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●『ことばの森の狩人』続き
ねるとどれかが疎かになる場合が多いと思うが、相乗効果が期待されることもある。昨日エルザ・トリオレの『幻の薔薇』を読み終えたが、一昨日感想を書いた『ことばの森の狩人』について補足しておく。



エルザは時代を読む能力と進取性があった。流行に敏感なのは女性の特徴だろう。本書が1969年に書かれたことは、その当時をよく知る筆者の世代にとって、より本書に関心を抱く理由になっている。たとえば同じ年度に書かれたアラゴンの詩や小説は、本書のように時代に鋭敏に反応して言葉に反映させてはいないのではないか。これはエルザがアラゴンと違って俗受けする流行作家の度合いが強かったことを意味しない。エルザはその顔写真からもわかるように、知的さが横溢し、日本の女性小説家にはない気品もある。話は脱線するが、目下家内は『風とともに去りぬ』と読んでいる。細かい文字がびっしりと詰まった分厚くて重い本が2冊だ。筆者は10代でその同じ本を読み、ヴィヴィアン・リー主演の映画も見たが、家内は映画しか知らなかった。時々家内はその本のことを筆者に話し、さすがに名作だけはあるといったふうで、長編小説の醍醐味を堪能している。先日知ったが、その小説を「超訳」した本が売れている。日本の有名な女性小説家の手になるもので、彼女は英語の原書から訳したのだろうか。どうもそうとは思えず、すでにある邦訳から抜き書きしただけではないか。そうだとして、原著者が生きていればその行為を許すだろうか。小説の最も小説らしい箇所は、著者が書いたそのままを読まねば把握出来ない。「超訳」は翻訳ではなく、抜き書き及び改竄だ。それで金儲けするとは呆れるばかりだ。筆者はその日本の小説家の本を読んだことはなく、今後も読む気はないが、読まずとも著者の顔や態度をTVで見ているだけで質はわかる。エルザに話を戻すと、彼女は平均的あるいはそれ以下の女性に嫌われるだろう。ほとんどの女性は知的ではないからだ。痴的な話題が好きな女はいつの時代にも大量にいて、金を持っている男をいかにして色気で捕まえようかと常時思っている。そしてお似合いの男をモノにするが、そういう女は服や化粧品に金を使ってもまず本は買わない。スマホひとつあれば情報は無料で手に入ると思っているし、知的なことに興味を抱いても、そのことに金を使いたくない。いずれにせよ、そういう女性は視野が狭いままに自分の幸福を味わい、それで納得して人生を終えるが、それはそれでひとつの人生であって誰からも称賛されないが、非難されることもない。つまり、他者にとってどうでもいい人生で、簡単に言えば取るに足らない。一方、エルザは名を成した目立つ女性で、彼女は自分の小説に命を賭けた。またそれは先の女性小説家のように売れれば何でも書くという下衆な人種ではなく、1冊ごとに目指すものがあった。アラゴンはそういうところを見抜いて口説いたのだろう。
 本書の終盤に、いかにも69年の執筆とわかる記述がある。それはシンガー・ソングライターへの言及だ。69年はロックでは「アート・ロック」と呼ばれるものが登場し、男女問わずにシンガー・ソングライターが雨後の筍のように登場した。現在の日本のシンガー・ソングライターの原点に彼らがいるが、筆者の見るところ、60年代末期から70年代初頭のアメリカを中心としたシンガー・ソングライターの作品を分析研究し、それを発展させようとしている才能を日本では見かけない。あるいはもうシンガー・ソングライターの真に創造的な仕事は半世紀前に終わったと言ってよい。そのとおりだろう。詩人であるだけでもたいしたことだ。そこに作曲の才能と、歌うことが巧みという、三つの才能を兼ね具えることは途方もない天才だ。そのような才能が半世紀前にあったかとなれば、筆者はジョニ・ミッチェルを思い浮かべるが、最近筆者が書いたように、彼女の曲をぴたりと聴かなくなって久しい。彼女の曲はやはり流行歌で、時代が違った現在、とても古臭く感じる。それに、彼女が描いた油彩画(アクリル画だろう)と同じく、薄っぺらさも思ってしまう。彼女は自分が作詞家、作曲家、歌手、画家として前人未踏の才能を示したと自惚れていたようだが(現在闘病中で過去形にするのはまずいが)、前にも書いたように、彼女の写真を模写した絵画がジョージア・オキーフの絵画のように美術館に飾られ、歴史に刻まれることはあり得ないと断言する。エルザは本書でこう書く。「このごろよく見かけられるのは、著作者=作曲家の、さらには、著作者=作曲家=歌手の増加、同じ一人の創造者に等しく分割された多様な才能の特異さです。」 このシンガー・ソングライターの活躍が、間接的にエルザに多様な小説の方法を試みさせる契機になったであろうが、エルザはシンガー・ソングライターの仕事の困難さを述べる。「詩の作曲、二重の霊感――詩人プラス音楽家――は、本文の挿絵制作に劣らず明らかに危険をともなうものです。歌の場合にはそれは、ある詩篇の単なる虐殺にはじまり、本文の無理解をへて、ついには音楽無用の事態に達する場合もおこりうるのです。音楽が詩と食違うのですから。」 こう書いた後、古典的な成功例として、ハイネの『歌の本』の詩から選んで作曲したシューマンの歌曲を例に挙げるが、読者はアラゴンの詩がシャンソンにしばしば歌われたことを知っているし、アラゴンが書いたエルザ賛歌の詩がシャンソンとなったことで、エルザの名前をより有名にしたことも承知している。そして、エルザはこう続ける。「最初に弓矢をはなつのは、つねに書き手です。」 つまり言葉に作曲家が歌にするが、詩は韻律があり、少ない言葉で多くのことを語っているので、才能に乏しい作曲家が曲をつけると、「詩篇の単なる虐殺」の事態が起こる。あるいは大衆芸能の世界ではその「虐殺」が面白がられる。
 それほどに詩は神聖なものとの考えだが、シンガー・ソングライターは詩にほとんど無縁の知性の乏しい大衆に向けて作詞作曲するのであるから、ハイネとシューマンの幸福な作品合体例をそもそも望んでおらず、また望んでも無理だ。メロディが同じなのに歌詞が違う曲がよく作られる。それは曲が詩より優先していることを示し、前述の「最初に弓矢をはなつ……」は該当しない。つまり、音楽は言葉なしに存在し得る。そうなればシンガー・ソングライターの存在意義がどこにあるかと問うことになるが、エルザが本書で書くように、シンガー・ソングライターの本質は歌手だ。ラジオで曲が紹介される場合、歌手の名前は挙げられても、作詞者や作曲者の名前はそうではない。ひとつの歌の中で何が優先するかと言えば、作曲でも詩でもなく、歌手で、エルザはピカソがオペラ『カルメン』を画題に多くの絵を描いたことを、ピカソは歌手の役割を果たしていると書く。そこでエルザが考えるのは、小説の中のあらゆる言葉に伴奏をつけることで、その小説を『オペラ』と題して夢想するも実現されなかった。「小説を豊かにするためには音楽があるかもしれない。だが、小説をどんどん痩せ細らせてダイジェストにしてしまうと、語が欠落するだろう。語こそは小説の肉そのものであるのに。」 ここで前述した『風とともに去りぬ』の「超訳」を思うと、日本の有名女性小説家がいかに酷いことをしているかが見える。一昨日触れたように、エルザは「絵入りの小説」を上梓した。その絵は自分で描いたものではないのでエルザはシンガー・ソングライター的な小説家ではなかったが、文章の伴奏としてイメージを使った。「著者が既存の絵のなかから見つけて選びとった絵が、小説と一つの有機的なまとまりを作って、そこに語と同じ資格で存在する場合には、ひとり著者だけが、それらの絵をテクストのなかのふさわしい場所に、ちょうど語についておこなったように置くことができるのです。」 こう書くエルザのその小説は、図版の大きさや配置場所が厳密で、ガリマールの製版工は大いに文句を言い、指示どおりに版組をしなかったそうだが、その小説の邦訳がないことはそこから理解出来る。日本の本はページの開きが反対で、本文も縦組だ。『創造の小径』叢書も、原書と比べると、版が裏表になっていたり、図版の位置が不自然であったりしている。それはともかく、エルザはイメージを小説の伴奏にすることに成功したので、次は音楽をと考えたのだ。そして言葉と音楽の合体としてオペラがあるが、小説的なるものを活かしたうえでの言葉本位の作品だ。そこには映画の影響があるだろう。エルザはこう書く。「人々が互いに話すかわりに「歌を歌い」あったらどうだろう。音楽となった人生。『シェルブールの雨傘』。不可能だ。われわれは鳥ではないし、みんながみんな音楽家というわけではない。」
●『ことばの森の狩人』続き_d0053294_16154707.jpg
 絵画や写真を、また音楽を小説の伴奏にしたいという考えは、「まず言葉ありき」の考えを表わしているが、このことを画家や音楽家がどう思うかはひとまずどうでもよい。絵や音楽にしか表現出来ないことがあるので、絵画や音楽があるが、ピカソの『カルメン』を元にした絵や、シンガー・ソングライターの曲は言葉がなくては存在し得ない。またよく言われるように、音楽はそれだけでは何も意味しない。長調は快活で短調は物悲しいというのが一般的な見方だが、音楽はそんな単純なものではなく、音階は長と短のみではない。本書からまた引用する。「演説と詩の朗読と詩の歌唱とのあいだの相違は何なのでしょう? どんな機会に人は、正確に言うと、音楽にじょじょに熱中するのでしょう? ……私には、言葉を聞く耳と音楽を聞く耳は違うものだと思われるのです。」 この最後の言葉は興味深い。シンガー・ソングライターの曲は歌詞と曲が一体化して耳に届くが、時に歌詞が全く入り込んで来ない場合がある。英語の場合は特にそうだと言えるが、日本語の場合も同じで、あるいは日本語のほうがなお意味不明と感じることがある。それは単に作詞の能力が劣るからと言えるが、英語の曲から影響を受けたメロディに日本語の歌詞が馴染みにくいからだろう。英詩の韻と日本の詩との差が同じメロディに載ることが可能かという問題で、そこには唱歌が大きな答えを与えているように思う。もっと言えば、日本のシンガー・ソングライターの曲は欧米の彼らにかなわないということだ。アラゴンはフランスの最も古い吟遊詩人の詩を分析し、その韻律で時代に見合った詩を書いた。日本で言えば平安時代の歌の形式を共産主義の闘争の詩に蘇らせることだ。そのような短歌が60年代の日本の若者によって書かれたことを筆者は知っている。学生運動に身を投じた人から昔筆者はそれらの短歌集を見せられたが、2,3読んだだけで辟易した。アラゴンの詩は学生運動で怪我を負った仲間を思いやるような直接的な内容ではなく、隠喩に富み、香しい。本書に話を戻すと、「言の葉」の章では「言葉とは、どの葉も欠いていない一本の樹の全貌の幻影、樹そのものだけでなく樹のさわやかさ、木陰、避難場所、霊魂など、いっさいを述べる幻影を創りだす、あの何枚かの木の葉なのです。」と書き、その後「ところでページをめくってください」と書く次の見開きページに、本書の外箱(原書では表紙)に印刷される、イタリア・ルネサンスの画家マゾリーノの「楽園のアダムとイヴ」の画面上部の蛇の拡大図を載せる。その蛇は木の葉に紛れてろくろ首の女として描かれ、エルザは同じ表現者としてそのことを大いに信頼することを書く。原罪の介在者が女であるという見方は男尊女卑的だが、女のエルザはそのことに同意していたのであろう。また、言葉の森を狩人として巡るのも女と思ってのか、筆者はエルザと直接言葉を交わしたかった。
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by uuuzen | 2020-08-25 23:59 | ●本当の当たり本
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