皓々と照る満月の夜に見れば奇怪さはひとしおだろう。ロマネスク期の西洋の教会の外側にはグロテスクと呼ばれる半身半獣の彫刻がよく飾られた。
それはゴシック期になっても引き継がれ、またゴシック寺院は壁が薄くなったので、外観は複雑になり、それにしたがって外観を飾るグロテスクな彫像もより工夫を凝らし、雨樋を兼ねるものも出て来た。そうした奇怪な彫像をガーゴイルと呼び、パリのノートルダム大聖堂のそれは有名だ。去年同大聖堂が焼けたので、ガーゴイル群がどうなったのか知らないが、観光客はコロナもあってまだ立ち入ることは出来ないだろう。また以前でも夜のガーゴイルを間近に見ることは許されなかったはずで、満月を背景に夜空に浮かぶガーゴイルは想像するしかない。あるいは昼間に撮った写真を夜景に変えることはたやすいはずで、夜のガーゴイルの写真がネットにはあるかもしれない。さて、今日取り上げる映画は10日ほど前に見た。家内は気味悪い内容なのでブログに感想を書くなと言った。それでもせっかく見たので何か書いておこう。まず本作は先日感想を書いた
『10ミニッツ・オールダー』の1編を撮ったフランスの女性監督クレール・ドニによる2002年の作品だ。彼女の風貌が筆者好みなので、興味を持ったのだが、本作を選んだのは、『ガーゴイル』という題名とは別に『Trouble Every Day』の題がついていることだ。どちらが副題というのではなく、後者はドニ監督が最初に望んだものだろう。それではあまり映画の内容にそぐわないので、アメリカや日本では前者が選ばれたのではないかと想像する。だが、『ガーゴイル』は主人公の若い男女がパリに着いてノートルダム大聖堂に上り、間近にガーゴイルを見る印象深い場面があることと、本作がセックス相手の性器を性行為の最中に食べてしまうというグロテスクな内容をテーマにしているので、「トラブル続きの毎日」という意味の題名よりかはわかりやすい。そのわかりやすさをドニ監督は嫌ったのかもしれない。『Trouble Every Day』はザッパのデビュー・アルバムに含まれる曲の題名でもあって、それで筆者は本作をまず見ようと思ったが、内容はザッパの曲の歌詞とは関係がない。ただし、ドニ監督はザッパの同曲を知っているだろう。ドニは本作を54歳で撮ったが、特典映像に彼女へのインタヴューがあって、そこでの彼女はとても老けて見える。18年後の現在はさらに老化しているはずだが、女は化粧などで化けるので、実際のところはわからない。「など」と書いたのは、恋心によって若返るからだ。彼女なら若くて逞しい男優にすぐに惚れ込みそうだ。それは悪いことではない。監督業を目指す者、また俳優は人間に惚れやすいだろう。そうでなければいい映画は撮れないと思う。脚本が重要なことは言うまでもないが、最も目立つのは俳優の人間力だ。
ドニはインタヴューで本作はかなり以前から撮影の話があったと発言している。またこれまで撮った作品は本作を撮るための準備であったというようなことも言っている。優しい表情の彼女が異常な性行為に関心を持っていることは信じがたいようだが、人が殺される場面に性的に興奮する例は、パゾリーニ監督の『ソドムの市』に描写された。その場面は、ある部屋から中年男が双眼鏡で庭先で行なわれている乱交を眺めているのだが、若い男が女の目玉を刳り抜く場面を見て、中年男は射精する。あるいはそのことが暗示された。ヒトラー政権下では同じようなことが行なわれたであろう。『愛の嵐』はそういうことをほのめかす場面があって、ある男が愛する女のために、その女が好いていた男の首を箱詰めしてプレゼントする。そういう映画の系譜上に本作を置いていいが、もっと直接的なきっかけがあった。それは80年代初頭に日本人男性がパリで女性を殺して肉体の一部を食べたという事件だ。不思議と言えばいいか、殺したその男性は終身刑にならず、日本に帰って来てからはあちこちに姿を現わして有名人となった。精神異常が認められたので懲役刑を免れたのかどうか知らないが、ともかく、相手を食べたその事件は愛し過ぎた結果とみなされ、西洋では、特にフランスでは、語弊はあるが、「よくやった」という感嘆の思いが勝ったようで、人間には食人への嗜好が潜んでいることが改めて認められた。そのことをドニがどのように思っているかが本作からわかる。ただし、食人を勧めては公序良俗に反する。それで食人趣味を持つ主人公の男は、かつて研究医であったが、金儲けのために魂を売った人物とされ、パリに姿を現わしてかつての馴染みの医者たちに会いに行くと罵倒される。つまり、ろくでもない人物として描かれている。そういう人物であるので、女を見れば性器に齧りついてそれを食べずにはおられない性癖の持ち主であることが、観客に対して理屈の上では納得させるように描かれている。またその男のかつての恋人も男から教えられたのか、男と性行為をする時はいつも男を食べてしまう。ドニは、実際は男根を齧る場面を撮りたかったのだろうが、その代わりに男の喉や口を食いちぎる場面がある。その彼女を家で匿っているのが若い黒人医師で、彼は自宅で彼女の食人趣味を治すために薬草を研究し、薬を開発しようとしている。だが、彼女は自分の性癖は治らず、彼に殺してほしいと言っている。精神を病んでいることを自覚しているのだが、男を見ればスカートをまくって性器を見せつけ、性行為に誘って相手を食べてしまう。そんな事件をまた黒人医師が不在の家で犯し、その直後に主人公であるかつての恋人がその家を探し当て、血まみれになっている彼女の姿を見る。そして彼女がたばこを吸うために点けた火が火事の原因となって家は燃えてしまう。
そこに黒人医師は戻って来るが、呆然とするばかりだ。一方、かつての恋人を失った男は、パリのホテルにいわば新婚旅行として若い女と泊まっている。パリに向かう飛行機の中で男はトイレに入るが、なかなか出て来ないのでスチュワーデスが扉を叩く。中で男はオナニーをしているのだが、その時に思い浮かべるのが血まみれの女の姿だ。そういう猟奇的な場面を思わねば射精出来ない体質になっているのだが、そのことを新婚旅行の彼女は知らない。ホテルで彼女が風呂に入っていると、男は彼女の股間をまじまじと見るのに性行為をしようとしない。彼女とセックスすることは彼女を食べてしまうことで、それで我慢しているのだが、彼女はついに男が風呂でオナニーしている場面を目撃する。見られた男はホテルから出てかつての同僚の医者に面会に行く。それは前述した黒人医師が食人趣味を治癒する薬を開発中であることを知っているからだが、前述のように、その研究部屋も燃えてしまう。ホテルにひとり残された彼女は、男が壁に放った精液に触れながら、なぜ自分を抱いてくれないのかと悲しむが、まさか男に食人趣味があるとは知らない。もうひとり股間が大映しになる女性がいる。ホテルに務めている娘だ。彼女が最初に登場した時から、そのうなじを映すなど、男の餌食になることが匂わされる。また彼女は模範的な勤務人ではなく、宿泊客に用意したものを自分のポケットに入れたり、またシーツを替えたばかりのベッドに乗ってたばこを吸ったりするなど、襲われても仕方がないようなだらしない女ぶりが描かれる。そういう一種の因果応報的な描写はないほうがいいと思うが、襲われた彼女にも一抹の非があるように描かないことには納得しない観客がいるだろう。本作のポスターやDVDのジャケットは、その彼女が主人公の男に抱かれようとする直前の場面で、これは本作のほとんど最後に登場する。彼女はその男がチェックインした時から男のことが気になっていたようなところがあり、映画が進むにしたがって次第にふたりの距離が縮まって行く。そして予想どおり、ある日、仕事が終わってロッカー室で帰宅の着替えをしている時に男は現われ、彼女に迫る。女には毎日ホテルまでバイクで送ってくれる恋人がいるが、恰好いい男に迫られるとその気になる。これは不自然ではないだろう。誰も見ていないとなれば、儲けものと思って身を委ねる女のほうが多いと想像する。男は女の上に乗りながら、女の下着を脱がせ、股間に顔を埋める。女は陶酔の境地からたちまち苦しみ始めるが、男が股間を食っていることが容易に想像出来る。それにしても食らいつかれたその瞬間に体を起こして男を殴るのが現実ではないか。あるいは恐怖のあまり、身がこわばって、なされるがままなのか。実際はどうかわからないが、噛みつかれた瞬間に興醒めし、また悲鳴を上げて逃げるのが当然ではないか。
80年代初頭の日本人男性による食人事件は、遺体の一部を切り取ったと思う。本作では生きたまま食べるという筋立てで、とにかく血まみれになる場面が頻出する。よくぞ俳優たちが演じたと思うが、見るほうは作り事であるとわかっているので、恐いと思うかたわら、滑稽さを感じる。ドニ監督は食人をする主人公ふたりを大いに気に入って、その演技力も買っているが、真面目に演技すればするほど、演技であることがより鮮明となって、滑稽さの感情が湧いて来る。それでは本作は失敗だが、そのように見られることも見越して本作を撮りたかったと考えるしかない。もうひとつ思ったことは、女性の股間つまり性器は3人のものが、一瞬にしても大写しになったが、男性のそれはひとつもなかった。勃起した男根を撮影すればポルノになるからだが、女性の性器はよくて男性のそれは駄目というのは、本作は男性向きの作品かと思う。ポルノになってもいいのであれば、ドニ監督は勃起した男根を女優が噛みちぎる場面を撮影したであろう。もちろん模型を使ってのことだが。そういう赤裸々なポルノにせず、それぎりぎりの表現に留めたのは、性行為よりも愛情を表現したかったためと考える人があろう。だが、主人公の男は地下鉄に乗り、扉前に立つ色気ある中年女性の後ろにぴたりと立って、いたずらしたそうな素振りを見せる。つまり、愛抜きで性行為し、相手を食べてしまいたいのだ。実際、その男は愛している女とは性行為をしない。この愛情と性行為が断絶されている状態は、やはり精神異常であって、東電OL殺人事件の被害者となった女性を思い起させる。彼女は愛情なく不特定多数の男と性行為することが日課で、生き甲斐になっていた。そのことで彼女は殺されたが、彼女の精神異常がもっと進めば、男を食べていたかもしれない。80年代初頭のパリでの食人事件は、好きであった彼女を食べたのだと思う。本作では性行為の興奮を高めるために男女が誰かれかまず殺人を犯す筋立てで、やはり『ソドムの市』と同じ系列にあって、カニバリズムを主題とする。有名な日本の阿部定事件では、女は男を究極的に自分のものにするために男根を切り落として保管した。本作はそういう特殊な愛情の映画ではなく、性行為の最大の愉悦は相手を食べてしまうことにあるという、精神異常者の悲しい物語だ。殺されてから食べられるのはまだしも、性行為の真っ最中に食べられるのはどういう気持ちだろう。カマキリの雄は雌に食べられながら交尾するが、本作の題名はガーゴイルではなくカマキリ(mantis)でもよかった。なお、本作は最初から30分ほどは登場人物がたくさん出て複数の物語が併行してかなり退屈だが、次第に予想を裏切りつつ、物語がまとまって来る。そしてどの場面も印象深く、筆者は3人の女性ではホテルに取り残される女性が最も好みだ。彼女は男のように短髪で、陰毛も短かった。
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