と思ったが、億の金を持っているのでいくらでも男は買えるだろう。研究に勤しむダニエルと、借金に追われるマルティーヌは次第に生活が離ればなれになり、マルティーヌはダニエルの子を妊娠するのに、ダニエルに言わずに堕胎する。ダニエルは自分の仕事に理解のないマルティーヌに不満を抱き、やがて美人ではないがもっと賢くてダニエルの将来に大いにプラスになる女性が現われ、ダニエルは彼女と結婚するためにマルティーヌと離婚する。ここは残酷だが、ダニエルはマルティーヌの若い美貌が眩しくて結婚はしたが、予想に反してマルティーヌはダニエルの家業に理解がなかった。薔薇作りの名家の三代目という家柄と、父親が誰かわからない貧しい出自のマルティーヌは、もともと似合わなかった。賢かったマルティーヌはもう少し夫の仕事や将来を考えれば、27歳で死なかった。本書ではその頃のマルティーヌが甘い物好きで、肉体美が失われていたことをほのめかす。女は30代になれば知性を身につけるべきとよく言われるが、それは誰に言われるまでもなく、10代から決まっている。それにマルティーヌの母やマルティーヌのようにほしい男が手に入るなら、「ロマンなどクソ食らえ」で、面倒臭いことを考えずに本能に率直に生きたほうがいいと思っている女が圧倒的に多いだろう。
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