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●『幻の薔薇』はじめに
念がエルザ・トリオレに『幻の薔薇』を書かせたのだろうか。全30章のうち、ちょうど半ばの第16章冒頭に、エルザは小説とは関係のないことをほぼ1ページにわたって書いている。



●『幻の薔薇』はじめに_d0053294_01340674.jpgそのことがこの小説を書くきっかけになったのかどうかはわからないが、読了して考えるに、表向きは無関係だ。そうであるだけになおさらその文章が異様に際立っている。ところで本作はフランスで映画化された。アマゾンでの評価を見ると芳しくない。筆者は見ようと思わないが、アマゾンの評価を気にしてのことではない。本作はいかにも映画時代の小説で、それゆえ却って映像で固定されると本作の味わいが失われるだろう。それはともかく、今日は前述の第16章冒頭に挿入された文章についてのみ書くが、映画ではその部分は無視されたはずで、その意味からも本作の映画化は無理がある。ただし、映画ではメイキング映像的なものをあえて挿入するなど、実験的と思えるようなことがなされたようで、それはエルザが本作の第16章冒頭に小説の筋立てとは無関係な自分の経験を吐露していることを意識してのことではないか。ともかく、今日は第16章冒頭についてのみ書く。順序としては本作全体の感想を書いた後に『続き』と題して別に投稿すべきだが、本書の半ばに登場する文章であり、また小説とは直接の関係はないので、予告的に今夜書いておく。エルザはロシアでフランス人の軍人アンドレ・トリオレと知り合い、その翌年の1919年にパリで結婚した。23歳の頃で、結婚適齢期だ。夫婦でタヒチ島に行き、エルザはそこで得た題材で小説をロシア語で書く。ところが25歳の頃、夫を残してひとりでロンドンやベルリンに住む。その理由はわからないが、ともかく夫から逃げた。28歳頃にパリのモンパルナスに移住し、32歳の頃にルイ・アラゴンと運命的な出会いをして後に再婚する。ただし、名前は生涯エルザ・トリオレのままで、エルザ・アラゴンを名乗らなかった。その理由も不明だ。アラゴンという姓はアラゴンの父が政府に働きかけて作り上げたもので、母の姓でもなかった。このことをアラゴンがどう思っていたかだが、ピエール・ガスカールによれば名ばかりの父で、経済的援助もほとんどなく、見棄てられたも同然であったから、アラゴン姓を嫌っていたかもしれない。とはいえ、ルイは父と同じ名で、ルイ・アラゴンはなかなか覚えやすく、アラゴンは『ルイ・アラゴン』を気に入りながらも、エルザにアラゴン姓を名乗らせるほどには好んでいなかったのではないか。ともかくふたりは結婚し、死ぬまで添い遂げた。だが、32歳での出会いは女としては少し遅かった。それでふたりの間に子どもが出来なかった気がする。このことは微妙な話で、実際のところはわからない。エルザがアラゴンより先に死んだのは、体が弱かったからだろう。子どもが出来なかったのはそれが理由かもしれない。
 あるいはエルザはアラゴンの子を身籠ったが、極度の貧困もあって流産あるいは中絶したかもしれない。とにかくエルザは宝石を売ってアラゴンとの生活費に充て、アラゴンは大事にしていたブラックの絵を換金してホテルの滞在費を賄おうとしたのに、絵の代金が振り込まれず、自殺しようとしたことがあったから、30代の彼らは爪に火をともす生活を強いられた。詩で食べることは困難だ。ところが後年の彼らはパリから車で1時間ほどだろうか、ネットで検索すると画像が出て来るが、2ヘクタールの土地つきの大邸宅を所有し、そこで暮らした。現在それはふたりの記念館になっている。アラゴンの詩集が日本を初め世界中で読まれたので、印税は莫大であったのだろう。それはともかく、28歳から32歳までの4年間、エルザはモンパルナスでひとり暮らしをした。そこは芸術家が多く集まる地域で、エルザはそういう人種との出会いを望み、また楽しんでいたのだろう。そしてアラゴンと出会ったから、望みはかなえた形だ。アラゴンとの出会い以降のことはあちこちに書かれているが、独身時代の4年間のことについては、彼女は小説などに書いているのだろうか。28歳から32歳までは、普通なら何人かの男と出会い、結婚を考えるはずだ。ましてやエルザのような美人であれば男は放っておかない。エルザは最初の結婚が失敗であったので、男を見る目が肥え、文才のある知的な男を探していたのではないか。その点、アラゴンは最適であった。とにかくアラゴンはエルザにべた惚れし、男がひとりの女を愛し続けた代表格と言ってよい。筆者はアラゴンとエルザ夫婦からジョンとヨーコを連想するが、双方には40年の開きがある。その40年で時代は大きく変わった。アラゴンとエルザが出会った当時にはロックンロールはなかったが、ジョンとヨーコから40年後に相当する2008年に、ジョンとヨーコになぞらえ得る世界的に有名な表現者夫婦が現われ、またロックンロールに代わる時代を画する新しい表現が生まれたであろうか。そう考えると、アラゴンとエルザ、ジョンとヨーコの表現は古びておらず、参考にすべき点は大いにある。そうそう、ヨーコはジョンがビートルズで有名にならなければ、リヴァプールの酒場で飲んだくれのちょっとした詩人で終わっていた可能性があると発言したが、ヨーコが出会ったのは高名なビートルズのジョンであり、彼女がロンドンの画廊でジョンを知った時、彼のことを知らなかったというのは嘘だろう。現代芸術家のヨーコが情報に疎いはずがなく、また計算高かったはずで、ジョンが母性を欲していたことを見抜いていたであろう。エルザはどうか。彼女はアラゴンより1歳上で、アラゴンを振り向かせる術を知っていたと思う。色目を使うというのではない。エルザの出自を知ってアラゴンは仰天したはずで、エルザによってその後の人生が決まった。
 モンパルナス時代、エルザは多くの表現者と知り合ったであろう。有名になる者より無名で終わる者が何十倍、何百倍もいることはいつの時代も同じだが、最初はみんなドン底暮らしだ。本書第16章にエルザはモンパルナス時代のひとりの素敵な女性との出会いを書く。彼女の名前や職業などはわからないが、前述のようにエルザは小説に書いたかもしれない。その彼女には麻薬中毒で飲んだくれの恋人がいた。その男はエルザを見初めてエルザの住まいにやって来て関係を迫ったが、エルザは困惑し、難を逃れた。その騒ぎを、エルザが知る素敵な女性は知り、エルザにこう言った。『あなたには度量はないわ。へどを吐いている男を愛するなんて、あなたにはとても出来ないでしょう。とことん男を愛することなんて出来ないわ……。あなたはすべてが美しくて、整っていなくちゃならない。あなたを軽蔑するわ。』 この言葉は棘のように時々エルザの心を痛めた。本作は1959年の出版であるから、30年後も言われたことを気にしていた。エルザが「美しく整っている」ことが好きであるというのは、彼女の知的な顔からもわかる。ヨーコはジョンがリヴァプールの酒場で飲んだくれていたならば、声をかけて恋人になろうとしたであろうか。それはあり得ない。麻薬中毒でアル中、美女を見れば片っ端からモノにしようとする男はいつの時代も無数にいるし、そういう男に惚れる女もいる。似た者同士だ。「とことん愛する」は聞こえがよく、一途で純粋な愛情を自慢する場合にはつごうがよい。女はそういう自己犠牲に酔いたがる。一方、ダメンズとわかるとさっさと逃げる女もいるが、彼女たちを薄情と言えるだろうか。彼女が逃げてもダメンズはすぐに別の女を手に入れる。ダメンズ好きの女は無限にいる。そういう女はそのことに気づかないほどに視野が狭い。いつか何かのきっかけで目覚める場合があるが、その頃に女として終わっている年齢であれば、ずるずると仕方なしに同じ男を愛する。そうするしか寄りかかるもの、つまり人生の目的がないからだ。また、麻薬中毒でアル中、女にだらしない男が一流と評価される作品を創造するか。ミュージシャンにはそういうダメンズは多いと思うが、稀に一流になっても早死にする。つまり、エルザがモンパスナスで知った素敵な女性とその恋人はエルザとアラゴンのようには有名にならず、名作も残さなかったに違いない。ではなぜエルザは心を痛めるのか。それほどに優しい心の持ち主であったということだ。「美しく整っているもの」は筆者も好きだ。美に携わる仕事をしている者ならば当然だ。ただし、その美意識には差があって、「美しいが整っていないもの」が好きと言う人もあるだろう。それが具体的にどういうものか筆者にはわからないが、美女でも多くの人から言われる欠点がどこかにあり、その欠点も含めて美しいと思える女性はたまにいる。
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by uuuzen | 2020-08-27 23:59 | ●本当の当たり本
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